千葉傳考記 2020.6

  1. そもそも「千葉傳考記」とは何か
  2. 本文
    1. 千葉傳考記卷一
    2. 千葉氏傳統
    3. 平良文の事。
    4. 千葉忠賴誕生靈瑞ある事。
    5. 千葉忠常の事
    6. 千葉常將・同常長の事。
    7. 千葉常兼の事。附、上總介・下總介の始。幷ヶ田に六黨の事
    8. 千葉介常重の事。附、大介稱始の事。
    9. 千葉介常胤の事。
    10. 常胤子息の事。附、六翼の事並に新介稱始の事。
  3. 千葉傳考記卷二
    1. 千葉介成胤の事。
    2. 千葉介胤綱の事。
    3. 千葉介時胤の事。
    4. 千葉介胤宗の事。
    5. 千葉介貞胤の事。
  4. 千葉介氏胤の事。
    1. 千葉介滿胤の事。故に關東八家の事。
    2. 武藏千葉の事。
    3. 武州江戶増上寺開山西譽上人の事。
    4. 千葉介兼胤の事。
    5. 千葉介胤直の事。
    6. 胤直處々合戰の事。幷に持氏・義久生害の事。
    7. 春王丸・安王丸、幷に永壽丸の事。附、永壽丸を左兵衛督成氏と稱する事。
  5. 千 葉 傳考記卷三
    1. 千葉一類敵味方となる事。幷に新介胤宣生害の事。
    2. 千葉介胤直生害の事。
    3. 東下野守常緣東國下向の事。
    4. 東野州上洛丼に詠歌。附、左馬頭政智の事。
    5. 古今傳授の事。
    6. 千葉介康胤の事。
    7. 千葉介胤持の事。
    8. 千葉介輔胤の事。幷に政智と成氏と合戰の事。附、成氏千葉へ落ち再び古河へ歸城の事。
  6. 千葉傳考記卷四
    1. 長尾四郎左衛門逆心の事。
    2. 太田道灌・千葉自胤等所々働きの事。附、成氏と想定との和睦。幷に千葉輔胤卒去の事。
    3. 千葉介孝胤の事。
    4. 武州葛西の千葉の事。幷に孝胤と道灌と所々に戰闘。附、臼井城合戰の事。
    5. 上杉顯定と上杉定正、菅谷原對陣の事。幷に伊勢新九郎長氏堀越御所及び小田原城を攻取ろ事。成氏公逝去の事。附、孝胤卒去。千葉四天王の事
    6. 千葉介勝胤の事。
    7. 千葉介昌胤の事。
    8. 千葉介利胤の事。
    9. 千葉介親胤の事。幷に武蔵野合戰。附、千葉笑といふ事。
    10. 千葉介胤富の事。幷に千葉・小山座論の事。附、北條と上杉・里見・武田等戰爭の事。
    11. 千葉介邦胤の事。
    12. 千葉介邦胤横死の事。
  7. 千 葉傳考記 卷五
    1. 千葉介重胤の事。附、小田原籠城の事。
    2. 鏑木長胤の事。
    3. 千葉家の老臣召出さるゝ事。
    4. 千葉後室東殿の事。
    5. 千葉氏を庵原何某に譲る事。
    6. 千葉權之助と稱する者の事。
    7. 千葉權介俊胤・門井正道の事。
    8. 千葉午介正胤。
    9. 千葉權之助本名門井を改め千葉を稱する事。
    10. 千葉新助噂の事。
    11. 篠塚何某、大久保氏の話を談ずる事。
    12. 千葉重胤系圖等鏑木何某に張り與ふる事
    13. 鏑木氏の事。
    14. 押田氏の事。
    15. 原氏の事。
    16. 石出氏の事。
    17. 海保三吉の事。
    18. 高橋氏の事。
    19. 金田氏の事。
    20. 酒井氏の事。
    21. 相馬氏の事。
  8. 千葉傳考記卷六
    1. 千葉家妙見菩薩を信ずる事。附、鎮宅靈符の事。
    2. 妙見菩薩の佛詠の事。
    3. 千葉屋敷の事。
    4. 辨谷の事。幷に佐介谷の事。
    5. 嶺松寺の事。
    6. 橋場の總泉寺の千葉介石塔の事。
    7. 題總泉禅林之千葉親胤墳墓
    8. 千葉石の事。
    9. 千葉介への感狀の寫。
    10. 千葉新助殿
    11. 千葉中諸寺院の記。
    12. 千葉氏石碑略記。
    13. 千葉氏華押。
    14. 海保三吉角力を好み怪に逢ふ事。
    15. 千葉氏代々卒日異說の事。
  9. 編集者から

そもそも「千葉傳考記」とは何か

「改訂房総叢書ぼうそうそうしょにある「千葉傳考記」です。編集者の奥山は千葉氏に関しては最も信頼があるとしてます。

【解説】 千葉傳考記は千葉氏の事統を記したる書籍中最も信を置くに足るものである。著者は判然とは分らぬ
が、文中に當見
按ずるに云々と記したる所数ヶ所あれば、當見といふ人の著述であらう。けれども、只當
見といふのみにて詳しい事は分らね。序文にも本文にも千葉氏嫡統の断絶た痛惜せるた見れば、或は千葉氏
の遺臣ででもあらうか。而して其の記事享保元文年間までも及べるを見れば、其の著作の年代も略推察出來
る様に思はれる。其の述ぶる所に前後矛盾したる所もあれど、そは代引用したる資料の相違であって、著者自
身の注意の足らざる故ではなからうと想ふ。兎に角千葉氏の事績を調べるには最好の書籍である。(奥山)

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本文

【解説】 千葉傳考記は千葉氏の事統を記したる書籍中最も信を置くに足るものである。著者は判然とは分らぬ
が、文中に當見按ずるに云々と記したる所数ヶ所あれば、當見といふ人の著述であらう。けれども、只當
見といふのみにて詳しい事は分らね。序文にも本文にも千葉氏嫡統の断絶た痛惜せるた見れば、或は千葉氏
の遺臣ででもあらうか。而して其の記事享保元文年間までも及べるを見れば、其の著作の年代も略推察出來
る様に思はれる。其の述ぶる所に前後矛盾したる所もあれど、そは代引用したる資料の相違であって、著者自
身の注意の足らざる故ではなからうと想ふ。兎に角千葉氏の事績を調べるには最好の書籍である。(奥山

千葉傳考記卷一

ルニ家興廢者、命乎時乎。抑千葉氏者、往昔關左之名家、而代々住千總之下州。高其功、其類廣矣。
的統連綿三十代、而其嫡流斷絕焉。惜哉。
タ?其勳功有於青史耳。今也、若其家紋月星者、識田舍之
兒、見而為千葉氏之紋也。恨クワ此家之傳書、稀千世而堙瘞其功業。故索古記、探實錄拾野史、而
筆焉。且記嘗聞之古談、及田鄙之口碑。而名千葉傳考記。惟恐有多洩其勳蹟之實事。庶幾、後人
於其不足、訂其錯者、幸甚矣。

編集者注 「千葉傳考記」自体は漢文?

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千葉氏傳統

千葉氏は、古く關東の名家にして、下總の國の大名なり。代々總の下州に住して、累葉弘く緣家多し。當時他
の諸家に於て、九曜・十曜の紋を著け來れるは、多くは住古千葉氏の縁家・旗下等にて、千葉氏より賜ふ所の家
紋なり。稀ふに、千葉家の事蹟を悉く記せろ書、世に稀なり。然りと雖も、千葉家系及び傳書等の秘する所の者、
亦少しとせず。今や其の中の五六部の書を得て拔萃參考し、其の餘諸史・雜記に探り、古老の密談に索めて、此
の書を成せり。これ名家の事業の理滅に歸せんことを思ふにあり。此の傳記の中、頗る怪異に涉れる事あれど
も、古來の傳說なれば棄てずして合せて書記す。然れども、數十代に涉れる事なれば、今記する所は其の萬が一
而巳矣。

平良文の事。

に千葉氏の系統を考ふるに、人皇五十代桓武天皇の御子一品式部卿葛原親王の御孫高望王、初めて平姓を賜
はりしより、此の御流れの人々は平を以て姓とす。高望の御子平良文之を千葉家の第一代・ ・ ・ ・ ・ ・ ・とし、連綿して廿九代、 長胤に及んで嫡家斷絕せり。時か命か。鳴呼惜しいかな。良文は、延長元年癸未正月、勅命を受け奉りて初めて東國に下向し、國郡を治め、武州葛飾郡平井邑に居住し給へり。同九年、常陸大拶2陸同類一族と不和にして、兄弟兵を動すに至る。相馬小次郎將門、木だ逆意の體見れざる以前、良寨・良文等と力 を合せて國香を討ちし時、數度の闘戰に及びけるに、良水・良文の兵戰ひ負けて利を失ふこと度々なり。同年七

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月、挑戰の時、既に廢亡に及ばんとする所に、北斗七星妙見、良兼の麾前に現はれ、軍を全うして歸る。これ日 頃妙見菩薩を信仰するの故か。又は如何なる熟縁ありて、北星の冥慮に叶ひ給ふにや知らず。良兼今度妙見の擁 護ありて、必死を遁れ、軍を全うして歸らる。因茲、彼の妙見の尊體を求めんが爲めに上州に止り、卵か瑞現に 因って、群馬郡花園村七星山息災寺に至りて、其の靈體を拜し、乃ち負うて去り、弟良文の居所武州平井に來りて、夫の寧體を良文に附す。良文之を拜して甚だ崇敬し、永く以て子孫に傳ふ。是より子々孫々に至る迄、妙
見を守護神と崇め奉る所なり。又上古より平井邑に妙見の社あり。3
良文益々奇特の思をなし、此の尊體を以て、平井邑より秩父の大宮へ遷座し奉る。既にして良文相州鎌倉郡村岡を領して村岡與五郎と稱し、此所にも妙見の社を造立す。其の後、上總國に入りし時、妙見の尊像を上野うえのの郷に 移し奉る。4十二月廿三日、妙見の私を此の地に建立せり。天慶 二年己亥、奥州の夷賊蜂起の時、良文物を承りて之を討つ。其の賞として陸奥守に任じ、鎮守府將軍に補せらる然 るに其の頃箕田源次みつるといふ者あり。彼は左大臣融公の曾孫なり。武勇さかんにして優れるを自稱す。この故に同三 年、兩將軍兵を出し試に雌雄を決せん事を約し、其の期に至りて互に數百の兵を率し、大野に出でて競戰す事 數回あまたゝびなり。 少ありて良文彼に告けて曰く、「無幸の人民を 多く苦めんは無益の事なり。畢竟互の勇力を争うて の事にして、元來宿意の弓箭に非れば、所詮獨身にして其の優劣を決するには如かじ」と、充も諾して戰を止め、武藝を競ふ事を約せり。元來兩將とも弓馬の達人なれば、避矢馳馬、前後左右に變ずる技神の如く、逐に甲乙なきが故に、互に其の妙を得たるを感ずる餘り和を約し、双方兵を引いて其の場を引き揚げたり。是より兩家親睦

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し、恰も兄弟の如くなりけるとなり。同年五月、朱雀天皇の御宇、平親王將門の舊領5下総國
相馬立花郡を良文に下し賜はり、上下總州の介に任ぜらる。これ良文東州に下向して逆賊を誅討し、國政を正し くせるの賞にして、遂に龍驤鷹揚の譽を顯し、夫より以降、良文の子孫東國に繁栄す。所謂る千葉・上總・三浦・
秩父・ 土肥・畠山・大庭・梶原・長尾等の八平氏と稱するは皆此の裔なりけり。6稱するは皆此の裔なりけり。同御宇、良文詔に依つて、軍秘を源經基に傳へられし事ありとぞ。然るに良文、其の歿する所を知らず。
其の靈を夕顏觀音大菩薩と崇號して、其の影堂を下總國東の庄に造立す。故に其の裔孫に至りてタ顏といふは是
が爲めなり。

千葉忠賴誕生靈瑞ある事。

第二代・・・忠賴7良文の嫡子なり。傅に曰く、良文夫婦は假爲化身也。或時は千葉
蓮華の上に乘じて降臨し、吉瑞を示せる事ありとかや。延長年中、忠頼、下總國にて誕生の時、日月光を並べ照 臨し、其の上祥瑞多かりき。產屋より本殿に移し、臣僕等集りて之を賀す。此の日空中より落ちたるか、庭上を 觀るに、月星の象形を備へし小石あり。「天の賜なり」とし、尊崇して秘藏す。其の後此の石偶々醍醐天皇の叙覺 に入り、勅に仍つて千葉石の號を賜はる。故に千葉の稱、茲に始る。其の嫡流は、月星を象りて家紋とし、末流は諸星を以て家紋とす。8
千葉重胤の舊記に目く、千葉家幕の紋に、月に星を出すのいわれは、一傳に日く、古昔下總國、今の千葉の地、湯

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花の臺に、千葉の花出生せり。此の時天人降りて此の花を観る。井垣に懸け置ける天衣を、商人來りて羈み取
る。是に因て天人は、天に上らんやうなかりけり。之を人々見奉り、其の御容おんかたちの艶なるを繪にもうつし置きり。 葛原親王あずまへ御下向の時、彼天人を妃に備へ奉りて、御子出來させ給ふ。御產水を三尺七寸の捲器まげものに盛れ、一 七夜を經て見るに、月・九曜星・五根の笹現はれたり。是よりして其の御子の御幕の紋に月・九曜星・五根の
笹を用ふ。幕の色は水色になすといへり。9或は云ふ、是は良文の事にして、葛原親王の御事にてはこれなしとぞ。予曰く、凡そ千葉氏家紋に月に星を附くる謂れ、又妙見を代々信ずる事、 亦天人と妻合の說、此等は皆千葉家に秘する實傳ありて、猥に談ぜざるを此の家の傳とすと、云々。

千葉忠常の事

第三代・・・忠常10上級介に任ぜられ、上總國大椎城に居す。此の時妙見の尊像を此の地に遷し奉り、上總・下總・常陸の國司とし、能く國民を撫育し、善を賞し悪を罰す。是に依つて國郡其の威風を畏れ、 忠を盡し、孝を勵し、忠常の鷹下に屬せずといふ事なし。近隣の國司領家等、其の威權の甚だ盛なるを冒疾して 逆謀せる者あり。之が爲め私戰に及ぶ事あり。或は洛に赴いて讒訴する者これあり。故に後一條院の御宇、長元元戊辰六月、右大臣賞資公、勅を奉じて検非違使平直方・中原成道を以て征伐使とす。即ち兩將東海・東山の兵を率して總州に發向す。此の時忠常謂へらく、「上京して寃を訴へんと欲すれども、隣國の敵徒、其の間に乘じて我が領內へ亂入せんこと必せり。然らば則ち永く父祖の遺蹟を失はん。如かず、敵を待って之と戰はんには」と。

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是非なく兵を分けて防戰し、敵兵數干を討ち取りたり。されば敵將或は軍を止め、或は謀を變へて競ひ攻むと雖も、每戦利を失ふが故に、兩將も攻擊の術を失ひ、明年己巳十二月に至り、成道は病と稱して歸路せり。同三年
庚午三月、忠常房州に攻め入りて、其の國司藤原光業を追ひ退く。是に依つて寄手彌々辟易して空しく光陰を移 す所に、同年九月、直方は遂に京へ召し還され、同月重ねて勅ありて、甲斐守頼信を常陸介に任ぜられ、忠常を 討たしめらる。頼信則ち坂東諸國の軍勢數萬騎を率し攻め討つと雖も、忠常能く防ぎて敵を近寄せず。
11且、其の 城海に在り、船を悉く隱して渡海の便を絶ちたれば、流石の賴信も方便てだてを失ひて年月を送らる。然るに此の海の 浅瀬を知る案內者を得たりければ、同四年四月廿七日の夜、頼信自ら先駈し、諸兵之に續きて悉く海を涉り、一 齊に城下へ攻め懸ろ。忠常險を恃ん で 守備を怠りしに、敵兵不意の襲來に驚験して以爲らく、「時運既に究ろ所 なり」と。將に城下に出でて決戰せんとするの意あり。賴信之を察し、明くる廿八日早旦に、人を遣して敵す所 あり。即ち「死を善道に守ろは士たろの道なり。其の朝敵の名をなさんよりは、王化に服して地を領するの愈れ るに若かず」と、慇懃に云ひ送りければ、忠常も頼信の言に服し、名符怠状を捧げて拜伏せり。賴信も忠常が早 速自分の諭旨を容れたるを促あり。之を携へて上洛ありし所に、忠常途中に病を得、同五月濃州に於て死去せ り。然れども未だ京着せざるの故にや。首は洛中に送られて緊木に懸けられたりと云々。

千葉常將・同常長の事。

第四代・・・・常将12母は常陸介平正度の女なり。二歳の時、母と俱に常陸國に遁れ、後千葉に歸住し父

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忠常と同じく頼信の言に從つて王命に伏す。是に依つて先祖の舊領を失はず。忠常の家督を継ぎて、上總權介に 任ぜらる。忠常と賴信と誓約ありける故か、賴信・賴義の常將を視ること宛も父子の如しといへり。されば、子 孫代々志を通じて相睦じく交ったりき。永承年中、頼義奧州進發の時、常將之に屬して軍功を盡せり。此の常將 の代に、平の山寺を造営すといふ。平の山寺とは、武州秩父郡慈光山の事なり。慈光山に武州へ下り給ふ別駕の 廟とてあり。慈光山の村の名を平の村といへり。
第五代・・・常長或は常永といふ。13下總權介と稱す。康平年中、源頼義・義家、奥州の安倍貞任・宗任 を征伐し給ふ時、大手の大將を蒙り戰功あり。常長は義家の烏帽子子なり。東大友に住せり。男子五人あり。又八男子を載せたる系図あり。
を家督とし、二男以下、亦領知を分け與ふ。事は後に詳なり。

千葉常兼の事。附、上總介・下總介の始。幷ヶ田に六黨の事

第六代・・・常兼14は、寬德二乙酉年八月十五日生れたり。此の代に下總・上總を併せ領し、一家繁榮す。房 州の內をも領せしとかや。寛治年中、義家奥州に發向ありて、清原武術・家衡を討ち給ふ時、千葉氏族は、義家に屬して奥州に赴き、常兼は上下總州及び常州三國の異心ある者をば速に蘇罰し、東州を治めたり。義家奧州を 不げ歸洛の後、奏を経て常兼を上總・下總・常陸の守護職に補せられ、上下總州介に任じ、從五位下に叙す。常兼に六男子あり。常重を以て機嗣とし、下總千葉郡を居城とす。二男常家をして上總國長柄郡一ノ宮大柳城に居 らしめ、上總介總介に任ず。是より先、常兼は、上下總州て任ぜしむと雖も、今常重を以て下總上總介任

常兼ーー常重
   |ー常家
   |ー常康
   |ー常廣
   |ー常衡󠄀
   |ー胤光

  

7(75)


じ、常家を以て上總介に任ず。爾來兩國の介を分ちて代々任ぜらるる事とはなれり。常家は上總國內黑代を分與 せらる。故に、代々上總介と稱す。三男常康、臼井六郎と號し、下總國印幡郡臼井城に居す。四男常廣、匝瑳六 郎と號し、同國匝瑳郡に居城す。五男常衡、海上與市と號す。同國海上郡に居城あり。六男胤光、椎名六郎と號 し、同國椎名郡に在城す。斯くの如く各領地を分け與ふ。大治元年二月、常兼歿期に臨み、庶子の輩に遺言して 曰く、「汝等各領地を受け、六黨の號を分つ。これ皆朝恩に依る所なり。正に忠勤を抽んで、末葉に至る迄、永く 千葉介に屬して宗家の繁榮を思ふべし。縦ひ世の變ありとも、志を同じうして一家のよしみを忘るゝ事なかれ」とい ひて、同十日、八十二歲にて卒せり。法名勸宥・星群院殿と號す。右六人の兄弟を世に常兼の六黨と稱せり。

千葉介常重の事。附、大介稱始の事。

第七代・・・千葉介常重15永保二年癸亥九月三日誕生なり。千葉介と稱するは、此の常重を初とす。下總國千葉郡に一城を築きて始めて移居す。氏族諸臣の宅も軒を並べ、棟を列ねて、民家大に富み賑へり。鳥羽院 の御宇、元永元年の春、正六位上に叙し、上總介に任じ、當庄捻非違使所の務を兼ね頃かる。天治元年六月、故 ありて叔父常時の讓を承け、相馬郡を領す
 常時は、相馬小二郎とも、相馬五郎とも號せり。常兼の弟常重の叔父なり。相馬郡は將門滅亡の後、先祖良文
 領せしより以來、嫡家代々相傳の所領なり。然るに、常長深き志ありて、常晴を相馬五郎と號し、相馬郡を分
 け與ふ。且、常寮・常晴所領同役として地をおくらず。進退領掌せしむといへり。常晴故ありて、彼の郡を猶子

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 常重に誤り與へ、是より後、常重子孫傳へ領する所は相馬郡なり。常時の子常澄は、常重に從はず。故に其の家を失ふと、云々。
 大治二年内午六月一日、父の命に依つて、妙見の尊體を千葉城に移し奉り、同十六日初めて祭禮を執行せり。 同年、伊勢郡職氏基、書を寄せて託宣ありと告ぐ。之に由って九月十五日、妙見の靈蛛を北斗山金剛護

(護一本授) 寺に安置し奉り、靈殿善盡し美盡し、數多の末社を造り成す。粟飯原文次郎常時といふ者16
を神主とし、其の外供僧數輩を附け置きて、懇新の祭禮怠らざらしとなり。常重は、神佛の信仰篤く,
同年日處山満願寺・月處山光明寺等を建立し、同五年六月十日、領地鄉を伊勢大神宮に寄進し奉り、文書を荒木 田延明に附す。今年亦海照山千葉寺観音堂を修造せり。翌年上京して勤仕す。其の夢に依って從五位下に叙せら る。保延元年二月、黑代の所領を嫡子常胤に誤り與ふ。既にして常胤下總介に任ず。是に於て常 重を大介と稱 す。これ父存命にして、其の子介に任ぜらる時は、父を大介と稱すること、此に始まれり。常重九十八歲にし て治承四年庚子正月卒せり。法名善應、照満院と號す。

千葉介常胤の事。

第八代・・・・常胤17は大介常重の嫡男なり。母は常陸國住人不政齢の女なり。頼朝卿四海混一
の後、下總國守護職に補せらる。元永元年戊戌五月廿四日誕生なり。保延元年乙卯二月、常重の家督を綴ぎて、 御厨下司職に補せられ、正六位上に叙し、下總介に任ぜらる。是より先、大治年中、父常重聊か內心の新念ある

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に依って、相馬郡領地一所を伊勢大神宮に貢進し奉り、文書を副へ、永く荒木田氏に附す。地主職に於ては、常
重家督及び子孫進退領掌せらる。既にして、國司藤原親通朝臣在任の時、公田官物の未進ありと號し、保延二年 七月十五日に及んで、常重身を召籠められ、旬月を經ろの後、勘負白布若干に準ず。同年十一月、厩目代紀季、 押して相馬・立花の兩鄉の新券を書し、恣に署判を書取る。共の後康治二年、源義朝朝臣、常澄の浮言に就きて、 常重の手より厭狀の文を責取りて、之を掠め領すと雖も、神威を恐れて永く太神宮の御厨となすべき由、避文を すゝめしむ。事は詳に天養二年三月十日の證文に見えたり。既にして上州八丈絹等及び縫衣泣に砂金を以てし、 其の上上馬丼に鞍置馬若干を加へて國庫に進濟するに依って、常胤を相馬の郡司とし、郡務を知行すべきの旨、 國判を賜はる事、父常重の例の如し。時に久安二年四月なり。同八月十日、家例に任せて文書を添へ、相馬郡一 所を伊勢大神宮に寄附し奉る事、先規の如し。後白河天皇御宇保元元年、新院千戈を御起しなさる」の時、常胤 は左馬頭源義朝の催に應じて、一族を引率し、內裏を守護し奉りて軍忠を盡せり。永暦元年、相馬郡の御厨、亦 朝敵義朝私領の疑ありて、遂に國衙より之を没収す。是に由って常胤證文を呈示し、國史に斷り、彼の領地にあ らざる事を陳ぶと雖も、未だ官廳裁斷の告を聞かざるの故、是に於て權門に向って之を訴ふる所に、太神宮の御 厨たる事明白たる故を以て、右大臣藤原公能より伊勢の祭主へ仰せ下さる。時に永暦二年の事なり。同四月、常 胤文書を稻󠄀木大夫に贈って其の事の由を告ぐ。治承四年度子四月、源頼朝卿は以仁王の令旨を蒙り給ひて、義兵 を起さん事を謀り、五月上旬、潜に藤九郎磁長を使として千葉に來らしめ、其の密意を傳へたり。常胤應諾せら る。是より先、六男東胤頼洛にありて、近日「國なさんとせし時、常胤書を胤頼に興へて、「歸途必ず頼朝卿に

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し申されよ」と云へり。既にして胤賴豆州に入り、六月廿七日、北條の館に於て頼朝卿に面謁し、互に密事を談
ぜし事ありき。同廿八日、賴朝卿の使として藤九郎盛長亦小中太光家と俱に千葉に來り、院宣の旨を述べて、 愈旗を擧ぐろの期を約して歸る。同八月賴朝卿、豆州石橋山に兵を起す。常胤は金田小太夫賴炊をして石橋山に

赴かしむるに、未だ到らざる內に、頼朝卿の軍利あらずして房州へ退き給ふ。同九月七日、三たび藤九郎盛長を 使として千葉城に來らしめ、「近日上總國に赴かんとす。たぶ卿の來ろを待つ」と侮へらる。常胤對へて、「余豆 異心あらんや。速に一族軍兵を率して參上すべし」となり。同十三日、頼朝卿房州の要島より上總國に到り給 ふ。爰に常胤はまた胤頼の言に由って、今日上總の敵兵を討たんと欲し、乃ち胤頼18と成胤19とに命じて、
先づ目代家に火を放って攻擊せしめ、胤頼遂に目代の首を獲たり。十四日の夜、成胤千田庄領家判官親政と相戰 ひて之を虜にす。十七日、頼朝卿下總國府に入り給ふ。是に於て、常胤は子弟一族等を率して參候拝謁し、且、 先づ囚人親政を御覧に供して、其の趣を演說せり。頼朝卿いたく悦喜 ありて、常胤に打向はれ、「予は今より卿を 以て父の思をなすべし」と宣ひて、厚く之を賞し、同人を座上に講じ給へり。又常胤は森冠者賴隆を誘引ありて、 初めて頼朝卿に謁見せしめ給ふ。これ頼朝卿の叔父森六郎義隆の息男なり。賴朝卿悦び給ひて、これ亦座上に講 じて極めて慇懃なりき。斯くて、一同に拜調を賜ひたろ後、頼朝卿は初めて千葉城に入り給ひけり。常胤やがて
常胤やがて 驚沼の地を經營して旅館に供しけるが、20常胤一日頼朝卿に打對ひ、
「當國の地は要害宜しきに非ず。それ相州鎌倉は、公の御先祖賴義朝臣の舊蹟なり。然れば、彼の地に将營を定 めらるべくや」と有りければ、頼朝公には其の言に随ひ給ひ、同十二月三日、旅館を出發あり。常胤・廣常

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21等三萬餘騎を引率して隨從し、太井・隅田の兩河を步りて、武藏國にぞ到着しける。然る
に、此の頃伊北庄司常仲叛逆を企つ。是に依つて、嫡男胤政に命じて將となし、同三日上總國に赴かしめて、悉 く之を討ち獲たり。同六日、頼朝卿相州に着陣あり。常胤これが殿後たりき。而して頼朝卿、鎌倉を御館と定め らるゝ時、常胤も鎌倉辨が谷に館を賜はりて住す。故に辦が谷殿と稱せしなり。22 .同十六日、頼朝卿、鎌倉を出
で給ひて、駿州に向ひ給ふ。同廿一日、賀島に到りて、從軍の士に命じて宣く、「維盛・忠度等の北ぐろを追て、 洛に入らんや、如何」と。常胤諫めて曰く、「佐竹が黨常陸國に在り。先づ之を下げて後、關西に赴かしめて然る べからん」と。頼朝卿其の言を然りとなし給ひ、それより鎌倉に節陣あり。同廿三日、勲功の賞を諸將に充て行 はるに、常胤を以て最初となせり。十一月四日、頼朝卿は常胤等の宿老に背議して、愈々佐竹を誅伐せんと欲 し、自ら諸將を帥ゐて常州に向ひ、不日にして之を討ち不げ給ふ。壽永二年、上總權介廣常を誅戮し給ひ、彼の 所領を常胤と和田義盛とに賜はりけり。同三年23正月、頼朝卿は範頼・義経を兩將となし、常胤等の諸軍を率
して上洛せしめ、先づ木曾義仲を討伐し、而して後に、平家を追討せしめん爲に、攝州に向はしむ。常胤は氏族を相具し、範頼に屬して進發せり。今般の軍旅、常胤其の帷嘘に參するの功頗る多し。同八月、常胤亦範頼に
屬し、更に進んで西海に向ふ。常胤此の時耳順を蹴ゆと雖も、装老を事とせず、風波を凌ぎ、翌年乙巳正月豊後 國に渡る。範賴度々軍事を常胤に謀問する所あり。三月に及んで、頼朝卿は「常胤が老骨を顧みず、遠く邊境に 在りて軍事に心身を労する忠勤は、遠く諸人に抓んづる所なり」とて、親書を範頼に與へ、常胤の功勲を賞ら

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るべきの由を申來れりと云ふ。既󠄁にして平家悉く亡滅し、諸將東國に歸陣の時、頼朝卿は肥前國小城郡を常胤に 賞賜せられたり。これ西國の便宜として宛行はる所なり。同年24十月廿八日、下總國三崎の庄を賜はる。
これ勤節を感ぜらろに由つてなり。文治三年の秋、洛中狼藉の事に就きて、連々院宣の旨あり。因茲八月十九
日、常胤は下河邊行平と俱に上洛して鎮定すべきの旨、頼朝の命を蒙り、各々良馬を賜ひて入洛せしに、間もな
く洛中静謐に臨せしかば、十月八日に至り、功を畢つて還る。叡感からず。兩使の功、莫大なりとす。最も感
賞すべきの由、九月二十日院宣ありしと。同五年己酉七月、頼朝卿奥州の泰衡を征伐し給ふ時、常胤を以て海道
の大將軍とす。是に依つて、一族を催し、常陸・上總・下總の軍兵を引率して奥州に向け進發せり。既にして討
伐功を奏し、國衡は伏献し、泰術は逐電す。八月廿五日、胤頼をして藤原基成を衣川の館に召さしむ。基成父子
手を束ねて降ろ。是に於て、同九月、陸奥・出羽兩國平均の勲功賞與を行はる。常胤諸將に先んじて行賞あり。
奥州の內にて海道便宜の地を下賜せらろ。建久元年庚辰正月、泰衡が家人大河原兼任兵を起して奥州を擾す。常
胤亦海道の大將軍となる。二月に至つて奥州平ぐ。十月三日、頼朝卿上洛の時、常胤を以て殿後とす。同三年八
月五日、頼朝卿下文を諸將に賜はるの時、常胤を以て先とす。これ則ち治承以來、恩賞を施す每に常胤を以て最
初とすべきの豫約あるに依つてなり。其の下文に曰く、所相傳之所領、及依軍賞 充行給處々地頭職等、至
相違云々。而して御判を載せらる。同七年丙辰、下總の守護職に補せられ、且又、濃州に於て加恩
の地を賜ひ、子孫恩澤を蒙れり。其の賴家卿の御代、正治三年辛酉二月、25賴家使を以て慇懃に常
胤の病胸を問はせ給へり。同三月廿四日、常胤卒す。歲八十三。千葉に葬る。法號貞見、淨春院と諡す。又の法

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名は重阿彌陀佛といふ。これ後世貞胤の代に至り、時宗に歸したるに依つて、常胤より以來、代々の法號皆彼の 宗の法諡に改めたるが爲めなりと。

常胤子息の事。附、六翼の事並に新介稱始の事。

常胤に七男二女あり。嫡子胤政26これ第九代・・・の千葉介なり。永治元年庚子四
月朔日生ろ。治承四年以來、父常胤と共に、群弟を相具して頼朝卿に仕へ、軍忠甚だ盡せり。同五年四月七日、 頼朝の仰せに從ひて、胤政每度御寝所の傍に候す。これ御隔心あらず、且、弓箭の藝に達するが故なり。文治三 年丁未九月、胤政下總權介に任じ、正六位上に叙す。是に於て、新介と稱す。宗嗣未だ家督を受けざる以前に、 介に任ぜらろ。之を新介と稱するは胤政を以て初とす。同五年七月、頼朝奥州泰衡を征伐の時、父常胤と相具し て出征し戰功あり。同六年正月、夷賊大河原兼任蜂起の時は、武命を奉じて一方の大將軍として軍忠を抽んづ。 三月に及んで奥州悉く不ぐ。同十月、頼朝上洛の時胤政供奉せり。建久年中、野州那須野原・信州三原・駿州富 士野の獵場に供奉す。同五年八月八日、將軍頼朝卿日向山參詣の時は後軍に候す。同六年二月、将軍家27御上
洛の日は、常胤の例に準じて胤政殿後をなし、氏族等を以て隨兵となす。建仁三年六月、胤政病に臥す。將軍賴 家卿使を以て疾病を問はしめ給ふ。同七月二十日、胤政卒す。年六十三。28 法名常仙院殿觀看。後年與阿
彌陀佛と諡號す。
胤政と師常との間に、池田太郎某と書きたる系圖あり。又千田とも書けり。常胤二男にて、頼朝卿舉兵の時平

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 家に與みす。故に筑紫へ配流せらる々とあり。又本系圖に云く、池田太郎とは、千田太郎胤政の事なり。同人
 を兩人と誤り記せるものなり、云々。
二男師常、相馬次郎と號す。29母は右に同じ。下總國相馬郡は、元これ常晴
30の領地なり。故ありて之を継嗣に授けずして、甥の常重に誤り與ふ。常重・常胤傳へて之を領
せり。而して師常を相馬郡の主とす。是より師常の子孫相續して之を領し、相馬を以て稱號とす。師常は念佛の 行者にて、文久元年九月、 31十五日六十七歲にて卒す。曾て疾病なく、恰も睡ろが如く大往生を遂げたり。
 一の系圖に云ふ。相馬將門に四人の子あり。長男將國を信太小太郎と云ふ。常陸の信太に住すればなり。二男
 小二郎將望・三男將軍太郎良門・第四子は女尼、32なり。將國より八代を重とふ。此の代より相馬を以て
 稱す。重國の孫師國は相馬中務大輔といふ。此の師國子なし。千葉常胤の二男師常を婿養子とし、相馬小次郎
 と號すと。
三男胤盛、武石三郎と號す。是より子孫武石を以て稱號とす。上總國武石郷33を領せり。四男胤
信、大須賀四郎と號す。下總國大須賀を領す。34子孫大須賀を以て稱號とす。五男胤通、國
分五郎と號す。下總國國分鄉を領す。35子孫國分を以て稱號とす。
 六男胤頼、東六郎大夫と號す。弱年の時、上西門院に仕へ奉り、下總東の庄を領す。是より子孫東を以て稱號
とす。 胤頼は平家が天下の權を執りし時、京都に候せりと雖も、更に其の榮貴に詔はず。遠藤左近將監持遠に從

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ひ、上西門院に仕へて、御給を被り從五位下に叙せらろと云ふ。賴朝義兵を奉げ給ふ頃、父常胤を勧めて、最前 に參向せしめ、兄弟の中、殊に大功を抽んづ。嘗て頼朝卿の鳥帽子子にて御諱の一字を賜はれり。殊に賴の字を 諱の下に置くこと、斟酌せしむと雖も、厳命默󠄀止ちだし難くして、胤頼と號せりとかや。那須野・富士野等の御狩の時、射初を仰せ蒙れり。或時、常胤六子に命じて曰く、「所領を分つて汝等に授く。裹祖常兼の例を以て、六無の 家を興さしめん。朝恩に依ろに非ずや。宜しく忠勤を励み、師常以下子孫、永々宗家に属し、心志を變ずる事 なかるべし」と。乃ち六業の家を定む。 胤頼は治承以來出でては將軍家に隨順し、入りては宗家を敬愛して、能 く親睦す。故に彼の後裔は東國に繁榮し、嫡孫胤行は歌人にて、法名暹法師といふ。定家の門人にて、古今傅授の人なり。其の子左衛門尉行氏も歌人にて、續拾・新後の作者なりと云へり。なは、其の子孫に東野州といへ る人は、和歌を能くし世に鳴れり。
 七男は、日胤といふ僧なり。36 律靜坊と號す。園城寺の住持にして、頼朝卿祈禱󠄁の師なり。治承四年、伊
豆國より遙に御願書を附けられ、日胤に之を賜ひて、石清水宮寺に参籠し、一千日無言にして大般若六百巻を見 讀せしむ。或夜の夢に、寶殿より金甲を賜はるの靈夢を感じて、潜に願成就の思ひを感ず。然るに、四月、以 仁王は平満盛を討たんと謀り給ふ所に、共の事發覺して園城寺に逃げ入り給ふ由聞えければ、日胤は武衛の御
願書を其の弟子日慧に託し置き、宮の御力へ馳せ參じけろに、宮は南都に赴かせ給ふ途中、同廿六日、高明山の 鳥居の下にて、平家方の流矢に中つて薨ぜらる。此の時、山胤も、宮の御後に随ひて行きけるが、此所にて同じ く命を頻せり。日慧は又石清水に籠りて、先師の行業を相承け、滞りなく千日の祈願を果しけり。其

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は一寺を下總國に建立し、日胤の爲めに菩提を弔ふ。之を園城寺と號す。是より先、常胤下總國に於て、領所を 午也は本日胤に授けるが、日胤歿後一族をして之を繼がしめ、此の裔は代々園城寺氏某と名乘りけり。長女は幼名午也也かといふ。次女は常陸大掾平直幹が室となり、三男を産む。又曰く、神崎次郎胤37が妻なりと云ふ。

千葉傳考記卷二

千葉介成胤の事。

第十代・・・成胤38は、久壽二年乙亥三月二日誕生。治承年中、祖父常胤と與に軍功あり。同四年、常胤、頼
朝卿に謁し奉らん爲め國境を出づる時、成胤をして千葉城を留守せしむ。同十四日、當國千田庄領家判官代親政、
兵を率して成胤を襲ふ。成胤力戰すと雖も、寡兵にして衆に敵し難く、是に於て妙見を拜し、神威を加へ給はん
ことをろに、忽ち感應ありて大利を得、遂に親政を虜にす。此の戰を結城合戦といふ。成胤十七歲の時にて前
代未聞の高名なりとぞ。其の頃の歌に、妙見菩薩矢を取り給ふといふは、此の時の事とかや。頼朝卿其の靈驗を
聞し召し、甚だ尊崇し給ひ、親しく妙見の社に參詣し給ひ、種々くさくさの品物を奉納なし給ふ。文治六年正月、奥州の
兇徒を鎮定せんが為に、胤政一方の大將軍となって進發す。其の奥州に到るや、戰功最も顯著なるを以て、頼朝
卿より褒書を賜はり、且、軽々しく先登に進まず、本營に在りて其の身を慎重すべき旨を識さる。其辭誠に個款
を極めたり。賴朝卿野州那須野。信州三原・駿州富士野等に御狩の時は、成胤命を奉じて、弓箭を帶び、將軍家

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の左右に候し、非常の警に備ふ。承元三年十二月、成胤下總の守護職に補せらるゝ事先規の如し。建暦三年二月、
安念法印といふ者、港に廻文を携へて諸國の武士に觸れ催し、甘縄の家に向ふ。成胤之を捕へて北條家に告達す。
これ泉小次郎親衛が謀計にて、和田義盛の一類を勧誘し、賴家卿の御子千壽君を翼戴して、北條の氏族を討滅せ
んと欲するの使僧なり。是に由って、同四月廿九日、成胤一族軍兵を率して總州を發す。同五月三日鎌倉に到る。
直ちに幕府に參候し、然る後、義盛等の一類を討って軍功あり。39建保六年戊寅四月七日、成胤疾甚だ
急なり。是に於て、將軍實朝卿、慰問使を賜はる。其の旨頗る慇懃なり。然れども、醫療驗なくして同十日卒す。
年六十四。法名正珍。又仙40院と號す。後に嚴阿彌陀と諡す。

千葉介胤綱の事。

第十一代・・・千葉介胤綱41は、承元二年戊辰正月五日に生る。建保六年、父成胤卒し、胤綱十一歲にて家督
を相續す。是に依つて、將軍實朝公、東胤行に命じて後見なさしめ給ふ。其の外一族等も綱を輔佐して宗家を
守護すべきの由、懇切の仰せあり。承久元年七月十九日、三虎若君42鎌倉に下向ましくしく、新亭に入御の時、
胤綱之に供奉せり。同三年、後鳥羽院北條一族を打亡し給はんとの思召しある由聞えしかば、北條義時は一族を 初め關東諸將に命じ、東海・東山・北陸三道より軍兵を發せしむ。北條時房・同泰時、故に胤綱等は東海道軍に將とし、五月軍を進めて勝利を得、風綱厚賞に預れり。安貞二年五月十八日卒す。年二十一。法號正山榮照院。
後識して臨阿彌陀佛と稱す。

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千葉介時胤の事。

第十二代・・・43千葉介時胤,,建保六年八月十一日に誕生す。父成胤卒去の時、胎中にあり。宗兄胤綱、廿一歲
にて天す。賞子なし。故に時胤を以て家督を相續せしむ。時に十一歲なり。天福九年八月、將軍家44御教書を
賜はりて、時胤の成長するまで氏族輩一致之を輔佐し、以て公事等を勤むべき旨を詠さる。文應二年二月十日、45
頼継卿五大尊に渡御の時、時胤馬一匹を献上あり。嘉禎二年七月、下總國香取証を造替せしむべき由宣旨を蒙れ
り。暦仁元年正月、賴經上洛の時、時胤之に属從す。仁治二年九月十七日卒す。二十四歲。大應常光院と號し、
彌阿彌陀佛と追諡す。千葉の庄にて火葬し、其の遺骨を肥前國小城郡吉の內阿彌陀堂に納むといふ。肥前國小
城郡は、常胤の時、頼朝卿より加恩として下賜せられし所の地なり。
 古より彼の地の俗口に傳ふ。此の時胤天人と契り給ひけるに、年經て天人の天へ歸り上らん事を思ひて、天の
 羽衣を燒き棄てけり。此の無情の恨これあるにや時胤夭死す。千葉に天人の御手洗といふ川あり。また羽衣の
 松といふるありとぞ云々。又、此の說を書き加へし系譜あり。尤も賞事には非ろべし。嫡子賴胤を此の天人の
 子なりといふも、時胤・賴胤を奇妙に云はんとての後人の說なるべし。嫡子賴胤の母は、臼井尊胤が女なりと
 一の系圖にあり。此の天人の談は先祖良文の時の事にいへり。46

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第十三代・・・千葉介賴胤47は、延應元年十二月二十日生る。母は臼井尊胤が女なり。三歲にして家督を相續し、
一族等輔佐して領國を治めたり。名は.龜󠄀若丸。六歳にて鎌倉に赴く時、一族たる國分三郎入道、逆心を抉
み、侍女二人としめし合せ、途中に於て賴胤を殺害せん事を謀る。本間某・澁谷某の兩士、詐つて之に應じ、武州
品川に於て國分入道を討ち、龜若丸を保護して無事鎌倉に入る。寶治元年六月、上總權介秀胤、三浦泰村が叛逆
に與するに依て、將軍賴嗣卿より秀胤を追討すべきの命あり。時に賴胤幼年48なるが故、大須賀左衛門尉胤氏・
東中務入道素をして代つて之を討たしむ。同七日、兩將秀胤が居城上總國一の宮・大柳に向つて急馳し、之を
攻む。主將秀胤を初め、嫡子時秀・二男政秀・三男泰秀・四男景秀及び埴生時常等一族悉く自殺す。たゞ秀胤が
子一人、政秀が子二人、時常が子一人、是等四人は、共に幼稚たるに依って死罪を宥められ、賴胤に召し預けと
なる。其の外、臼井胤時・金田成常等も、此の事に依つて、千葉家へ來り蟄居せり。同十二月、京都大番役の事、
三箇月に限り在洛警巡を致すべきの旨を命ぜらる。同三年、香取の社を造進し、同十日遷宮あり。これ時胤の時
代に宣旨を蒙りたるに依りてなり。建長二年、閑院殿を造営あり。三月朔日、西の對を造るべきの由、賴胤に命
あり。其の後文永三年六月、鎌倉騒動の聞えありければ、賴胤急に總州を發し、鎌倉北條の館に參す。49
是より先、建長年中、肥前國小城郡平吉に於て、一宇の堂を建立し、阿彌陀の像を安置す。後、文永年中更に釋
迦の像を安置して二尊堂と名付く。兩佛體の內へ、父母の遺骨を奉納し、供料の地を寄附せられ、不斷念佛、聊
か退轉なか らん事を沙汰すべきの旨教誠を示し、證書を後代に残さろ。建治元年乙亥八月十六日卒す。年三十
七。常譜長春院と號し、後に珠阿彌陀佛と諡す。

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千葉介胤宗の事。

第十四代・・・從五位下千葉介胤宗50は文永五年九月二十四日に生る。八歲にして家督を相續し、十
三歳の時、弘安三年四月十二日、香取の社を造替すべきの宣旨蒙り、其の土工を催し、十四年を經て、正應六年
三月二日、功を遂げ、遷宮あり。其の造營善盡し美盡せり。同七年、北條時國、六波羅に在りて野心を挟みける
故、鎌倉の執權貞時は、胤宗に命じて時國を常州に流論し、而して後之を誅戮せしむ。同八年十一月、貞時の外
租たる秋田城介泰盛、權威を専らにして、貞時の家令平左衛門尉頼綱と相惡み不和なり。泰盛覧に宗景と與に謀
叛を企つ。貞時彼の輩を誅討するに方り胤宗部兵を率して警稿す。其の後、永仁年中、頼綱が嫡子宗綱罪あり。
胤宗に命じて上總國に流さる。正和元壬子年三月廿八日卒せり。年四十五。淨山清照と號し、後諡は梵阿彌陀佛 と云ふ。

千葉介貞胤の事。

第十五代・・・千葉介貞胤51は、正應四年辛卯十二月十五日生る。元弘二年三月七日、北條相模守高時が、後
醍醐天皇を隱岐國へ遷幸なし奉りし時、貞胤軍兵を率して警固し奉れり。同九月二十日、機內・西國の官軍勃興
の報あり。此の時、高時の命に應じ、貞胤軍兵を率ゐて上洛す。同三年、新田義貞の鎌倉を攻むろや、貞胤官軍
に屬して假粧坂に向ひ、敵將金澤武藏守貞將の強兵を打破り、諸軍にさして鎌倉に乘り込み、所々に放火す。軍

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忠を抽んづろの故を以て恩賞の沙汰あり。建武二年、足利尊氏鎌倉にありて皇命に背き朝敵となる。是に於て一
宮奪良親王、遼に新田義貞に、尊氏・直義退治の節度を賜ひ、節度使は十一月八日52京洛をして東征の途
に上る。同廿七日、義貞は直義と矢矧に於て相闘ひ、官軍勝利を得たり。此の時、貞胤洛に在りけるが、官軍に
從ひて東下し、路次の各職場に於て奮戰す。同三年正月八日、箱根竹下の合戰に、葛山備中守先陣し、官軍敗北
す。偶々、諸國に朝敵蜂起の注進ありければ、節度使は已むを得ず都へ引還したり。同廿三日、奥州高野郡にて
陸奥守家長と相馬胤平兄弟との合戰あり。同廿六日、行方郡にても合戰あり。明くる丙子年二月改元、延元元年
となる。然れども、足利方にては、元の建武を用ふ。正月六日、尊氏都に入り、後醍醐天皇叡山に遷幸し給ふ時、
貞胤殿軍たり。勅使河原父子三人自害し、內裏兵火の為めに炎上せり。結城親光も討死す。此の時、奥州國司北
畠顯家は、義良親王を奉じて上洛し、逆賊尊氏を討たんものと、東國の諸兵を催して出發するに臨み、貞胤の嫡
子千葉新介一胤、數百騎を率して顯家に屬し、同十二日、江州坂本着陣、父貞胤に對面せり。されば、足利方は
顯家の爲に散々に攻め破られ、斯波陸奥守・相馬重胤等は坂本觀音寺に於て自刄、佐々木氏賴が觀音寺の城は陥
落し、大館中務大夫も自害したり。是より先、尊氏の將細川定禅等、三井寺に陣して叡山の官軍を窺ふ。既にし
て、官軍の諸將相議し、十三日の未明に及び、三井寺を攻圍す。千葉新介一胤、潜に其の勢を率ゐて脅より志賀
鄉に陣しけるが、此の日先登に進んで敵陣を衝き、自ら其の中堅に駈け入りて奮戰し、潔く討死を遂げたりけり。
時に敵兵を討ち取ること百五十有餘と云ふ。此の戰ひは官軍の勝利に歸し、寺內は兵火の爲に悉く焦土となれ
り。其の後、貞胤は、或は京中に出で、勇を奮ひ、或は山門に於て善く戰ひ、忠を盡し、義を發し、其の氣勢諸

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人に超越する所あり。同十月十日、後醍醐天皇京師に還幸あつて、東宮北國に啓行し給ふ時、貞胤五百騎を以て
供奉し、越前國木の目峠に到りしが、大雪に逢ひて前路を失ふ。是に於て、貞胤進退究り自殺せんとせし所に、
敵將足利尾張守高經、使者を馳せて、慇懃に告げて曰く、「公能く死を善道に守って、其の志を盡さるゝ事、誰か
感ぜざらんや。鳴呼悲しいかな。千葉大家の遺蹟を滅して、徒に諸卒の命を須さん事を。願くは、枉げて武家に
屬し給へかし」と。 其の語丁寧に、禮を卑くして述べられければ、貞胤計を往路に運して尊氏の座下に屬せらる。
53貞和四年、楠正行兵を河內國に起すや、尊氏諸將に命じて淀八幡に向はしむ。貞胤軍兵を引率して之に
加はり、軍忠を盡すの故を以て、其の武功を賞せられ、次で從四位下に叙せらる。そもそも、当家代々眞言宗を 尊崇し、祖常胤、去る文治丙申年、下總國千葉郡に於て一寺院を開基し、千葉山海隣寺と號せしに、貞胤の世に
及びて時宗に歸依し、悉く先祖の法諡を改め、時宗の法夢を追贈せらる。且、嫡子氏胤に遺言して、震直以來の
影像を海隣寺に安置し、陀阿上人を中興の開山とし、子孫不易の廟所となす。氏胤遺命を奉り、謹んで之を諾す
觀應年中、再び之を營造して免田を寄附し、永く菩提の資となせり。貞胤觀應二年正月朔日、京都に於て卒す。
六十一歲。法號法阿彌陀佛。又善珍浄德院と稱す。

千葉介氏胤の事。

第十六代・・・千葉介氏胤は貞胤の男、母は曾谷某の女なり。延元二年五月十一日、京都にて生ろ。兄一胤は三井寺合
戰に討死せし故、家を継げり。時に氏胤十五歳。是より先、貞和元年乙酉八月廿九日、天龍寺供養の時、尊氏

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の參詣に氏胤後陣を勤む。時に九歲なり。是は幼稚にして未だ家督を相續せずと雖も、其の器を稱して特に命ぜ
らるゝ所なり。其の後、觀應二年十月十四日、尊氏は直義入道惠玄を誅詩せんが爲め、東州に下向あり、氏胤亦
隨從して忠戰を励む。時に十五歲なり。尊氏大に感賞あり。軍終るや、氏胤始めて領國千葉に入り、一族家臣等
の賀を受く。文和元年閏二月、尊氏新田義宗と武藏野に載ふ。尊氏の軍利あらずして石濱に逃ろ。既にして、義
宗は尊氏の將仁木左京大夫義長と戰ひ、軍敗れて笛吹うする峠に退く。廿七日、氏胤尊氏の軍に會し、翌廿八日直ちに
笛吹峠に向ひ、義宗の將上杉民部大夫と戦って勝利を得たり。延文五年四月三日、南方の軍將紀州に出張す。氏 胤も義詮卿54の命に應じて戰功あり。貞治四年乙巳四月、氏胤洛に在りて病に冒さる。是に依つて領國に
歸らんとせしが、命なる、同十三日途中濃州の某驛にて卒す。年廿九。法號其阿彌陀佛。當時天下戰國の世に
して、貞胤東國に居ると雖も、遠國の出征頻繁なるが故に、其の弟右京大夫胤春・刑部大輔胤矩兩人をして、肥
前國小城郡の領地に駐在せしめ、以て西國に出兵の時の將となさしめたるが、以後、其の器に堪へたる氏族を操
拔し同地に往かしめ、同時に千葉の稱號と十曜星の紋とを免許して勤務せしむ。之を西國千葉の軍將といふ。而
して、其の役を去る時は、千葉の稱號と紋所とを差止めらる。又、或は曰く、九州にて菊池猛威を振ひし時は、
一旦の謀を設けて官軍に屬せし事もありけるとなん。

千葉介滿胤の事。故に關東八家の事。

第十七代・・・千葉介滿胤55は、母は新田義貞の女なり。延文五年度子十一月三日生る。六歲にして家督を相

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續す。貞治六年三月廿九日、中殿の法會あり。義詮卿參內の時、滿胤亦行列の中に載せらると雖も、幼年の故を
以て、粟飯原弾正左衛門尉詮胤をして之に代らしむ。應安元年、新田義宗・脇屋義治、上州・越州兩國の間に起
る。これ去年管領基氏卒去せられ、其の弊に乘ぜるなり。上杉憲顯之を討つ。此の時、滿胤家臣をして軍を出し
て搦手に向はしむ。56 既にして新田の兵敗散す。頃年、香取社造替の命ありと雖も、大宮たる故を以て延
引年を累ねぬ。同七年四月廿五日、安富大藏入道・山名兵庫入道を以て兩使となし、營作の功を遂ぐべきの旨、
重ねて御教書を賜はる。然るに、家臣中村式部少輔胤幹、香取の社人長房と領所相論の事ありて、胤幹を召し參
らすべき武命あり。講文を奉ず。又、家臣園城寺式部少輔常忠、井に深志中務丞・內山中務丞等も、社人評論の
事に就きて各和睦せしめ、一族を催して其の力を加ふべきの旨、奉書の辱きあり。大庭次郎57
相馬・上野二

郎・大須賀左馬介・國分參河入道・東次郎左衛門入道・木內七郎兵衛人道・國分六郎兵衞入道・國分與市・國分
越前五郎・神崎左衞門五郎・那知左近入道等一族及び家臣等なり。これ滿胤幼年たるに依ってなり。康暦二年庚
申五月五日、下野住人小山左馬介義政、吉野方と稱し逆心しければ、宇都宮基綱大將として打向ひ、愛原といふ
所にて合戰に及びしが、同十六日、宇都宮敗軍して討死しけり。「小山は關東の御下知に背き、網へ、陳謝の一言
もなきは、謀叛の跡顯然たり」とて、鎌倉右兵衞督氏滿は、永徳元年六月十五日、小山義政退治として、關東十
二箇國の軍勢を引率し、野州を指して發向す。明年三月、小山城陥り、義政自殺す。此の役、滿胤去年以來陣營
に在りて、戦功ありき58 應永五年、鎌倉に八家を置きて關東の事を掌らしむ。所謂ろ千葉・小山・佐竹・
小田59 那須・宇都宮・長沼。結城これなり。同十三年の春、鎌倉持氏の執事上杉氏憲入道岬秀は、滿隆

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60・持仲61を勧めて謀叛を爲し、廻文を以て關東の諸將を催す。此の時、滿胤及び嫡子修理
大夫兼胤・四男陸奥守康胤等之に應じ、同十月、一萬の人數を率ゐて鎌倉に到り、陣を米町表に張る。持氏軍敗
れて駿州に出奔し、其の事情を將軍義持に報じければ、義持直ちに京都より援兵を下し、且、御教書を關東の諸
將に賜ひたり。諸將是に於て初めて禅秀の奸謀に出づる事を知り、速に御教書の旨に應じて持氏に歸屬せり。十
二月七日、滿胤・兼胤・康胤六千の兵を率ゐて、持氏の陣所相州藤澤に參候す。同十二日、鎌倉に於て上杉の兵
と戰ひ、頗る勇功あり。滿隆・持仲・輝秀等敗れ、雪の下に於て自盡す。之を犬懸の禪秀亂といへり。62
同州三年丙午六月八日、滿胤卒す。年六十七。 法號彌阿彌陀佛。63又道山・常簿及び常安64寺の法號あり。

武藏千葉の事。

滿胤の三男に千葉中務大輔賢胤といふ人あり。武州石濱に流さる。其の子、千葉太郎實胤は武州葛西に移り、
後濃州へ没落したり。此の子孫荷は葛西村に住して、武藏の千葉と號し、紋にも月に星を附け、其の地をも千葉
村と稱せり。葛飾郡の內にて、今は上千葉村・下千葉村あり。小菅村・中原村・龜有村の隣村なり。右賢胤は、
母は上杉憲政の女、從四位下修理大夫、或は季胤と改む。寶德三年八月十五日、胤直と同時に自殺す。法名了心
月山と號す。 65
 一の系圖に、千葉市四代勝胤の長子資胤を、武蔵の千葉の祖とせるあり。其の子實胤より自胤・成胤・良胤等

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の代々の名は同じ。然れども、諸系圖、皆滿胤の子實胤あり。此の說宜し。前說の資胤を實胤とせろ者は非な
り。
 按ずるに、此の葛西の千葉の末孫何某は、土井大炊頭に奉公し、後に浪人して千葉村に復歸し蟄居せし所、
  再び出でて戶川玄蕃に仕へけるが、如何なる仔細にや、此の家をも妻子をも捨て立退きけり。此の女房は酒
 井讃岐守家老島田庄左衛門妻と從弟女ゆる、妻子共に同家に引取りしが、庄左衛門の妻死後、後妻となせり。
 又、男をも養育せり。彼の千葉氏の男子は、同家中士何66方へ養子に遣し、他姓を名乘らせたり。

武州江戶増上寺開山西譽上人の事。

千葉介滿胤の弟德千代丸67は、母は新田義貞の女なり。貞治二年六月五日生ろ。祖父貞胤に養はれて、幼
少より釋門に入れり。初めは真言宗貝塚村光明寺に住し、後に了譽上人の弟子となり、浄土宗の奥儀を極む。酉
譽上人といへろは、此の德千代丸の事なり。武州江戶に於て一寺を開基し、之を廣慶院三縁山增上寺と云ふ。酉
譽は永享十三年七月十八日七十九歲にて寂せり。千葉傳系に云ふ、「享保十六年十二月、三縁山奥院增上寺別所
心光院海譽上人の談に曰く、増上寺酉譽上人は、千葉介氏胤の子、童名は德壽丸といふ人なり。これ增上寺の開
山たり。此の故に、増上寺の什器、代々月に星を紋とす。 西譽は應永・明德年中の僧なり」云々。又、千葉村大
日寺舊記に云ふ、「東善寺・萬福寺は氏胤の建立なり。精舎の本尊は虚空藏菩薩の像なり。高德寺・生林寺名氏胤
の建立にて比丘尼庵なり。千葉村増上寺・寳幢寺の兩院は、今はほとりの田となりて寺院の跡のみ残れり」云々當

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見按するに、千葉村の增上寺と武州江戶の增上寺と同文字なり。開山の西譽上人が、彼の千葉村の增上寺の名を 遺さんと欲して、江戸の寺も同寺號とせられしにや。
 西譽上人の師なろ了譽上人は、常州久慈那岩瀬の城主白吉志摩守源義光の子なり。岩瀬明神に祈りて産むとい
 ふ。武州無量山壽寺傳通院の開山、西蓮社了譽上人聖間和荷なり。眉間に三日月の貌ありて、光あり。依っ
 て三日月上人と稱す。今思ふに、千葉德壽丸、此の三日月の貌あろ上人を師となし、自己の家紋も亦三日月に
  星なり。誠に不思議の事共なり。千葉の嫡家は亡び絕えたろに、酉譽上人開基の増上寺は、今現に將軍家の御
 菩提所となり、寺院の繁昌、天下の尊敬、偏に西譽上人の行德が天意佛意に叶へろ故なるべし。月に星を家紋
 とするの家、今世歷々には稀なる所に、永く増上寺の紋となりて不朽に傳ふるも、亦酉譽の孝德ともいふし。

千葉介兼胤の事。

第十八代・・・・・・千葉介兼胤68は、明德三年壬申七月廿一日生れたり。應永年中、軍功ありし事は、滿胤の條下
にあり。應永十七年七月廿二日、鎌倉の管領從四位下左馬頭兼左兵衛督滿兼、三十歲69にて卒去ましまし、
法號を勝光院殿といふ。滿兼の若君幸王丸元服あるべしとて、二階堂駿河守を使として、京都へ御一字を申ぐ。
爰に又、頃日新田行啓70嫡孫71謀叛を起し、廻文を以て便宜の軍兵を催しけろを、鎌倉の侍所千葉介兼胤、之
を生捕にして七里濱の沖に沈めけり。翌十八年、幸王丸元服ありて諱を持氏と稱し、御弟乙若丸も元服ましまし
て持伸と名づけたり。時に京都將軍家義持公の御弟權大納言義綱は、御兄當公方を傾け奉るべき由、窃に思立た

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る事ありて、便宜の兵を催しけろ內、此の事露顯して、應永廿三年、公方より義嗣を召捕られて、林光院へ押籠
め、厳しく守護を附け置かれけり。義嗣爲めに剃髪して法名を道縄と號す。抑も此の義嗣は、故鹿園院義滿公の
御愛子にて、後々には當公方義持を隱居なさしめ、此の若君に一度天下を治めさせられたく思召されけれども、
不幸にして北山殿早く他界ましましければ、義嗣は天下の望みこれなしと雖も、當公方とは內々御不和なりとぞ
聞えし。さらに依つて、去年伊勢の國司動亂せし時も、近習の輩は義嗣を勧め申し、に叛旗を翻さんことを思
ひ立ち給ひけろに、勢州程なく静まりければ、力なく此の事も止みたり。然るに、此の度關東にて鎌倉と管領と
の仲惡しくなり、擾亂の兆現はれたる由聞えければ、義嗣は禪僧を使として落に鎌倉に下し、上杉入道を語らは
れ、又、持氏公の御伯父新御堂小路滿隆をも頼み給ひけり。是に於て、滿隆は輝秀を招き評議ありけるに、輝秀
申しけろは「持氏公御政道悪しく、諸人背き申す事多し。某諫め候へども、忠言耳に逆らひ却て御氣色悪しく、
且、御外戚の人々、申し掠むるに依つて、御不審を蒙り罷り在り候。不義の御政道積りなば、果は謀叛人あと、
內々承る仔細候へば、他人に世を取られ給はん事は、御當家の御歎き、申しても餘あり。今京都の大納言より御
賴みあろこそ幸なれ。急に思し召し立ち、此の時御運を御開かれ候へ。京都の御下知を公方の御教書と號し、禪
秀取持ち候はんに、誰ありて背き候はん。不日に思召し立ち、先づ鎌倉を攻め落し、其の上押して御上洛あらば、
天下の反覆、眼のあたりに候はん」と、励ましければ、滿隆大に喜び、「身に於ては更に望みなし。甥の持仲を養
子に定めつる間、之を見立て給はれ」とて、一味同心ありければ、禪秀は其の後病氣と稱して引き籠り、新御堂
殿の御內書に禪秀が副狀して廻文を遣し、京都よりの仰せにて、持氏故に憲基を追討せらるべき由、頼み仰せら

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れければ、御受け申す人々には、千葉介兼胤・岩松治部大輔入道天用の兩人は、禪秀が婿なれば謂ふに及ばず。
其の外の人々も、百餘人同心せり。同十月四日、新御堂滿隆馬廻一千餘時、若宮小路に陣を召さる。千葉介滿胤
嫡子修理大夫兼胤・同陸奥守康胤72相馬・大須賀・原・圓城寺下野守を初め八千餘騎、米町表へ控へらる。其
の外、一味の諸軍、所々の口へ差向ひ、同六日には、六百騎にて六本松に押寄する。上杉弾正少弼氏定、扇谷よ
り出で向ひ、爰を先途と防ぎ戰ひけれども、衆寡敵せず。 滿隆の軍勢は忽ち持氏の軍勢を騙逐し、滿隆・持鎌
倉に在りて關東の公方と稱しけり。さる程に、駿河國司今川上總介範政より此の變事の顛末を京都へ注進申され
ければ、不日に禪秀一類故に持仲を追伐すべき由、御教書を賜はり、今川上總介より、關東の諸家中へ廻文を送
らる。其の後、鎌倉にて合戰ありけるが、同九日に至り、味方半變心しければ、持仲・滿隆・禪秀叶はずして
没落し、同十日、鎌倉雪下御坊に籠り、滿降御所・同持仲・右衛門佐禪秀を初め同類悉く自害して失せにけり。
73其の後、千葉介兼胤は持氏へ和降せらる。同廿四年九月、家臣圓城寺隼人に命じて、香取の假殿
を造営す。假殿は大戶・神崎兩所の役たりと雖も、今度立願あるに依て臨時に造営する所なり。同三十年五月、
小栗孫次郎滿重謀叛して、下總國結城城に籠る。持氏は上杉三郎重方を以て之を攻めしむ。此の時、兼胤も父に
代って、鷹下家臣等を率ゐて之に向ふ。既にして持氏も出馬あり。城逐に陥り、滿重は自殺し、其の子小次郎は
落ち行きたり。かくて、永享二年庚戌六月十七日兼胤卒す。年卅九。法號眠阿彌陀佛。又龍葉院。或は喜山とも
輝山とも、瑞光院殿ともあり。

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千葉介胤直の事。

第十九代・・・千葉介胤直74は、應永廿六年己亥八月廿一日誕生。實は兼胤の弟なり。兼胤嫡賢胤幼少なろ故、胤
直家督を續󠄁げり。永享十年、鎌倉持氏、潜に將軍義教公に背叛するの機あり。其の起因は、前將軍從一位內大臣
義持公の御子義景公に御代を譲るらせられしに、去る應永川二年二月廿七日、義量公早世し給ふ。是に依って、義
持公には御代讓らるべき御子なき故、此の上は、鎌倉左馬頭持氏の嫡子賢王丸を養子として、天下の政權を讓與
あるべくやと、內評定ありしかど、管領畠山尾張守滿家を初め、山名・赤松以下の諸將、「此の儀然るべし」と思
ふ人もなく、兎角して月日重りけるうち、正長元年正月、義持公の病革まりしかば、同十七日、管領畠山滿家、
石清水に參籠して御髄を取りけるに、義持公の御第青蓮院門主義圓僧正を柳の御世嗣にすべきの御圖三度ま
で現れければ、諸將皆議定して一決する所、翌日午の刻義持公既に薨去ありしを以て、義圓僧正を還俗せしめら
れ、義宣とぞ稱しける。時に川五歲。永享元年三月十五日、参議左近衛中將に任じ、征夷大将軍に補せられ、更
に諱を義教と改めて權大納言に任じ、從三位に叙せらる。此等の事につき、持氏の心底不快に堪へず。往初そのかみ基氏
卒去の後、彼の遺言に任せて、氏滿・滿兼・持氏の三代、背京都に上り元服し、將軍家御評の一字を賜はる例あ
りしに、今持氏の嫡子賢王丸、元服の沙汰あるに當り、京都・鎌倉確執の時なりしかば、持氏は「将軍家に就き
て頼むべき事にも非ず」と、祖先義家の嘉例に任せ、鶴岡八幡宮の寶殿に於て加冠し、諱を義久と名付けゝり。
上杉憲實展々詠むれども聽かれず。持氏は却て憲賞を討たんとするの志ありければ、意實は鎌倉を去りて上州白
井の居城に引籠れり。持氏直ちに軍を出し、八月十三日高安寺に陣せられ、關東の諸將旗下に馳せ集る。胤直・

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康胤る兵を率ゐて憲實を攻む。憲賞戰はずして使を京都に馳せ、事を義教公に訴ふ。此の時、胤直は持氏を諫め、
「君麗人の話言を信じて、軽々しく無名の軍をし、國家の疲労を顧みざるは、不利これより大なるはなし。願
はくは憲實の討伐を止め、將軍家と和睦なし給へ」と切言しけれども、持氏肯んぜず。却て恥辱を與ふろが如き
詞を發し、「敵の毒餌を食って諫を容れ給ふや。他念なき千葉殿にも、今よりは心を置かれ候」など云ひしかば、
胤直も「今は是迄なり」とて、兵を率ゐて陣所を立退きたり。

胤直處々合戰の事。幷に持氏・義久生害の事。

 將軍義教公は、持氏の順はざるを聞きて、乃ち綸旨井に教書を憲賞及び關東諸國へ遺し、持氏を討伐せしむ。
是に依つて、千葉介胤直は將軍家の命を諸將に俺達し、上杉憲賞に屬して持氏の軍を各所に破る。持氏の軍ため
に振はず。此の時、三浦介時高は、左馬頭殿出陣の留守を承り、御所の警固を勤めしに、忽ち心を翻し、一族郎
等を引連れ、夜に紛れて三浦に歸りけり。之を聞きて、一色宮內大輔直兼・同刑部少輔時家に屬せし軍兵三千餘
騎も、何時の間にか落ち失せて、兩人が郎等僅に七十餘騎になりしかば、「此の小勢にては叶ふべからず」とて、
持氏の陣所に馳せ參る。同十七日、三浦時高五百餘騎にて鎌倉に抑入り、大倉・犬懸の近邊に火を懸けたり。此
の時、上杉憲賞は、一千二百餘騎にて、上州白井を打立ち、同十九日分倍に着陣す。十一月朔、三浦介時高、二
階堂の一族、其の外、上杉修理大夫持明が被官山口市之水等を語らひ、二百餘騎になりて、大藏御所へ押寄せ、
勢ひ烈しく攻め立てければ、小勢の防載叶ひ難く、稲村滿貞竝に御曹子義久は、暫く報國寺に落ち行きしも、敵

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の追撃急なりしかば、竟に免るゝ途なくして自殺したり。左馬頭持氏此の由を聞き、海老名の陣を引き揚ひて、
鎌倉への歸途に就き給ふ。爰に上杉安房守憲賞が家老長尾尾張守入道芳傳、八百餘騎にて鎌倉へ赴く所に、葛原
の邊にて端なくも持氏に出會ひたり。持氏の軍勢は段々落ち失せて僅に二百餘時にも足らざりければ、持氏も今
は力を落し、一色將監を使として芳傅が方へ仰せけるは、「上杉憲直・一色直兼が讒に依って、憲實慣を發し軍を
起せり。予一旦之に向ひて兵を催すと雖も、最早これ迄なり。此の上は如何にもあれ、國家の政道を憲實の心に
任すべし」とありければ、芳傳偽りて之に從ひ、「恐れながら芳傳が陣中へ入らせ給へ。憲直も是へ參り、御對面
も遂げられ、仔細あるまじ」との返答ゆゑ、持氏之を信じて芳傳の陣に入られけるに、次の日金澤の稱名寺へ入
れ申し、十一月五日、持氏を剃髪せしめて長春院殿と號し、一間なる所に押し籠め參らせ、同十一日、更に永安
寺へ移し申し、大石源右衛門尉參りて御自害を勧めしかば、持氏も運命の盡きたるを覺悟し、潔く自殺せり。近
習の輩十三人、同時に切腹したりけり。次で千葉胤直・大石源右衛門憲儀のりかた・上杉修理大夫持朝を大將とし、軍兵
二千餘騎にて葛原に抑出し、持氏方の上杉陸奥守憲直・同子息淡路守憲家・同弟小五郎持成・一色宮內大輔直
兼・淺羽下野守等が二百餘騎にて控へたる所へ押詰め、攻め討ちて、憲直・憲家父子は郎等十一騎に討ちなされ、
遂に悉く自害して失せたりけり。

春王丸・安王丸、幷に永壽丸の事。附、永壽丸を左兵衛督成氏と稱する事。

左馬頭持氏は、永安寺にて自盡し給ひ、嫡子義久は、報國寺にて自殺ありけるに、二男春王・三男安王は、野

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州日光山に遁れて隱れ給へり。同十二庚申年、春王・安王の兄弟、結城中務大輔氏朝を頼まろろに依って、氏朝 乃ち應諾し、春王・安王を己が城內へ迎へ入れ、讎敵上杉氏を討つて父兄の仇を報ぜしめん事を謀りしに、此の 企早くも漏れ聞えしかば、將軍家より又教書を諸將に下されて之を討伐せしめらる。此の時、千葉介胤直・馬加 まくはり康胤も結城に發向し、胤直は謀略を說きて智名を離せり。翌嘉吉元年四月十六日、結城遂に陥り、春王 ・安
75囚人となり京都へ護送の途中、美濃國垂井の道場金蓮寺にて遂に殺害せられ給ひ、又氏朝一族等は城を枕
にして悉く戰死を遂げぬ。爰に又、持氏の季子永壽王は、父持氏一面の時、永享十年十一月朔日、五歲にて鎌倉 八幡の社まで落ちけるを、瑞泉寺昌在西堂懷きて、常陸國住人筑波別當大夫郎等二人御供申し、一旦甲州地へ忍 び行き、それより信州へ遁れ、大井越前守持光を頼み居給ひしが、舎兄二人常陸國中郡より起り、結城氏朝を頼 み結城の城に立籠りたろ報ありしかば、大井持光は蘆田・清野といふ侍二人を附けて、六歲の時結城に送り届け たり。結城落城の砌、兄弟三人とりことなりしも、永壽王は未だ頑是なき幼兒なれば、一命を助けられて美濃の土岐 左京大夫に預けらる。「此の人如何なる果報にや、兄弟三人の中二人まで殺害されしも、不思議に命助かり給ふ事 只事にあらず。偏に神明の御加護に依れるならん」といひ合へり。其の後、嘉吉年中、京都に不慮の事出來て、 將軍義教公も果て給ひ、義勝公も早世なりければ、其の弟寅公幼くして將軍職に備はり給ふ。76其の
頃、越後國守護人上杉相模守房定と、下總千柴介胤直及び諸士と評議して上洛し、基氏の曾孫永壽王を以て關東 の主君とし、等持院殿の御遺命を守り、京都の御堅めたるべき旨、歎きき訴へければ、永壽王を免されて、亡父持 氏の跡を賜はり、文安四年正月77公方對面ましくて、御太刀・御馬を賜はり、同二月十九日關東へ

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下られけり。時に十三歳にして關東の主となり給ふ。78申八月廿七日、79上州白井を立ち
て、鎌倉へ赴き給ふ由聞えければ、上杉安房守も「御迎へに參るべし」と支度しけるが、「いやいや、御父持氏を 初め兄弟二人まで憲實が爲めに失せ給ひし事、定めて恨めしく思し召さん。身の爲め、子孫の爲め、大事なり」 と思ひ返し、同廿六日の夜、子息三人同道して伊豆國へ落ち行き、此所にて出家し、行方知れずなりにけり。永 壽王は武州府中の國分寺に御逗留、同九月九日鎌倉へ還駕あらせらる。初めは山內の龍興院に入り給ひ、後には 浄智寺に居させられ、御所造營あり。其の間、京都より命令ありて、上杉安房守が行方を尋ねられければ、伊豆 國名越の國清寺にて子息二人と共に出家となり、兄を德丹、弟をば周清と名づけ、いづれも西國さして落ち行き けり。末子龍若丸幼少なりければ、伊豆の山家に隱し置きけるを、老臣共やぅやぅに尋ね出し、京都へ此の由申 しければ、「たとへ幼少なりとも、老臣ども輔佐せしめて管領に任じ、山內・扇谷兩家の輩相談にて、京都の御下 知を受け、政務を専らに致すべき」の由、仰せ下さる。同年十一月卅日御所出來、永壽王移徙あり。將軍家より 諱の一字を下されて、元服ましまし、左馬頭成氏しげうじと號しけり。又、龍若丸は上杉右京憲忠と名付けゝり。其の後、 成氏より父持氏へ忠死の輩の子孫を召し出され、それぞれ領地を與へられけるとなん。

千 葉 傳考記卷三

千葉一類敵味方となる事。幷に新介胤宣生害の事。

35(103)


 爰に寶德三年の頃、千葉胤直が家臣に原越後守胤房・同筑後守胤茂・園城寺下野守荷任といふ者あり。共に有
勢の者なり。然るに原園城寺の兩家、私に權威をひ相戰ふこと數度に及べり。中にも原は武功の兵にて、公方
へも出仕申しければ、古河御所成氏より原越後守を頻りに御頼みあり。是に依つて越後守は、千葉太郎宗胤80・弟
同七郎自胤81に勧めて、「御所力となり給へ」と申す。又、園城寺下野守は、上杉に語らはれて、同心の士
を催し、千葉介胤直を勧め、父子兄弟上杉に一味して御所方に背きければ、原越後守は密に成氏より加勢を乞ひ、
享德四年三月二十日、千葉城へ押寄せけろに、俄の事とて防戰叶ひ難く、遂に落城す。胤直父子は同國多胡・志
摩の兩城に退き、一味の軍勢を催して、上杉よりの應援を待ち居たり。爰に又、故千葉大介が二男馬加陸奥入道
常輝82父子は、馬加より打出で、成氏の味方となりて馳せ加はる。原越後守大きに喜び、則ち之を大將として多胡城
へ差し向け、原は自ら志摩城へ寄せたりけり。扨多胡城に向ひたる陸奥入道は古兵ふるはる のことゝて、先づ城を取卷
きて兵糧の道を絶ち、一方を明けて後、短兵急に攻めける程に、城兵防戰の術を失ひ、士氣乱喪して落ち去る兵
多く、大將新介胤宣83は、其の勢二十騎ばかりになりければ、 乳母の子園城寺藤五郎直時を使者として
敵陣に遣はし、「城をば渡し申すべく候間、佛前に於て切腹致したき」旨、申入れければ、敵兵城を受取りたる
上、胤宣を城外なる武佐小櫃谷84の阿彌陀堂に護送し、胤宣は此寺に入りて自双あり。享年
十五。85敷革に坐して辭世あり。
  恨めしはかる浮世に生れ來て君の情をもらすつらさよ
阿彌陀堂の別當來照院出合ひて、燒香讀經し、最期の勤め懇なりしといふ。86

36(104)


園城寺直時は胤宣を介錯して後、腹掻き切って果てたりけり。其の時の辭世に、
 彌陀頼む人は雨夜の星なれや雲晴れねども西へこそ行け
 見て歎き聞きて弔ふ人あらば我に手向けよ南無阿彌陀佛
  一筋に西と思ひし道なれば君もろともに向ひたまへや
 此の彌陀頼むの歌は、古歌に「彌陀頼む人は雨夜の月なれや」と詠みしを、「星なれや」と言ひ換へたろて、 千葉の家紋の事に詠みなせしは、哀れなりし事共なり。此の胤宣87二男たりと雖も、兄の卒後、家
督たりしに、斯く逆臣の爲め父子共に滅び給ひたる事、痛ましき限りといふべし。同時に隨從の人々即ち椎名與
十郎胤家・木內彦十郎・圓城寺又三郎・米井藤五郎・粟飯原助九郎・池內助十郎・深川彌十郎・岡本彦八・青野
新九郎・多田孫八・高田孫八・三谷新十郎・寺本彌七郎・中野與十郎等、皆々刺し違へ違へ、枕を並べて伏した
りけり。胤宣以下の首級は間もなく成氏の實見に備へたりと。一説に、椎名與十郎胤家は、胤宣の死後墓所に來
り、生きてまします時の如く物申して、「同時に御供仕らず。御後に參り候こと申譯これなく候。さりながら、い
かでおくれ申すべくや」とて、
  君さんも露と消えさせ給ふ世にいかで残らんわればかりかは
と、一首の歌を書き残し、共の場を去らず自害したりとぞ。

千葉介胤直生害の事。

37(105)


千葉介胤直は、志摩城に籠られけるを、原越後守胤房大將として、豊夜の別ちもなく攻め戰ひけるが、城方は
衆寡敵し難くて遂に支へ得ず。同八月十四日の夜陥落しければ、胤直は土橋といふ所に、阿彌陀堂のありける所
へ立退き、別當東覺院に籠らる。原越後守は城を奪ひ取ると同時に、彼等を包圍し、胤直に附き居ける女房を招
き出し、「介殿の御事は、成氏公に御不義にて、討手を遣はされし事ゆゑ、上様の御心計り難く候へば、力及ばず
候。若君胤宣には初めより御一所に御座なく、何の不義もましまさず。馬加殿にも哀れに思し召され候間、如何
にもして御命を助け奉らん」といひ入れたりけるに、「若君には、はや十二日に御切腹」の由、申しければ、越後
守も涙を流しけり。翌十五日、寄手いょいょ十重二十重に如來堂を押取り卷きて鬨を揚ぐ。千葉介胤直入道常
瑞・舎弟中務賢胤入道了心等、「今は是迄なり」とて、何れも御腹を召さ れければ、池內豊後守胤相たねみ介錯し終り
て、自らも切腹せり。續いて園城寺因幡守・木內左衛門尉・池內藏人・多田伊豫守。粟飯原右衛門尉・高田中務
大輔胤行等は、胤直の御室女井に上識を初め女房達を刺し殺し、思ひ思ひに腹を切る。哀れといふも愚かなり。
別當東覺院死骸を集め、佛事供養をなしたる後、荼毘一片の煙となしにけり。一說に、高田中務は、辭世の一首
を短冊に書きて胤直の墓に懸けたり。
  かねてより心にかけし身なれども緣󠄀えにしぞうすき君があとなる
此の歌を以て觀ろに、中務は日を經て後殉死せしならん。88原筑後守胤茂が沙汰として、骨をば千葉の大山寺に送り納め、五輪の石塔を建てけり。是は敵
ながらも、譜代の主君なれば、斯く弔ひけろとかや。來迎寺の間に二つの塚今にありとぞ。扱又、爰󠄀に下總國金

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剛授寺の僧中納言坊とて、いと若き僧あり。能書にて、胤宣幼き時より、手習の師にてありけるが、胤直・胤宣
父子切腹の由を聞き、弔ひの爲め彼の如來堂に參詣し、讀經燒香念佛しけり。東覺院出で合ひ、胤直父子最期の
體を物語りて、辭世の歌を取り出し見せければ、中納言坊此の歌を見て涙を流し、其のまゝ、又佛前へ參り、堂の
柱へ一首の歌を書き付けて出でけろまゝ、近き流れの淵に身を投げて、遂に空しくなりにけり。其の歌には、
 見るもし夢になりゆく草の原うつゝにのころ人のおもかげ

東下野守常緣東國下向の事。

爰󠄀に東下野常縁は、其の先、千葉常胤の第六男東六郎大夫胤頼の後なり。胤頼は下總東の庄川三卿を知行し、
代々歌人にて、禁中の御會にも參りければ、子孫代々在洛せり。89常胤
より五代の後裔時胤は、在鎌倉にて死去せり。六代賴胤の時、總州小金に居住す。此の時、鎌倉極樂寺の良觀上
人を講じて、小金の眞橋90といふ所に、大日寺を建立して、頼朝公より代々の將軍、井に千葉一門の菩提を祈りし
が、貞胤の時に至り、此の寺を千葉へ移せり。然れども、大日五佛の尊像は、貞観の自作にて威力あらたなろ靈
佛にて、なほ此處に殘󠄀りありしが、其の後貞胤・氏胤、當所に在城の頃、尊氏將軍の菩提を弔ふ爲め、夢窓國師
の弟子古天和尚を講じ、此の寺の中興開山となし、萬福寺と號せり。此の時、宗胤は三井寺にて討死し、貞胤は
北國落までは宮方にて、新田義貞に隨ひてありしかど、心ならずも尊氏の味方になりける間、宗胤の子胤貞は、
依然宮方にて千葉に殘のありけり。此の胤貞の子は日祐上人といひ、法宗の學匠にて、下總國中山法華経寺の

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中興の開山なり。91是に依って胤貞より中山七堂建立あり。
五重の塔婆を建てらる。其の後胤貞上洛して吉野へ參り、征西將軍の宮御下向の時、供奉して九州へ下り、大隅
守に補任し、肥前國をも知行しけり。日祐上人も、九州に下向して、肥前國松尾山を建立し、總州の中山を引き
て、末々の世まで此所を中山と兩山一寺と號す。扱又、胤宗の子孫、千葉へ移り、胤直まで五代なり。尊氏の時、
千葉の家二方に別れ、宮方・將軍方とてあり。宮方は九州へ下りけるが、遂に歸らず。關東は一流にてありけ る
が、今度亦馬加康胤は成氏に一味し、原越後守等之を主として千葉へ移り、千葉の跡を綴げり。其の後、原は小
金の城に居住す。又一方胤直と一所に討死ありし中務入道了心の子息實胤・自胤二人を取立て、下總國市川城に
立籠りて、千葉又二派となる。同七月廿六日改元ありて康正元年と改む。其の頃、東下野守常縁は、總州東の庄
を知行しながら、代々公方の近臣歌人にて在京しありけるが、今度千葉家兩派となり、總州大に亂れければ、急
ぎ龍り下り、一家の輩を催し、馬加陸奥守康胤を退治せしめ、實胤を千葉へ移すべきの由御下知を蒙り、御教書
を帶し下向せしが、濱民部少輔春利をも相具したり。扱、常縁下總に到着するや、一族井に國人に相觸れければ、
國分五郎・大須賀・相馬を初めとして、下野守常縁に相從ひしかば、常縁乃ち馬加の城へ押寄せ散々に攻め立て
ければ、原越後守打って出で、一日一夜防ぎ戰ひけれども、遂に打負け、千葉を指して引退きけり。此の捷戰に
よりて、上總にある敵の諸城は自落せしかば、濱民部少輔をば東金の城へ移し、常縁は東の庄へ引揚げたり。
に又、古河御所成氏は、武田右馬助・里見・簗田・一色大輔・鳥山等に三百餘騎を差し添へて、上杉方を攻撃せ

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しめしに、上杉・廳鼻・長尾左衞門・武州七黨の兵共力を戮せて防ぎ載ひけれども、上杉方打負けて引退く。時
に康正元年十二月三日なり。同六日御所方は勝に乘じて上杉力に迫り、息をもつがず攻め立てければ、上杉勢大
敗して城遂に陥り、討死せる者數百人に及びたり。されど、總州の合戰は、馬加陸奥守・原越後守の軍、連戰連
敗して強勢亦挽回すべからざる有様となりしかば、常縁は愈々千葉新介實胤を取立て、本領を安堵させんとする
の報、古河に達しけろを以て、成氏は「是は一大事なり」とて、急に南圖書助・簗田出羽守等の大軍を差し遣し、
實胤の根據たろ市川の城を攻擊せしめ、同二年正月十九日陷り、賞胤は武州石濱へ、自胤は武州赤塚へ遁れ去り
たり。是に於て、總州の形勢は忽ち一轉し、兩總の軍勢は大牛成氏に降參す。此の頃、關東所々にて合戰止む時
なく、國民耕作を營むこと能はず。飢饉起りて餓死する者數を知らず。上總國へは武田信長入道打入りて、廳南
眞里谷の兩城を取立て、父子これに立籠りて國中を押領す。房州の里見亦此の機に乘じ國境に兵を出して所々を
侵略す。又、築田河內は關宿より打って出で、武州足立郡を過牛打隨へ、遂に市川城を奪取す。上杉方にても三
浦介義國、三浦より起りて相州岡崎城を略し、其の附近の地を押領せり。斯ろ狀勢にて、關東地方は古河方と上
杉方の合戰一日も止む時なく、黎民塗炭の苦しみは其の極に達したり。

東野州上洛丼に詠歌。附、左馬頭政智の事。

 下總國には、東野州常縁と、馬加陸奥守並に岩橋輔胤と所々にて合戰し、いづれ際ありとも見えざりけり。扱
又、京都にては御沙汰ありて、常縁を召上めしのぼせられんが念に、長梅元年六月廿三日、雄河左衛門佐義鏡を大將とし

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て武藏國へ差し下さる。此の人は、公方の御類葉にて、代々九州の探題の家なれば、諸家も重き事に思ふ故なる
ベし。其の上、父左衛門佐義行は、久しく武州の國司にて、共の時より、足立郡族といふ所を取立てて居城とし

て、今に至るまで此の處を知行しければ、旁々「此の人然ろべし」とて、義鏡を探題になし給ひ、御下知の通り、
武州・上州の兵共に申し聞かせ、成氏を退治して上杉を管領とし、關東を治むべき趣を觸れ渡さん爲め、板倉大
和守先達つて罷り下り、此の由を申渡しければ、上杉方の兵共各地より馳せ集り、澁河殿參會して京公方の御下
知を承る。其の春四月、上杉修理大夫持朝入道は、武州河越の城を取立てらる。太田備中守入道々眞は武州岩付
の城を取立て、同左衛門大夫資長は、武州江戶の城を取立てけり。又、成氏は、其の年の十月、總州下河邊・古
河城の普請出來して古河へ移り給へり。折柄、京都より澁河探題下向ありて、武藏・相模の兵を集め、東常縁は
上總・下總の兵を下知しけれども、東國地方の軍兵は、依然として成氏に歸服し、之に背叛する者なかりき。此
の狀勢を見て、「此の上は如何さま、公方の御子を一人、關東の主として御下向あらしめ、以て關東の公方と定め
られ、御下知あらずんば、東國到底治り難からん」と、諸將より言上しけろ故、「此の儀尤も然るべし」とて、將
軍の御舎弟香嚴院と申す禅僧の天龍寺にましましけるを、長線元年十二月十九日、廿三歲にて還俗なし參らせ、
左馬頭政智と名付け、上杉中務丞上使として、同治部少輔政憲・南伊操守・飯河河內守・布施民部大輔・木片參
河守孝範等御供し、同月廿四日、伊豆國まで御下着あり。三島大明卿へ參詣ましまし、神前に於て御元服ありけ
り。鎌倉には御所もなく、且、要害悪しく、敵地も近ければとて、伊豆の北條堀越といふ所に、假に屋形をて、
豆州をば知行せられけり。先づ名代として上杉感政箱根を越え、武州・相州・上州の一揆を下知して、山內房顯

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に力を合せけり。房顯は武州五十子といふ所に陣取りて、成氏方と對陣し、日々夜々の合戰あり。京都にても、
畠山兩家評論ありて、果は互に合戰に及びけり。寛正二年七月十二日、山內兵部少輔房顯、五十子の陣中にて卒
せらる。法名を大光院清岳道純と號す。堀越殿すでに旗を進められ、「近日越山あらば、兩上杉と力を合せ、諸所
の味方を騙り集めて、一摯に成氏を攻め滅し、東國平均に治まるべし」と、諸將勇み思ひける所に、房顯俄に卒
去せしかば、いづれも落膽一方ならず。種々評議の末、越後國上杉相模守房定の二男顯定を招き、「房顯の妹婿と
して、名跡を相續せしむべきや」の由、長尾扇が谷相談し、豆州政智の御下知を受けて、顯定を山內へ移しけり。
其の年九月三日改元ありて、文正と號す。其の翌年より京都に大亂起り、畠山の兩家92井に細川93
山名94等東西對抗して争亂打續き、洛中洛外は忽ち修羅の巷と化したりき。同年九月六日、上杉彈正少
弱入道持朝河越にて逝去あり。 95法名を廣感院殿道朝といふ。此の人上杉兩家の古老にて、諸將も之を重ん
じ、渇仰大方ならざりしに、斯く敢なく捐館ありければ、伊豆の御所も、關東の諸家も、互に力を落して茫然た
ろばかりなり。扱も、東下野守常縁は、康正元年、總國鎮撫の命を受けて下向せしより、東の庄を根據として、
所々の合戦に勝利を得、京都公方の御感に預りける所に、偶々京都に兵亂起り、常縁が所領美濃國郡上の城へ山
名方より打入りて、應仁二年九月六日に攻め落され、同國住人齋藤持是法印妙椿といふ人、悉く押領しけり。常
緣關東に在りて之を聞き、「郡上は、常縁の先祖中務入道素が承久二年戰功に依り拝領の舊地にて、傅來十世の
久しきに及び、其の間、遂に他人に知行せしめざりしを、我が代に至り、思ひの外なる事にて東國に下向し、留
守中斯樣に成り行きしこと、無念といふも餘りあり」と、日夜悲歎に暮れ居たるに、其の折しも、亡父式部入道

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素明の爲め追善の法會を営み、僧を供養しけるが、代々和歌を嗜む家なれば、斯く味じて其の所懷を述べぬ。
  あるがうちにかゝる世をしも見ざりけん人の昔のなほも戀しき
 濱民部少輔森利總州の96此の歌を聞きて、哀れに堪へず思ひければ、京都へ使者ありける時、兄の濱豊後守康
慶が許へ書きて送りけり。 康慶此の歌に感ずる餘り、和歌を好む人々に見せてもてはやしければ、齋藤妙椿聞き 傳へて、「常縁は元より和歌の友人なり。今關東に居住して、本領斯く成り行くこと、如何に本意なき事に思ひ給 ふらん。我も久しく斯の道を好む事なれば、いかでかなさけなき振舞をなさんや。常縁歌を味じて送り給はば 、所領昔の如く返しなん」と、康慶に物語りければ、康慶は舎弟春利が方へ此の由申し送ろ。春利大きに悅び、東野州 が方に來りて、兄豊後守が消息を取出し、「これ御覧候へ。斯かる亂世にも、都には優にやさしき人こそ候へ。目 に見えぬ鬼神をも和ぐろは、和歌の德とこそ承り候へ。御詠草一首を御送りあれかし」と申しければ、常縁は元 より斯道の達者とて、取り敢へず十首の和歌を味じて本利に渡す。春莉乃ち取次ぎて、美濃の國へぞ送りける。
  堀川やきよき流を隔て來て住みがたき世を歎くばかりぞ
  如何ばかりなげくとかゝ知る心から踏み惑ふ道の末のやどりを
  かたばかり殘さん事もいさかいる愛身は何と敷島の道
  思ひやろこゝろの通ふ道ならでたよりも知らぬ古郷の空
  たよりなき身を秋風の音ながらさて戀󠄀しき古郷の春
  さらにまた頼むに知りぬ憂かりしは行末遠き契なりけ

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  木の葉散る秋のおもひに新玉の春をわするゝ色を見せなん
  君をしもしるべと頼む道なくば猶は古里や隔て果てまし
  三吉野に鳴く雁金といざさらば一向ひたぶるにいま君によりこん
  わが世ふろしるべと今も頼むかな美濃の御山の松の千歲を
 持是院法印妙棒、此の詠吟共を感嘆し、則ち返歌しけり。
  ことの葉に君がころは水蜜の行方通らば跡はたがはじ
 又、同じ時、康慶の許へ遣しけるは、
  和歌の浦や汀の藻屑々々にも猶ほ數ならぬ程ぞ見えぬる
  霧籠めし秋の月こそ餘所ならめかざしににほへ古郷の花
 康慶の返し、
  和歌浦や汀の藻屑々々とも見えぬ夜みがくたまの光に
  かへりこん君がためとて古郷の花も八重たつ錦なるらん
 此の年二月十日より斯く言ひ通はしける間、端なくも上聞に達しければ、御免許ありて、下總國には息男緣數
を留め、四月廿一日、東野州は上洛して、五月十二日に、持是院妙棒に對面し、異議なく本領を受取り入城しけり。時に妙椿が許より、
 よのなかを遠くはあれど東路にいますみながらいにしへの人

45(113)


 常縁が使を立てながらの返し、
  よのなかを遠くはからば今日までに君が言葉の花におくれん
 同じく領地より妙椿へ送る。
  古郷の荒るゝを見てもまづぞ思ふ知返あらずば如何分け來ん
 妙椿の返し、
  このごろのしろべなくともふるさとに道ある人ぞ安く歸らん
 其の後、常縁は永く本國を領せしとなん

古今傳授の事。


古今集脉傳のことは、藤原定家卿の家傳にして、二條家の上の冷泉家に傅來せるものあり。されど其の頃は兵
亂打絕ゆる日なく、公家と雖も文事を顧ろ違なき有様なりければ、歌道の如きも随つて衰微に赴くを喫し、豫て
歌道に熱心深き東常縁は、冷泉家に金銀の幣物を贈りて、懇望他に共りければ、古今集の奥儀は悉く傳授せられ
たり。然るに、上の冷泉口卿は共の後急死せられければ、冷泉家の傳來は茲に絶え果て、今は東家にのみ傳は
る事となれり。然るに西三條の質孝卿、歌道熱心につき、宗祇法師が諸國修行するを以て、之を中人として、東
野州方へ古今集の傳授を所望に及びぬ。常縁は實孝卿の熱心に感じ、授與することを諾したり。宗祇その傳授を
得て之を實孝に通達せしが、宗祇は元來中人として傳授せられしものなれば、餘人には傳授する事なかりしを、

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世に「宗祇が傳授を惜しみしため相續の人なし」と云ひ傳へたろは、此の事を知らざるが故なり。三條實孝は後
に稱名院と號せり。其の子息は逍遙軒と號せしが、早世せしかば、古今の傳授は細川兵部大輔藤孝入道幽齋へ渡
されたり。藤孝は細川陸奥守元有が家督なりと雖も、實は足利將軍義晴の子にして、母は三條實孝の女、即ち義
晴の愛妾なり。されば、藤孝は實孝の外孫なるが、幼少より諸藝に通じ、中にも歌學にいそしみ、外祖父實孝に
就て學び、奥儀の傳授ありしといふ。其の後、豊臣秀吉が文球元年朝鮮征伐の時、名古屋の御陣へ藤孝入道幽齋
も參りけるに、日本に一つの傳授なる古今奥儀の一書は箱に藏め、烏丸光廣卿は歌道の門弟といひ、殊には婿な
りければ、之を預け置き、「我若し遠境にて終命せば、三條家へ對談し、禁裏へ獻上し賜はるべし」と言ひ遺し
て、一首の歌を添へたり。
  いにしへも今も替らぬ言の葉のこゝろの末を殘す言の葉
 幽齋は、其の後西國より慈なく歸京ありければ、烏丸光廣卿より、此の箱を元の如く幽齋方へ返戻せり。その
時、
  明けて見ぬかひはありけり玉手箱昔にかへす和歌の浦浪
と、一首をぞ添へられける。慶長五年大坂の戰役起ろや、細川幽斎・同越中守忠興父子、東照公の御味方として、
忠興は關東へ御供申し、父幽斎は丹後國田邊にありけるを、敵徒忽ち此の城を包圍せり。時に八條親王を以て、
傳授の箱の儀、此の度討死仕り候はぶ、日本第一の傳授絕えん事を敷かはしく存ずるに付き、獻納致したき由を
以て禁裏へ差上げらる。後陽成天皇畏くも幽斎が死を惜しませ給ひ、烏丸大納言光廣・三條識條兩卿に中院通村

47(115)


卿を添へて差遣はされ、和睦の御扱ひを勅命あり。古今傳授の事、其の家なれば三條實條卿對面して、直に相傳
申すべき由にて、古今に限らず、八代集・源氏物語の傳授をなさしめ給ふ。實條卿傳授の頭人となりて、禁裏へ
御取次申上げらる。光廣・通村相添へて、此の事を残らず聞き得たり。然れども、傳授の正脈といふには非ず。
かくて、古今の傳授禁中へ上ってよりは、公家の停授は禁裏にて御相傳あり。奥意の書付箱に納め、勅封にて賜
はれり。之を古今傳授といひ、自分には此の物封を切る事能はざる由なり。されば、古今傳授望みの公家あれば、
禁裏へ奏聞して、彼の箱を持參し、御前に於て御封を切らせられ、其の所を拝見したろ後、直に直封にて預ろな
り。故に、子孫へも傅來あらず。若し死亡する時は、禁廷へ返上し奉るなり。されば、中院通茂卿は古今の傳授
ありしかども、子息の通躬へは傳授ならず。斯くの如き有樣にて、古今奥儀書の箱は物封なれば、唱へ誤りて箱
傳授と世話に云ひ傳へ、箱傳授は、誰人もなるやうに言ひ習はすと雖も、實は格別の事なりと知るべし。

千葉介康胤の事。

第二十代千葉介康胤97は、應安七年二月九日に生る。滿胤の長庶子なり。千葉家中興の大將と稱
せられ、獨身にて奥州より上り、初めて下總國馬加城に居れり。故に馬加の屋形とも云ふ。享德三年、千葉家の
總領直將卒す。98息男輔胤幼少なる故、胤將の弟
胤宣99を家督に定むろ所に早世し、風將・胤の父胤直は同年八月戰死せり。是に依て、康胤七十
餘歲にて家督相續す。此の後、康胤の子胤持、同じく相織して、後には胤將の子の輔胤に家督を返し綴がしめた

48(116)


り。康胤は家督を継ぎて、初めて同國印幡郡佐倉城に移る。即ち是れ頃年家臣等私威を諍󠄀うふ故に、非常に備へん
が爲めなり。應永廿三年以來、將軍家の命に依つて、所々に軍功あり。 其の事前に記す。嘉吉元年六月廿四日、赤松滿祐が將軍義教公を弑し奉りて播州へ走ろや、宣旨を國々に下され、諸將を促し之を討たしめ給ふ。この時、康胤も
播州に向へり。康正二年十一月朔日、足利氏の味方として、上總國に出陣せる時、八幡戌方にて、別意の事あり て卒せり。年八十三。法名口阿彌陀佛、又大相常態と號す。100

千葉介胤持の事。

第廿一代・・・千葉介胤持は、永享八年四月五日に生る。其の頃山內の上杉は、憲忠若輩ゆゑ、長尾左衛門尉景信、
諸事を名代に執行す。扇谷の上杉は修理大夫持朝、前年持氏滅亡の時、憲實一味の者なれば、世の中いぶかしく、
大切に思ひけるより、剃髪して道朝と號し、子息弾正少弼織房に家督を譲り、憲忠を婿として、武州河越へ隱居
してありけり。然れども、顯房若年の間家臣武州河越の太田備中守資溝、政務を代理して諸事を下知しけるが、
此の太田・長尾は、憲忠を仰ぎて、憲實の時の掟の如くに關東を治めんとす。此の兩執權は、其の頃東國無雙の
智者なりけり。爰に又、成氏方にては出頭の人々即ち簗田・里見・結城・小山・宇都宮は勿論、千葉介胤將101
も父は持氏へ不忠なりしかども、同苗陸奥守が勸めに依りて成氏の味方となり、諸將と力を戮せて上杉方に對抗
せしに、「兩雄並び立たず」の喩に漏れず。太田・長尾との間に端なくも面白からざる事起りしかば、上杉方にて
は「敵方此の機に乘じ攻擊し來らば一大事なの」とて、太田・長尾を談合せしめ、俄に一味同志の大名を駈の催

49(117)


し、寶德二年四月廿一日、其の勢五百餘崎にて、鎌倉御所へ抑寄せたり。成氏は此の警報に接せしも、火急の事
とて用意の軍兵も少く、到底防戰叶ひ難ければ、二十日の夜半ばかりに、江ノ島に遁れて陣を取ろ。是は「合戰
難儀に及びなば、船にて安房・上總へ渡り、人數を催して再擧を圖らん」との策略なりけり。長尾・太田等腰越
まで寄せ來りける時、小山下野守鎌倉の急を聞いて眞先に馳せ向ひ、七里ヶ濱にて防ぎ戰ひけるが、小勢の悲し
さ敵し兼ね、家の子郎等八十餘人戦死して、其の身も手を負ひ引き退く。上杉方は勝に乘じて由比ヶ濱まで押し
來る所へ、鎌倉方の千葉新介・小田讃岐守・宇都宮肥前守四百餘騎にて馳せ向ひ、駈け廻り、追ひ散して、攻め 戰ひける間、太田備中・長尾左衞門が郎等百廿餘、算を亂して討死し、遂に大敗に及び、陣床も取り敢へず相州
樽谷庄へ引き退きたり。憲忠は、「今度の軍こそ我が本意より出でたるに非ろも、斯くなりては叶ふまじ」と思
ひければ、相州七澤山へ立籠れり。爲󠄀に、上杉安房守入道が舎弟道陀といへる禪僧、駿州より江島の御陣に參候し、
「憲忠が御所に敵對申したるは本人が不義の造意に非ず。偏に家臣共の企てにて候へば、御寛宥ありて、御和睦
なし下され候へ」との趣、頻りに嘆き訴へ申しければ、成氏も漸く納得ましまして、宥免さるべき由を仰せ出さ
る。依って諸人悦びたゝへ、鎌倉は無事に静まりけり。此の時、成氏より右の次第を京都へ注進せられしな
り。同八月、成氏鎌倉へ歸館し給ひ、同十月憲忠御免を蒙りて七澤へ歸參せり。是は京都公方より御教書下り、
愈々成氏と上杉方と融和ありて全く落着せしが故なり。扨も、来介胤持は康正三年六月十二日 卒す。廿二歲。嚴阿彌陀佛と號す。人=時に作る。 大日寺の記には、「上總國八幡合戦の時、即ち康正二年六月十二日に自殺、期は無量寺にあり」とあり。寬し、寶德二年四月廿一日、其の勢五百餘崎にて、鎌倉御所へ抑寄せたり。成氏は此の警報に接せしも、火急の事
とて用意の軍兵も少く、到底防戰叶ひ難ければ、二十日の夜半ばかりに、江ノ島に遁れて陣を取ろ。是は「合戰
難儀に及びなば、船にて安房・上總へ渡り、人數を催して再擧を圖らん」との策略なりけり。長尾・太田等腰越
まで寄せ來りける時、小山下野守鎌倉の急を聞いて眞先に馳せ向ひ、七里ヶ濱にて防ぎ戰ひけるが、小勢の悲し
さ敵し兼ね、家の子郎等八十餘人戦死して、其の身も手を負ひ引き退く。上杉方は勝に乘じて由比ヶ濱まで押し
來る所へ、鎌倉方の千葉新介・小田讃岐守・宇都宮肥前守四百餘騎にて馳せ向ひ、駈け廻り、追ひ散して、攻め 戰ひける間、太田備中・長尾左衞門が郎等百廿餘、算を亂して討死し、遂に大敗に及び、陣床も取り敢へず相州
樽谷庄へ引き退きたり。憲忠は、「今度の軍こそ我が本意より出でたるに非ろも、斯くなりては叶ふまじ」と思
ひければ、相州七澤山へ立籠れり。爲󠄀に、上杉安房守入道が舎弟道陀といへる禪僧、駿州より江島の御陣に參候し、
「憲忠が御所に敵對申したるは本人が不義の造意に非ず。偏に家臣共の企てにて候へば、御寛宥ありて、御和睦
なし下され候へ」との趣、頻りに嘆き訴へ申しければ、成氏も漸く納得ましまして、宥免あるべき由を仰せ出さ
る。是に依って諸人悦びたへ、鎌倉は無事に静まりけり。此の時、成氏より右の次第を京都へ注進せられしな
り。同八月、成氏鎌倉へ歸館し給ひ、同十月憲忠御免を蒙りて七耀へ歸參せり。是は京都公方より御教書下り、
愈々成氏と上杉方と融和ありて全く落着せしが故なり。扱も、千葉介胤持102は康正三103年六月十二日
卒す。廿二歲。嚴阿彌陀佛と號す。又興阿彌陀佛ともあり。又興阿彌陀佛ともあり。大日寺に葬󠄀る。
 大日寺の記には、「上總國八幡合戦の時、即ち康正二年六月十二日に自殺、廟は無量寺にあり」とあり。

50(118)


千葉介輔胤の事。幷に政智と成氏と合戰の事。附、成氏千葉へ落ち再び古河へ歸城の事。

第廿二代・・・・千葉介輔胤104は、應永廿八年六月七日生る。胤持子なき故に家督を相續す。胤持は胤輔の舎弟
なり。105一系に云ふ、十九代胤直の孫なりと。
父胤持未だ家督を継がずして卒し、輔胤未だ幼少なろ故、大伯父康胤、千葉の家督を継ぎしが、輔胤成人に及び
しかば、胤持106より家督を返し渡せるなり。頃歲、鎌倉の成氏と上杉房顯との合戰止まず。成氏遂に敗れて、
下總の古河城にわた徙り給ふ。又、足利政智は伊豆の堀越に居住あり。之を古河・堀越兩御所と稱す。扨武州・總州
なる成氏の味方は、文明三年三月、箱根山を打越え、伊豆の三島へ發向して、政智を攻めんとす。政智は小勢な
るを以て、駿河より加勢を講ひ、三島へ人數を出し防ぎ戰はれけるが、政智の軍利なくて、既に敗北に及びける
所へ、上杉の被官矢野安藝入道が政智に應援し、新手を以て立向ひたれば、成氏方の軍兵ら再度の戰に打負け、
山を越えて敗退す。此の時、上杉家の侍大將宇佐美藤三郎孝忠は顯定の命に依り、五千餘騎を率ゐて敵の退路に
待ち受け散々に攻めければ、千葉・小山・結城等の軍兵は残り少なに討ちなされ、這々はふはふの體にて古河へ歸城せ
り。上杉勢は勝に乘じ、同五月、長尾景信を大將とし、大軍を以て古河城を取圍む。城中より沼田・高・三浦の
人々馳せ出で、「此所を先途」と防ぎけれども、寄手は何分大勢にて、入れ替へ入れ替へ攻めけるにぞ、城兵も力
盡き、六月廿四日に至り落城せしかば、成氏は千葉を指して落ち行き、千葉孝胤107を頼み給ふ。輔胤・
孝胤之を佐倉城に迎へ、いと懇に扶助されたり。此の時、成氏の諸軍は各所に散亂せしも、結城一人のみは成氏

51(119)


の側を離れず。其の前途を見届けたりき。又、成氏の佐倉城に入りし事聞めろや、房州の里見・上總の兩武田・ 小金の原、其の外近國の諸兵馳せ集めて守護したり。猶又、上杉方は五十子に旗を立てて、成氏の無を退治せ
りと雖も、關宿の簗田、古河の野田、和市108佐々木を初め、那須・結城等の面々は無二の御方にて、なかなか屈
服の模樣なかりしかば、翌四年の春、成氏佐倉を發向ありて、古河城を攻め落し、路城の上、更に兵を五十子に
遣し、連戰數月に及びしに、上杉勢振はず。同年十二月四日、扇谷の大將上杉修理大夫政貞は討死せり。行年
廿四歲。未だ子なきを以て、老臣共評定し、故持朝の三男定政を修理大夫と稱せしめ、扇谷の家督とし、家務は
太田左衛門入道道灌に任せたり。又、山內上杉の家務は長尾景信死亡せしを以て、長尾尾張守忠景109
定より命ぜらる。

千葉傳考記卷四

長尾四郎左衛門逆心の事。

爰に長尾四郎左衛門尉景茶は、長尾一家の長老にて有勢の者なり。然るに家務職を同苗尾張守忠景に奪はれし
かば忽ち逆心を思ひ立ち、縁者たる故を以て、密に此の事太田道灌に相談せり。道灌これを聞きて、「一大事出
來ぬ」と思ひければ、顯定の前に走り、「景春と忠球とを和談せしめ、守護代を景春に仰せ付けられ候へ。左なく
ば御難儀遠かるまじ」と申しけれども、顯定ち評定人も承引なし。「然らば、景春を早々誅せられ候はんやと、

52(120)


諫むれど、是また聽き入れられず。其の年、駿河國に騒動あり。今川殿は扇谷の縁者にて、其の上伊豆の御所よ
り、御催しもありて、扱ひの爲めに、太田左衛門大夫、六月に駿河へ發馬し、同十月歸國せり。其の間に長尾景
春、武州鉢形城へ移り、武州・相州の內なる一味同心の兵を催し、一日に思ひ立ちて、五十子の陣へ押寄せ、兩
上杉を襲ひける間、文明九年正月十九日の夜、顯定・憲定・定正三人、「小勢にては叶ふまじ」とて、一旦上野國
へ打越え、然る後に大勢を催して景春を退治すべし」と申合せ、太田道真を殿として利根川を渡り、那須の庄へ
引き退く。景春一味の族には、武州豊島郡の住人豐島勘解由左衛門尉・同弟平右衛門尉、石神井城・練馬の城を
取立て、江戶・河越の通路を取切る。相州には、景春が被官人溝呂木城主越後五郎四郎、小磯といふ山城に立籠
り、金子掃部助は、小澤といふ城に籠るの間、太田左衛門入道道灌、下知として扇ヶ谷より勢を遣し、同三月十
八日溝呂木城を攻め落す。同日小磯の要害を攻むること終日、防戰夜に入りけれど、越後五良四郎は叶わずして、
城を明渡し降參す。それより小澤城へ押寄せけるに、此の城は難所にて落ち難ければ、河越城へは、太田圖書助
資忠・上田上野介と松山衆を籠め、江戸城へは上杉刑部少輔朝冨・三浦介義口・千葉次郎自胤等を籠めて、敵の
來攻に備へたり。

太田道灌・千葉自胤等所々働きの事。附、成氏と想定との和睦。幷に千葉輔胤卒去の事。

されば、景春一味の實相寺、故に吉里宮內左衛門尉以下、小澤城の後詰として横山より打出で、當國府中に陣
を取り、先づ小山城を攻め落したろ後、矢野兵庫助を大将として若林といふ所に陣を取り、以て河越城の押へと

53(121)


なす。之を見て河越城に籠る太田・上田等、四月十日に打つて出でしを、矢野兵庫助初め小澤城衆、勝原といふ
所に出で迎へて合戰に及びけり。敵は矢野を初めとして、悉く打負け、深手負ふ者多くして引き退く。同月十三
日道灌又江戸城より打つて出で、豊嶋平右衛門尉が平塚を取巻き、城外に放火して歸りける所に、豊島は其の兄
勘解由左衛門の應援を得、石神井井に練馬の兩城より兵を出して攻め來りしかば、太田道灌・上杉刑部少輔・千
葉自胤以下の諸將、轡を駢べて江古田原・沼袋といふ所に馳せ向ひ、兩軍火花を散して戰ひけるが、上杉方勝利
を得て、敵將豊島不右衞門を初め、板橋・赤坂以下百五十人を討ち取りたり。道灌等勝に乘じ、翌十四日、石神
井城に迫りて烈しく攻め立てしに、豊島勘解由左衛門降参の旨申出で、同十八日、道灌等に對面の上、要害破却
すべきの由申しながら、なほも敵對の行動見えければ、同日遂に之を攻め落し、續いて金子掃部助が籠れる小澤
城を陥れたり。此の時、長尾景春は上州勢を引率し、五十子梅澤といふ所に陣所を構へ居たりしが、太田道灌が
所々の戰に打勝ちて、上州那須の庄へ兩上杉の迎へに來り、同五月十三日、利根川を越え、五十子へ歸陣せしを
見て、景春は其の軍を引退きけろを、阪上杉・長尾景忠・太田道灌・板倉美濃守・大森信濃守以下、大擧して用
土原に待ち受け、激戰數刻に及び、景茶の軍は敗北して残り少なに討ちなされ、共の身は鉢形城へ落ち行きたり。
上杉方は引續き、「鉢形城をも攻め落さん」とて、富田・四方田井・柏原に進軍したり。同七月初旬、古河氏、
數千騎を引率して、景春が後詰をなさんと、結城・西那須・佐々木・横瀬等諸将を隨へ、瀧といふ所へ出陣した
り。同十月、長尾景春・同六郎為景、公方の加勢を得て、荒巻といふ所に陣を張る。道灌鹽賣󠄀原へ陣取り、切所
を前に當て、待ち懸けしも、敵軍は空しく引退きて歸りぬ。其の後、文明十三年正月朔、築田中務が方より長尾

54(122)


左衛門方へ寺尾上野介を使として、御和睦あるべきの由申し來ろ間、雙方和談して合戰を止め、互に陣所を引き
拂ひたり。是は千葉輔胤が長尾昌賢を說きて、成氏と顯定とを和睦せしめ、成氏を古河城に復臨せしめられしな
りと云ふ。同十七年、輔胤は成氏を諫めて、「将軍義政・義荷の號令に背反し給はざらん事」を進言せり。斯くて
延德四年二月十五日、110千葉介輔胤卒す。七十二歲。法號珍阿彌陀佛。又常公とも號す。

千葉介孝胤の事。

第二十三代・・・・・千葉介孝胤111嘉吉三年癸亥五月二日生る。其の後文明九年、扇谷の定政は、太田道灌を伴ひて
上州倉賀野より同正月廿四日に河越城へ歸陣し、同廿五日、豊島勘解由左衛門が平塚の要害を攻めけろに、其の
曉に沒落したり。されど、敵なほ丸子・小機城に立籠る。依って上杉定政は、一先づ河越城に引揚げたり。此の
時、長尾景春は吉里宮內左衛門以下を伴ひ、大石駿河守が二宮城へ着陣して、小機城の後詰をなさんとす。同三
月十日、河越勢は之を見て二宮城へ押寄せけれど、戰ひ利あらず。景春は成氏の御陣へ參りて、千葉新介孝胤を
促し、羽生峯に陣取りければ、同十九日、太田圖書助資忠は小機の陣より引返し、同二十日定政の軍と共に羽生
に向ふ。この時、孝胤・景春は一戰に及ばずして引退き、大石駿河守が立籠る二宮城も降参し、繊いて相州磯邊
城も、小澤城を自落せり。されば、敵の翼は僅に奧三保といふ所を保つのみ。是に於て、太田道灌は村山に出
陣し、舎弟圖書助・同六郎を大將として奥三保へ向はしむ。敵は本間近江守・海老名左衛門尉、及び甲斐國鶴瀬
の住人加藤、其の他、彼の國境の兵共を騙り催し、同十四日逆寄せに攻め來ろ。圖書助先登して防戦し、海老名

55(123)


左衛門尉を初めとし敵兵數多討ち取りけり。道灌も村山の軍より抑寄せしが、敵兵の敗走に出逢ひしかば、之を
追ひかけ、甲州の境を越えて、加藤が要害へ攻め寄せ、鶴河所といふ所に放火して歸陣し、同十七日、荒川を越
え、鉢形と成田との間に陣を取る。成田の御陣より簗田中務大輔、使を以て、「上州にて申合せ候如く、公方兩
上杉御和談の間、別儀なく候へども、景春御近邊へ參り、頻りに願ひ奉り候て、御難儀に思し召し候間、景春を
押拂ひて然るべく、其の上、古河へ御座なされたき」由、申し來りければ、太田道灌馳せ向ひて景春を討ち破り、
其の間に、成氏は利根川を越え、七月十七日再び古河城へ御歸座あり。112顯定は鉢形城を以て我が居城と
定めたり。

武州葛西の千葉の事。幷に孝胤と道灌と所々に戰闘。附、臼井城合戰の事。

 千葉介孝胤は、先年父陸奥守入道常輝を伴ひ、故胤直兄弟に腹切らせ、成氏へ忠節を盡せしによつて、成氏よ
り千葉一跡を賜はりけり。共の後、胤直の一跡として、實胤を千葉介に任じ、上杉より下總へ差遣すと雖も、成
氏は孝胤を贔屓して千葉に居らしめける故、實胤は入部叶はずして、纔に武州石濱・葛西邊を知行し、時節の到
るを待ち居りしも、遂に世を厭ひて逝れ、濃州に赴きて閑居せり。されば、上杉家にては、其の兄の自胤を取上
げて、賞胤の跡を繼がしめ、千葉介に任ず。之を武州の千葉と稱せり。斯くて、千葉介孝胤は上杉景春に一味し、
所々の合戦に出陣せしが、一方又、成氏と上杉との和睦然るべからざろ由を説いて、其の間を妨ぐるにつき、兩
總の士ども、「孝胤は御敵の隨一なれば、同人を退治して自胤を取立てん」と謀り、兩上杉の加勢もありて、成氏

56(124)


の內意さへ得たりしかば、文明十年戌十二月十日、太田道灌及び二階堂某は、一萬餘の軍勢を率る、先づ下總國
臼井城に向つて出發したり。城主臼井備前守年胤は、上杉方の大軍押寄するとの報に接し、援兵を講ひ來りしか
ば、輔胤嫡子孝胤及び一族等に命じて、臼井城を救はしむ。道灌軍壘を同州國府臺に築きて、假の陣城となし、
同國境根にて合戰に及びけろに、孝胤打負けて原二郎・木內以下多く討死し、殘當は臼井城に立籠れり。明くる
文明十一年正月十八日、上杉勢いよいよ臼井城に押寄せしが、此の時、道灌は歸陣せる故、太田圖書介大將とし
て全軍を指揮したれど、城中能く防ぎ、且、寄手小勢にて叶はざりしかば、「管領自ら御馬を進められ候へ」と望
むと雖も、是も意の如く運ばず。殊に敵城要害堅固にして力攻めになし難かりき。この時、寄手の一隊は上總に
討ち入り、廳南城を攻めけろが、城主武田參河入道信興防戰叶はずして、七月五日降参し、自胤に露服す。真里
谷の上總介も同じく自胤へ味方せり。其の外、下總國飯沼も落城して、海上備中守も亦降服したり。自胤は未だ
入部はなけれども、かくの如く兩總州は大方平定なし けるにより、臼井の寄手も、「長陣なれば一先づ歸陣すべ
し」とて、七月十五日陣拂ひする體を見るや、城中より切つて出づ。太田圖書助取って返し、激しく攻め戰ひ、
遂に城をば攻め落したれども、大將圖書助を初め、僧中納言。佐藤五郎兵衞・桂縫殿助以下五十三人討死せり。
かくて孝胤は敗北して引退き、自胤も長陣に努れ、軍勢數多失ひければ、臼井へは城代を置きて、石濱まで開陣
なしたりけり。

上杉顯定と上杉定正、菅谷原對陣の事。幷に伊勢新九郎長氏堀越御所及び小田原城を攻取ろ事。成氏公逝去の事。附、孝胤卒去。千葉四天王の事

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是より先、文明十一年二月、千葉介は下總國青根村を香取宮へ寄進せられ、神領となす。此の頃、千葉氏は房
州の安西及び里見等と國境に於て度々戰あり。家士無木刑部少輔常信113戰功を抽んでけろ故、其の功を賞し
て、上總國長柄郡岩井城に居らしめ、且、本氏金田に復して房州を窺はしむ。其の後、延德元年六月に至り、山
內の上杉定正との間に隙を生じ、相州質谷原に於て對陣あり。孝胤乃ち臼井備前入道玄光に命じ、兵を出して顯
定を援助せしめたり。然るに、此の戰は顯定・憲房父子の敗軍となりしも、既に日没に及びければ、敵將定正は
「長追ひなせそ」と引返し、政氏公114に色代して、古河の御所に送り入れ參らせ、己は扇谷へ引揚げたり。
同年十二月三日、上杉修理大夫定正・古河政氏の兩將二千餘騎を引率して、武州高見原に出張あり。上杉民部大
輔顯定三千餘騎にて應戰せしが、顯定の軍敗北せり。同三年四月五日、堀越御所左衛門督政智逝去す。春秋五十
七歲。勝幢院殿と號す。御子息茶々丸家督を継ぎ、伊豆國堀越の御所とて、近境諸國の武士、恐れ從ひたる所に、
其の家臣外山豊前守・秋山藏人兩人を、近習の讒を信じて誅戮し給ひしかば、伊豆國中大いに駆動し、御所の上
下亂れ立ちたり。當時、伊勢新九郎長氏115元は京都より出で、今川氏親に仕へて段々出世せしが、元來武
略に長けたろ者なれば、其の間に有為の人材を懐柔して、部下に抱へ、竊に時機の來るを窺ひ居たりしが、此の
度堀越御所の變事を聞くや、「時節到來せり」と、不意に御所を襲ひて火を懸けけり。城兵防戰の進もなく、茶々
丸は城外に遁れ出で、山本の寺院にて自殺せり。是より新九郎長氏、伊豆を押領して韮山城に居住す。扨又、上
杉修理大輔定正は、生年五十二歳にて、明應三年十月五月卒し、子息五郎朝定相繼ぎて武威を墜さず、武州江戶・

58(126)


河越の兩城を守り、顯定に對抗して屈する色もなかりけり。一方、伊豆・相模には伊勢新九郎益々猛威を振ひ、
北條・小田原の兩城をも攻略せりと聞え、加之、兩上杉は互に鎬を削りて戰ひまざれば、古河の公方には安き
心もなかりけり。然るに、左兵衛督成氏公の心地例ならず煩ひ給ひけるが、明應六年九月晦日、六十四歳にて逝
去あり。御息政氏は引續き古河の御所に在しけり。是より九年の後、永正二年八月十九日、孝胤卒す。年六十三。
法號眼阿彌陀佛、又常輝と號す。此の孝胤の時代に、千葉の家士其の功名ある者四人を千葉四天王と稱せり。所
謂る木內・鏑木・原・園城寺これなり。又抑田近江守といふ者あり。是は陸奥六郎源義隆の後裔なり。平治昔、
義隆の嬰兒を千葉介常胤預りて下總國に下りけるが、今の近江守は其の嫡流にて、孝胤の妹婿なれば、國政軍事
の相談にも預れり。此の時より押田氏の家紋に九曜星を附けたるは、これ千葉氏より賜はる所なり。

千葉介勝胤の事。

第廿四代・・・・千葉介勝胤は、文明三辛卯年十月五日誕生なり。永正元年九月、山內の上杉顯定と扇谷の上杉朝良と、
武州立河原に戰ふ時、勝胤兵を率ゐて顯定の軍に加勢す。大永年中、古河の晴氏北條氏綱の女を娶りて室となし
給ふ。是よりして千葉氏は心を北條家に通じ、其の後縁者となり、互に盟ひてよしみを深くせり。頃年、家臣生實の
城主原次郎友幸は、上總國武田豊三・眞里谷參河守と既に戰を挑む事數度なり。勝胤兵を出して原を助く。故に
武田・眞里谷方戰ふ每に利を失ふ。是に依て源義明を迎ふ。義明は古河政氏の二男なるが、是より先、父兄と不
和にて、奥州へ出奔し、勇名甚だ高かりけり。此の義明を主將として籌を運し、遂に生實城を陥れ、義明此の城

59(127)


に居給ひて武威を逞しくせり。此の故に、勝胤は北條氏綱と謀りて、之を討伐せんとす。氏綱曰く,「方今隣國い
づれも戰闘の患あり。大を忘れて小を争ふ事は、將の好む所に非ず。須らく時を待ち給へ」となり。之に依て、
義明とは暫く和を講ぜり。勝胤は禪全宗に歸依し、天文元年春二月、開山花翁植芳大和尚の爲に、一禪寺を印幡郡
濱宿の邑に建立し、常くわつ山勝胤寺と號す。千葉家藏の千葉石は此の寺に納めらる。同年五月廿一日勝胤卒す。年
六十三。法名其阿彌陀佛。或は月経常歲居士と號し、又常料ともいふ。
 此の時、千葉家の家士一老臣は鈴木紀伊守なりと云々。一系圖に、勝胤の長子資胤は椎崎と號す。これ武州の
 千葉なりとあり。然れども、武州の千葉は滿胤より出でたり。其の年歷を考ふろに、千葉十七代滿胤は應永三
 十三年卒す。此の滿胤の三男賢胤は武州石濱に流され、共の子實胤・自胤は武州葛西に移り、實胤は其の後濃
 州に遁る。さて又、廿四代勝胤は、文明三卯年に生れ、満胤卒去の年より四十五年の後なり。此の勝胤の孫な
 る質胤・自胤兄弟が、文明十一年の頃に一方の大將となりて戰場に出でし事、鎌倉大草紙・同後錄等に顯然た
 り。勝胤さへ此の文明十一二年の頃は、十歲ばかりの童兒なり。いづくんぞ孫といふ事あらんや。時代の相違
 も亦甚しといふべし。

千葉介昌胤の事。

 第廿五代・・・・千葉介昌胤は、明應四年五月十Hの誕生なり。天文六年十月、源義明生實城に在りて益々威を振ひけ
ろより、古河晴氏これを悪み給ひ、北條氏綱・氏康故に昌胤に謀りて討伐せんと欲せらる。義明此の事を聞き、

60(128)


房州の里見義弘等を催して、總州國府臺に出張せらる。北條氏綱父子亦大軍を率ゐて出陣し、江戶川を隔てて大
いに戰ふ。昌胤も兵を出して之を援く。義明遂に敗れて討死し、義弘は房州に逃げ退く。是に於て、北條・千葉
は共に兵を攻めて凱旋し、昌胤は原上總胤定を生實城に居らしめたり。同十五年正月廿四日、千葉介昌胤卒す。
年五十二。法號法阿彌陀佛。又眞英常天大定門といふ。

千葉介利胤の事。

第廿六代・・・・千葉介利胤は、永正十二年乙亥八月五日の誕生なり。母は金田左衛門大夫正信の女なり。千葉家と房
州の里見とは、數十年來互に領地を争ひて合戰絕める時なかりしかば、昌胤卒去の後、堅城を國境の所々に築き、
金田・椎木・鶴見・小林等の諸臣を配置して房州を窺はしめ、或は北條に應じ、相州・武州の地に出兵して合戰
數度に及べり。利胤は北條氏康の妹を娶り、二萬貫の分限にて千葉城に居住し、又印幡郡櫻116,にも、隠居所と
號して堅城を築き、兼持せられけるが、去年正月昌胤卒去の後、國政を執ること二十箇月にも満たずして、天文
十六丁未年七月十二日、卒去せらる。年三十三。法號覺阿彌陀佛。又慶岩賞賀大禅定門と號す。
 或書に曰ふ、利胤の家臣一老をば門奈越中といひ、二老をば園城寺左衛門大夫というと。又或記に云ふ、原・
 木内・楠木を以て三家老とす。押田氏は利胤の妹婿として國政の意見を問はる。中にも原は胤親の男豊後守光
 胤が末にて、117葛飾郡臼井城に住し、主君利胤にも過ぎたる人數持ちなり。陪臣には、兩酒井・高城な
 どいふ者、皆郡邑を多く持ち、其の主原にも超えたる身上なり。其の頃、土俗の諺として、下の上に優れる

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 千葉は百騎、原は千騎」といへり。或は、「千葉に原、原に高城・兩酒井」などいひしとなり。此等は皆
 千葉家の末世になりて武威衰へし證といふべし。木內も、鏑木も、之に倣つて其の分限宜しく、殊に鏑木は華
 美を好む性質なりけり。又、押田氏は其の先森冠者よりの由緒これあるが故に、千葉氏も代々尊敬懇志の家な
 りしが、千葉氏さへも其の家士の強威に凌壓せらるる時勢なれば、押田の領分も何時となく彼の輩に略奪せら
 れ、此の頃は木內・鏑木等の諸族に比べては、其の半分分にも及ばざる有樣にて、千葉介の命を受けて軍立する
 にも、木內・鏑木には甚だ劣りて不勢なりき。殊に鏑木は前記の如く、華美を好む男故、甲冑は固より馬・物
 具に至るまで壮麗を極め、諸人の目を驚かせければ、兒童の戯言に、「鏑木殿は黒の駒、押田殿は鼻かけ牛に木
 轡」といひけるも、此の時代の事とかや。

千葉介親胤の事。幷に武蔵野合戰。附、千葉笑といふ事。

第廿七代・・・・千葉介親胤は、天文十年辛丑九月十五日に生る。同廿三年古河の晴氏約を違へて北條氏を討滅せんと
す。是に依りて、北條氏康大兵を發し、古河城を攻む。親胤幼弱なるを以て、鏑木長門守胤義をして軍を司せ、
原・椎名・押田・佐和・設樂等にも相議せしめ、六千餘騎を以て氏康の軍に加勢ありしが、既にして城陷り、晴
氏父子は囚虜となる。親胤或時新城を築きて之に居らんと欲し、近隣の南方に土木工事を興して、既に竣成に至
りしも、未だ果さざぶる事ありて、暫く鹿島大與次を此所に居らしむ。即ち此の城を名づけて鹿島の新城といひ、
舊城を本佐倉城と稱し、代々の菩提所海隣寺を新城の傍に移せり。弘治二年十月、越後國上杉謙信、關東に出兵

62(130)


して北條氏康と對陣す。親胤亦氏康を援く。是より先、天文廿二年四月、謙信は将軍義輝公の旨を受けて古河の
御所を攻圍むとの沙汰あり。續いて平井より古河へ向け多勢の軍兵押寄する用意ありと聞えければ、親胤は直ち
に南方118脚光へ使を馳せて、北武藏まで氏康の出馬を勤め、其の身は領內の兵を集め、「半端途に逆寄せして、上
州武士を一當あてゝ、世上の眼をば覺させん」と、事もなげに擬勢し、原・鏑木・椎名・押田・佐和・設樂等を
先隊後時に、其の勢六千餘騎を以て總州を打立ち、武州大里郡熊谷を抑通り、坤の方荒川を筋違に渡し、村岡河
原に着陣して屯集す。關宿の簗田中務大輔政信119守谷相馬の家中河口播磨守、布川の豊嶋三河守、野州榎本
の近藤出羽守、結城の陣代岩上左京亮、武州幸手の一色忠三郎直篇以下、これ亦古河御所の催促に依り、勝胤が
見繼として、千葉勢の迹を囁み北武藏へ發向す。謙信平井に於て此の報に接し、軍を進む。第一陣は太田三樂齋、
二陣は長野信濃守、三陣は旗本と定め、「なほ戰地に臨みし後、時宜に依り、重ねて手配の令を下すべし」とて、
既に境川を押渉れる所に、深谷・本庄・高山の面々は、「越後勢が當所の案內を知らずして深入りする所を、千葉
勢に先だって之を懸け止め、一泡吹かす程ならば、武州の地に、やはか敵をばたむろさすまじきもの」と、評議一決
の上、備を立て、待ち居たりけるを、諜者謙信に告げたりしかば、甘糟近江守景持に「遊軍の備を以て駈け散ら
せ」と下知ありたり。景持畏つて、武州勢に馳せ向ひ、散々に打破り、斬獲の首級を途中に於て實檢に入れける
に、謙信は「物始吉し」とて、直ちに村岡河原に前進す。此の時、長尾但馬入道景朴・佐野周防守昌綱・長沼山
城守俊宗、及び赤井・富岡の三千騎ばかり、援兵として駈け付け、一方の手當を望む。謙信は太田・長野等に謂
ひて曰く、「先登の事、最初兩人に命じ置くと雖も、千葉の如きは元來予が眼に懸くべき敵に非ず。然れば、此等

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の敵は、野州衆の競望に任せて荒ごなしさせ、二の躬は、予が親軍はたもとを以て勝負を決せんに、異議あるべからず。
近日氏康出張の由風聞あれば、其の節は、最前定めし如く、兩將先鋒として粉骨を励まさるべし。此の度は、各
方遊兵となりて越後武者の駐引を見物あられよ」とありければ、太田・長野承つて之に應ず。時に、柿崎120
121・竹俣122等、頗る無興の顏色にて澁り勝なる體を見、謙信曰く、「加勢に堪を任する事、汝等残念に思ふと覺
ゆ。されど、吾が兵は本國より長途を押來り、疲努未だ去らず。且、地勢にも不案內なり。赤井・足利・佐野の
面々は第一地の利を克く知れり。其の上、援兵の規模なれば、これに先鋒を命ずること勿論吾が本意たり。但し、
敵思ひの外大勢なりと聞く。定めて野州衆の手に餘るべし。其の時は、旗本二の躬を用ひて、汝曹が心の儘に高
名させんずるぞ」とありければ、越兵共漸く心を落着けけり。關東衆は此の詞を聞き、「何條二の躬まで遣ひ立た
せん」と、互に鋭氣を勵し、やがて、兩軍関の聲を合せ、弓・鐵砲を射違へ打交󠄁かはす程こそあれ。野州勢馬首を竝
べて敵陣に乗り入れ、息をも繼がず擊しければ、原上野介を初め、上總東金の酒井左衛門佐重光、同國土氣の
酒井伯耆守康治の陣は崩れ立ち、次で後陣も四度路になるを見て、長尾左衛門尉政勝・柿崎和泉守景家・河田對
馬守親章・竹俣筑後守森滿ら、「すは、時こそ到れ」とて、親胤の旗下へ左右より叫び掛り、敵味方火花を散して
攻め戰ふ。大將謝介自ら太刀振り翳して數人の敵兵を討ち取ると雖も、其の身も數所の手を負ひ、乘馬も倒れ、
「今は討死」と見えける所に、椎木小左衛門といふ覺えの者、介抱して一方の血路を開き、漸く戰場を立退きし
が、上杉勢は「逃さじもの」と追ひ掛け來る。椎木忽ち取って返し、「當手の大將千葉介親胤、武運盡きて討死す
るぞ」と呼ばはり、越兵佐梨某と渡り合ひ、相擊ちして果てたりしが、親胤は其の隙に乘じ無事に引揚ぐること

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を得たり。此の時、關宿・守谷・布川以下の敵兵、上尾・鳴巢邊まで押し來りけるが、最早軍散じける後なれば、
「今は古河の御館心許なし。警固せんには如かじ」と申合せ、皆總州へ引返しぬ。扨又、謙信は勝に乘じて古河
表へ働くべかりしに、此の戰に士卒疲労し、加之、氏康父子大軍を引率して小田原を出發する由聞えければ、藤
岡川の南岸に陣を張りて休息す。それより金窪原に於て北條・上杉兩軍の大會戰あり。世に之を武藏野合戰とい
ふ。そもそも、親胤若年たりと雖も、勇氣膽力人に超えたり。されども剛慢驕慢にして、國政をなすに往々私あ
り。故に氏族諸臣之を疎んじ、信服せず。其の兄胤富に家督を繼がしめんと、弘治三年八月七日、佐倉城中に於
て猿樂を催し、親胤をして之を観せしむ。親胤其の危機を察知し、窃に妙見社內に隱れんとする所を、家臣小野
某追跡し來り、涉十兵衛といふ者をして親胤を弑せしむ。時に年十七。法號眼阿彌陀佛。又總泉寺殿月窗常圓大
禅定門といふ。
 下總國千葉寺に、毎年十二月晦日の夜、千葉笑といふ事をなす。人々面を隱して來會し、其の地頭役人の依帖
 贔屓ある事を互に誘り笑ふなり。誰制する者もなく、恒例の如くなり來れるが、かゝる不敬の事共、此の頃よ
 り始めたろにやあらん。

千葉介胤富の事。幷に千葉・小山座論の事。附、北條と上杉・里見・武田等戰爭の事。

第廿七代・・・・千葉介胤富は、母は利胤に同じ。大永七年正月十五日生る。父昌胤、嘗て領地を分ち與へて、下總國
森山城に居らしめ、郡境の守衛とし、或は房州の敵を窺ひ、或は常州の讐を討つて、一族・家臣・磨下等を指揮

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せしむ弘治三年舎弟親胤生害の後、家督を相續して佐倉城に移る。同十月十五日、臼井の城主臼井景胤死す。
景胤が子久胤なほ幼なり。されど臼井城は要害の地たるに依り、生實の城主原上總胤貞をして同城の本丸に居ら
しめ、久胤を十二の郭に置く。永祿二年、古河義成の下總國關宿城に移ろや、越後の上杉謙信は、小田・宇都宮・
佐竹・那須等の諸将を催して關宿城を攻め亡さんと欲す。是に依つて、北條氏は胤富及び結城・壬生等に謀りて
援兵を出さしめ、關宿城を守護せしむ。同三年二月、謙信は鎌倉に入りて管領職に任ぜられ、關東の諸大名を催
し招き、近衛殿を具せられて鶴ヶ岡八幡に參詣あり。此の時、諸方より馳せ集めたろ大小名の中に、千葉介も近
衛殿參の社供奉仕らんとて、和睦を乞ひて鎌倉に來れり。然るに、胤富と小山下野守高朝との間に、端なくも
座位の諍論起りしかば、謙信これを聞きて、「凡そ關東の八家は、朝廷より定めらるゝ所の高家にて、屋形號を敕
免の上は、分限の多少にも依らず。上代の由緒、古來の家例、最も定格あるべきなれども、今陣中忽々の儀なれ
ば、舊記を刺すに據り所なし。所詮、千葉殿は東八箇國の諸士の上席たるべく、小山殿は八州の諸士の下たる
んからす」と評むがむければ、兩人納得して、左右の座次異る事なかりしとかや。123
既にして、成田下總守長泰、無禮の事ありしかば、謙信怒つていたく咎められしに、成田面目を失ひ、早速忍の居
城へ馳せ歸ろ。之を見て如何思ひけん、一番に大石源右衛門は片倉へ去り、二番に千葉介は總州へ引揚げたり。
それより小山・一色・結城・長沼・壬生・毛呂・相馬の大小名も、引概き皆々己が居城へ引退く。同四年三月、
謙信は上杉憲政を伴ひ、太田三楽を使として關東の部族を相催し、北條氏を討伐せん爲め、小田原の城下に攻め
入りたり。此の時、佐竹義重は常州を發し、總州の古河・小金・戶封とげ・東金・武州の江戸・忍等の各地を侵す。

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又、里見義弘は其の部兵を分ち、正木左近大夫と板倉某とを一方の意とし、船軍を以て相州金澤124
乘り取らんと欲し、別に正木大膳を將とし、北條の味方たる千葉新介が居城佐倉を押へて、臼井城を攻む。
城主原胤貞防戰せしも、或時夜討に遭ひて城遂に陥り、胤貞は退きて生城に入りしが、敵兵追ひ迫り、同
城亦攻め落さる。胤富は胤貞の敗報に接し大きに怒り。急に兵を出し、原胤貞を先鋒として正木大膳の兵を打破
り、或は援兵を小金・戶卦・東金等の諸城に遣して佐竹の兵を防ぎ、又、兵を分ちて佐竹の居城を襲はんとせり。
胤富は、先づ粟飯原出雲守を將として小田原の救援に赴かしめ、續いて自身亦出馬せんとせしが、謙信小田原を
退散せしかば、胤富も兵を収めたり。同七年正月七日、北條氏康・氏政と、里見義弘及び太田三樂と、總州國府
臺に戰ひし時、胤富は家臣小金城主高城治部大輔胤辰をして北條勢を援けしむ。既にして、里見軍大に敗る。此
の役、上杉謙信は里見義弘と相應じて北條勢を挟撃せんとの約なりしも、謙信出兵に際し、北國の雪未だ消えざ
るが爲め、空しく時日を移して其の機を失したり。されど、謙信は其の約を履んで、同三月兵を發し、總州臼井
城に來り攻む。城主原上總介貞・同式部大輔胤潟故に大藏胤安等力を合せて之を防ぎ、急を胤富に告ぐ。胤富
乃ち根津次郎・椎名兵庫・高城治部胤辰・白井下野入道胤治・平山正左衛門、故に兩酒井等を援兵として同城に
赴かしめ、又、北條氏康よりは松田孫太郎を遣はして應援せしむ。斯くて、城兵必死に防戰すと雖も、勇猛無双
の謙信を敵に受けたる事なれば、勝負の結果如何を氣遣はれしに、白井入道能く軍機を察し、籠城の諸兵を励ま
しけるため、城兵善戦して遂に敵兵を騙逐し、流石の謙信も退陣せり。永祿九年三月廿三日、謙信は結城晴朝と
共に再び臼井城を攻め討たんとし、水谷伊勢守勝俊125を先鋒として競ひ掛る。胤富自ら諸兵を指磨して迎へ

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戰ふ。謙信・晴朝の軍また利あらずして引退く。胤貞・胤展等敵の殿後を撃つて之を破る。同十一年、武田信玄
は今川氏眞を攻めて駿州に軍し、同十二年正月、北條氏康は氏眞を救はんが薦め出陣す。胤富も氏康の催促によ
り兵を出して駿州に向はしむ。同四月、氏康・信玄互に共の陣を撤す。胤富亦總州に還る。同七月、信玄小田原
城に迫る。胤富は原式部大輔胤満を遺して之を授く。信玄の軍夜襲を受けて敗退す。一說に、武田の兵は津波に
逢ひ、命からがら、八幡大菩薩の旗を打捨て、逃れたりと云へり。天正七年五月四日、千葉介胤富卒す。年五十三。
法名其阿彌陀佛。又眞岩常源大輝定門と號す。

千葉介邦胤の事。

 第廿八代・・・・千葉介邦胤は、胤富の二男にて、母は邊田山城守の女。弘治三年丁巳三月廿二日の誕生なり。北條氏
直の女を娶りしが、實は氏直の姉なり。天正元年十月、下總國關宿の城主築田中務大輔、北條に叛きて佐竹に屬
せしかば、氏政出馬して關宿を攻む。胤富亦邦胤に命じ、原式部大輔胤満・高城治部少輔胤辰・石出將監等をし
て之を討たしむ。上杉謙信・佐竹義重後詰として出陣し、兩軍大に戰󠄀ふ。石田將監疵を被りて遂に死せり。明年
五月、佐竹・宇都宮等和を北條に請ふ。是に於て、簗田中務關宿城を退去し、常州に往きて佐竹氏の客となる。
同十年四月、織田信長は武田勝頼を討滅し、其の勢に乘じて關東を併呑せんとの大志を抱き、瀧川左近將監一盆
を上州厩橋に、川尻肥後守を甲州に居らしめ、而して後、先づ使札を邦胤に通じ、乘馬を贈り來けるが、其の
詞甚だ驕慢なりしかば、邦胤は其の無禮を怒り、「信長勝頼を討滅して北條を侮る。たとひ氏政・氏直父子は信

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長に屈伏せらるゝ事ありとも、我何ぞ彼を恐れんや」とて、其の使者を辱しめ、頭髮を剃り、且、贈る所の馬の
露尾を剪つて返しければ、使者は這ふ這ふの體にて逃げ歸りぬ。然るに、信長は同年六月二日、家臣光秀の爲め
に熱せられければ、瀧川一益は其の變を聞きて、「光秀を討伐するは畿內諸將の任なり。我は先づ兵を發して北條
を攻めん」と、上州の諸將に謀りて挑戰の書面を小田原に遣はす。氏政之に應じ、氏直に命じて、一族及び譜將
と共に進發せしむ。邦胤亦參加し、敵兵を迎へ擊って一舉に打破りしかば、瀧川は敗兵を収めて勢州に立歸り。
此の頃、神君126の御家臣本多某、甲州に入り、土豪川尻等を討ちて同國を平定し、以て神君を迎へ奉ろ偶々、
氏直る甲州に手を入れんとて、邦直と共に同國に進發し、若御子表にて神君と對陣すること十旬、既にして兩軍
の間に和睦成り、神君の姫君を氏直に嫁せしめらるゝ事を約せられ、同十一年七月、御婚禮相調ひけり。127されば、兩家親緣となつて全く無事に歸せしを以て、同月氏直は小田原に歸り、邦胤も亦佐倉へ引揚げ
たり。是に於て、小田原城より氏直の家臣中條出羽守を使とし、書札及び短刀128に添へて酒肴數品を贈り、長
陣の努苦を謝せられしかば、邦胤も之に對するに相當の禮を以てせり。

千葉介邦胤横死の事。

 千葉介邦胤は、父胤富がに天正七年五月四日卒去せしため、二十三歲にして家督を継ぎ、既に十年を經た
り。天正十六年戊子正月初旬、新正の賀儀として、旗下の士大將六七人佐倉へ來り、每例の如く禮儀を整へ、書
院に於て饗應あり。時に鍬田萬五郎といへる近習、未だ十八歲なりしが、配膳を勤むる中、放屁すること兩に

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及ぶ。邦胤怒り、之を叱して辱しむ。萬五郎其の席の中央に跪き、「卒爾の失錯は平常これあるべき事なろに、か
ゝろ晴れの坐席に於て覿面てきめんに辱しめを蒙ること、つれなき仕合なり」と、憚る所なく述べければ、邦胤いよいよ
堪へ兼ね、はたと蹴倒し、短刀に手を掛けられしを、側より引立て退去せしめ、列座の士大將ら兎角に邦胤を言
ひ宥めて、萬五郎をば椎津主水正に召し頂け置きけり。固より志慮分別足らざる少年が一圖に思ひ餘りたる末、
不覺の返答に及べる條、其の咎を赦免あるべき旨、諸臣いづれも詫びけるまゝ、閏五月中旬勘氣を免され、其の
儘出勤し居たりけるも、最初の首尾をば無念に思ひ詰め、「折あらば鬱憤を散ずべし」と、絶えず其の隙を窺ひし
程に、七月四日の夜牛ばかりに、邦胤の震所へ忍び入り、二太刀刺して逃げ出でたり。千葉介起き上り、「憎き子
悴めが所為かな」と、唯一聲申されしを、次の間に臥し居たりし宿直の者ども聞き付け、走り入りて見れば、邦
胤は朱殷あけに染まり、「鍬田めを逃さず討ち捕れ」と、只一言を名残として絶え果てたり。家人等仰天して八方へ手
を分け搜索すれども、はや近邊には見えざりけり。爰に又、鍬田は夜半の事なれば、城門は閉ざされ、暗さは闇
し、逃れ出でん術なく、物陰に姿を隠し、暁天に至り塀を乘り越えて城外に出で、菊間の臺まで落ち行きしに、
討手の人數はや前途に充ち満ちて、通るべき樣もなく、林の茂みに分け入り、腹掻き切つて失せにけり。時に邦
胤の息千鶴丸は未だ六歲129の事なれば、譜代の家人等相議して、先づ南方130へ註進し、氏政
父子の旨を伺ひけるに、「千葉・佐倉は四方の敵地に介在し、樞要の場所なり」とて、臼井の城主原式部少輔胤成
を佐倉に移し入れて軍代と定め、千鶴丸をば小田原へ招きて人質となしにけり。此の千鶴丸後に新介重胤と稱
し、晩年長胤と謂ひしなり。老臣設樂左衛門尉は其の傳として隨從し、共に小田原へ赴けり。又、千鶴丸の姉の

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十二歳にてありけるを、氏直の下知として、其の年十一月、總州加島といへる所に、新しく屋形を造りて移され、
中村雅樂助女を付けて養育の任に當てしめたり。さて、邦胤は三十二歳にて卒去し、法號傑心常俊大禪定門と構
し、又、法阿彌陀佛ともいへり。そもく千葉氏は、妙見菩薩の靈應に依りて、當家幕紋には月に星、或は七星、
又は九曜・十曜を用ひ來れり。さればにや、千葉の總領正統に立ちぬべき者には、身體の中に月星の光形ある事、
累代の規模にして、眞に奇異の一端なり。然るに、邦胤の祖父利胤は、天文十六年七月三十三歲にて卒去し、男
子二人あり。長男胤富は仁慈の生得と雖も、疣形なかりし故、家臣等相議して別に一城を持たしめ、二男親胤に
其の象形あるを以て家督と定めたり。然るに、親胤稟性暴虐にして永く社機の保護者たるべしとも見えざりましま
ゝ弘治三年八月七日潜に之を弑し、其兄胤富を宗嗣に定む。是の故に、親胤が最期の怨念しばしば現形して崇
をなせり。「此の度、邦胤の横死も、親胤の怨靈の為せる業なり」と、其の頃家中一般に沙汰し合へりとなん。

千 葉傳考記 卷五

千葉介重胤の事。附、小田原籠城の事。

 第廿九代・・・・千葉介重胤131晚年に及んで、髷を結ばず、俗名を稱せずして諱の字を漢音に誦し、千葉重胤ちやうるんと號
せり。母は北條氏直の女、實母は岩松萬次郎132の女。天正十一年癸未五月朔誕生。同十六年父を喪ひて
家督を相續す。時に六歲。

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 或系圖に、重胤此の時十歲と記し、其の弟に俊胤八歲・正道四歲とあり。記錄諸系を考ふるに、重胤に弟ある
 事なし。若し幼年にて死せる弟ありしか、知らず。姉は一人ありて早世せり。然るに、今の世、「千葉の正傅な
 り」と名乘る者出で、右の如くに弟の名を拵へ設け、それより自己の系連をまことしやかに拵へ、以て人を欺く者
 あろ由、聞き傳へたり。
 北條氏直故に柳君にも重胤133の幼弱なるを憐み給ひ、御懇待の御志ましましけろにぞ、一族・家臣等に命ぜ
られて、能く輔佐なさしめ給へり。扨此の頃、豊臣秀吉公の威風天下を靡かせしが、北條氏ひとり之に服ず、
却つて近國を窺ふの意あり。されば、天正十七年四月、書を重胤に贈り、豫め軍事あらんことを識されしとぞ。
然ろ所に、秀吉は北條に對し上洛を勧め來りたれど、北條これを斥けて其の勧告に應ぜざりしかば、秀吉は遂に
北條討伐の意を定め、神君及び前田利家、其の他の諸將を催し、自ら大軍を率ゐて小田原城に攻め寄せんとす。
是に於て、北條方も亦關東の諸城に相觸れ、或は小田原城に立籠り、或は所々の要害に人數を配りて守備を固め
たり。是より先、神君は密使を重胤に送りて宣はく、「方今四海悉く秀吉の磨下に歸せり。顧るに、御邊ごへんは北條の
姻家たりと雖も、時運を察して家を全うするの計略なくんばあるべからず云々」と、嚴に教諭する所あり。重胤
は幼年なるがため、一族・家臣等相議せしも、衆議紛々一決せず。殊に前年秀吉の主君信長の使節に對し侮辱を
與へし事あり。「されば、秀吉の思惑も如何あらん」など、彼是其の儘に過す中、翌十八年三月に至り、氏政より
頻に人質を講ひ來りし故、已むことを得ず母堂岩134を小田原の城に納れ、遂に神君の命を奉ぜず。一族相率る
て小田原に到り、湯本口にたむろせり。其の兵八千135重胤指揮に堪へざるを以て、一族の 中より押田與一郎吉正

72(140)


136押田庄吉胤友・原能登守胤次・原平四郎胤秋等を選び、代つて采配を振はしむ。茲に邦胤の舎兄137
千葉刑部少輔満胤といふ者あり。故ありて千葉の家督を継がず。隱居して御房上と稱せられけるが、重胤若年
にしてその身は伯父の事なれば、自ら進んで湯本口に來り、諸兵の指揮に任じ居たりしも、五月十三日遂に討死
せり。138さて、秀吉は先づ箱根山の城を拔きて小田原城を包圍し、攻戰數月に互れども、守備堅固にして
城兵能く防ぎ、兵根・彈藥も缺くる事なければ、容易に落城すべくも見えざりしに、關東の諸城すでに大半は攻
め落され、其の上、成田長康は降参し、城內に在る松田某は志を變じ、城中初めて危難を感ずるに至りしかば、
氏直は潜に神君の營に到り謀る所ありし末、使者を以て羽柴勝雅の陣に降を乞はしむ。秀吉一旦之を諾せしも、
七月六日を期し、氏政・氏直及び氏輝139城を出づるの後、俄に約を變じ、氏政・氏輝を自殺せしめ、氏直をば
紀州高野山に入らしめたり。されば、籠城の諸士等いづれも各方に退散す。かくて、北條氏は一朝に滅びしが故
に、千葉氏も共に没落し、重胤幼年の故を以て免され、邊鄙に蟄居して空しく年所を經たり。神君御治世の時、
重胤の母140台德廟141に仕へ奉り、御臺所142概し様分。の眷遇を蒙りけり。その後、重胤は寛永十癸酉年六
月、十六日江都に於て卒す。歲五十一。同所海善禪寺にて火葬し、石塔を同所日輪寺に建つ。遺骨は古川左兵衛
携持して、下總佐倉の海隣寺に納めたり。法號仁性院殿光常眞大輝門143又覺阿彌陀佛と號す。
 千葉正系譜といふものに、千葉重胤は後に諱を改めて長胤といふ。長胤の弟二人俊胤・正道の名あり。其の弟
 より自己の系連を引きたる者あり。接ずるに、重胤・長胤は二人の諱にして、一人の名に非ず。即ち長胤は鏑
 木權太郎が諱なり。又、同書に、邦胤の卒去を天正十三年と記せるも非なり。邦胤は、天正十六年七月四日

73(141)


144卒去なり。此の時、重胤は千鶴丸といひて六歲なるべし。右の系譜に、重胤弟俊胤八歲・正道四歲とあ
るは大いに非なり。重胤には弟あることなし。

鏑木長胤の事。

 鏑木權太郎長胤は、其の先を臼井四郎145 といふ。千葉重胤武州にて寛永十年病死の時、子なきによりて
鏑木權太郎長胤を養子とし、系圖弁に代々所傳の妙見不動尊・像鏡等を授與あり。長胤は其の後間もなく下總古
河に於て卒す。時に寛永十三丙子年正月廿六日なり。年廿四。法名常徹と號す。

千葉家の老臣召出さるゝ事。

 千葉新介卒邦胤は、初め北條相模守氏政の婿たりしが、北條の息女は一女子を産みて早世せしため、其の後岩
松治部大夫の姉を娶る。此の腹に男子あり。新木重胤といふ。邦胤死去の後、天正十八年に小田原陣あり。岩松
夫人は寡婦ながら六歲の男子146を伴ひて小田原城に籠る。同年七月小田原潔城に付、千葉家も隨つて滅亡せり。
同八月、關東八州神君の御領となり、神君・名家舊家共御尋ねありける時、千葉介邦胤の子供も御尋ねましましま
しけるに、彼の後室は重胤を隱して申し出です。是は北條家にくみしたるを以て、太閤への聞えを恐れ隱匿せしな
り。されど、千葉家の老臣原左五右衛門・押田庄吉・押田與一郎ら三人は召し出されて、将軍家の直參となる。
又、北條が息女の腹の女子には、御合力米二百俵下し賜はりしを以て、後室と重胤と共に千葉に居住せり。然ろ

74(142)


に、其の女子早世にて、所賜の二百俵の御合力米は召し上げらる。其の後、千葉家の居城總州佐倉は土井大炊頭
利勝の所領となりしが、利勝は重胤が千葉の正統にして民間に淪落せるを聞き、直ちに召抱へて千葉新介重胤と
名づけたり。されど、重胤素性悪しく、不器量にして、剩へ大酒を好み、萬事放埒なりしが、後遂に佐倉を出奔
し、江都にて客死せり。
 一系圖に云ふ、重胤の子新介定胤、下總國にて卒す。南岸居士と號す。定胤の子七之助来は亂氣して卒すと。
 いづれも追つて考ふべし。

千葉後室東殿の事。

 千葉邦胤の後室は、千葉家も絶え、岩松家も衰微せしため、兩家の願として147台德公の大御臺
148樣へ御奉公に出でらる。御年寄に東・西・南・北の四女あり。後室は東の方となり、東殿あずまどのと稱へ、一年
餘り相勤めける所に、大御臺樣は、寛永三丙寅年九月十五日御逝去遊ばされしかば、東殿も御暇出で、御扶持方
を賜はり、且、江戶長谷川町に町屋敷ありて、此處に居住なしたりけり。其の子新介重胤は佐倉出奔の後、浪々
の身となりて行くべき方もなく、此所に來りて母と共に居住し、入道して重胤と名付けたり。

千葉氏を庵原何某に譲る事。

千葉重胤入道して以來、千葉と稱する者なきに至りしかば、千葉の國人取持ちて、初め金吾中納言秀秋に奉仕

75(143)


せし庵原助左衛門といふ者の浪人してありしを、彼も千葉の餘類の由なるゆゑ、其の子を推して重胤の名跡養子
と定め、千葉妙見堂の拝殿に於て千葉新介と名乘らしむ。元祿十一年戊寅149の春松平越後守宣富の御家再
興し、新規に十萬石拝領ありし時、此の新介の男子も召し抱へられ、三十人扶持を賜はり、千葉內藏助興胤とい
ひて奉仕せり。
內藏助の姉は、松平家の留守居役小川忠右衛門が妻女となる。忠右衛門は、もと津輕越中守家の出なり。老後
に薩居して若水と號す。享保七年壬寅秋、七十八歲にて病死せり。二代目を忠右衛門といふ。父の職を襲ぎし
も、早世す。三代目は忠助と稱し、引き續き奉仕しけるが、同十二年丁丑、松平家破滅の爲め浪人となれり。

千葉權之助と稱する者の事。


或書に云ふ、千葉權之助と稱して、千葉殿の孫の由にいふ者あり。是は千葉の內にて、粟飯原孫兵衛といふ人の
事なり。彼は千葉邦胤が外戚の子なり。共を權之助と申し廣む。
當見曰く、今世の千葉耀之助が系圖に、長胤の兄弟四人を記す。妹は北條氏直の女の生む所にして早生せり。
次は男子俊胤とあり。後に云ふ粟飯原孫平の事なり。其の弟正道とあるは門井彌四郎と號し、門井丹波守定光
が養子となる。定光は邦胤の從父兄弟なり。承應三年五月十八日死せり。年七十二。法號正雲院響松一滴大居士
とあり。なは粟飯原孫平の事は末に出づるを以て茲に略す。
二代目權之助は 150門井文左衛門といひて後室に召し仕はれ、長谷川町の屋守など仕りし者

76(144)


故、家財は悉く文左衛門が配分せり。故に千葉の文書・記錄等の由緒あるものを自己の有とす。權之助幼少の
時、林家の弟子となり、多少學才もありしかば、右の文書記錄を證據として千葉の子孫と名乘りしに、學友等も
其の書物を正傳と信ずるに至れり。されど、是は擬物なりと云へり。
 享山子之を考ふ。正胤の子向胤の事かと。當見按するに、孫平俊胤が子平介正胤といふ者の事なるべし。

千葉權介俊胤・門井正道の事。

千葉權介俊胤といふ者あり。151これにつきて、享保八年の頃、千葉權介所持の千葉正系譜といふ
五巻の系圖を見るに、俊胤は長胤の弟にて、天正十六年に生れ、一族の中、下總國東庄森山の城主粟飯原出雲守
光胤が死去後、嗣子なき故、粟飯原の家を継げり。同十八年、兄重胤152と同じく小田原に入る。既にして蟄居
し、後年神君御治世の時、御八男武田萬千代信吉君の佐倉153領せらろに當り、神君の鈞命に因り信吉君
に仕へ奉りけるに、慶長八年九月十一日御早世ましませしため、流浪の身となる。既にして兄長胤 154 卒去して
嗣子なし。因て俊胤は嫡流を相續す。夫より長胤の遺物建盞155を松平伊豆守信綱に呈し、家名の再興
を愁訴中、寛永十六年己卯七月十九日、江府に於て卒せり。年六十二。江府海善禅寺にて火葬し、碑を佐倉の海隣
寺に建つ。法號は法阿彌陀佛。又了性院殿歡翁道喜大居士と號す。
 其の弟の正道は、門井孫四郎と稱し、天正十一年、門井丹波守定光が養子となる。定光は邦胤の從父兄弟り。
承應三年甲午五月十八日死す。年七十三。法號正雲院殿響松一潤大居士といふ。云々。

77(145)


接ずるに、別途の千葉系圖共を集め合せ觀るに、俊胤・正道が名なし。實傳に、俊胤は邦胤の外戚の子にして、
重胤の弟なりとあり。是は實ともいふべし。又、粟飯原が養子となりしも事實ならん。其の餘の事は皆偽作な
るべし。弟に門井正道といふ者ありといへるは偽りにて、今世千葉桃之助が本名門井たる故、邦胤の弟より先
祖の系連を拵へたろ者なるべし。なは前後の諸說を考へ見るべし。

千葉午介正胤。

 右五卷の千葉正系譜といふ者にいふ。千葉平介正胤は、實は門井彌四郎正道が子なり。伯父俊道男子なき故 正胤を養子とし、女を以て之に妻はせ、其の家を相續せしむ。正胤十四歲、未だ俊胤の家督を受けざりし時、長
胤・俊胤の意に隨ひて上州厩橋侍從酒井雅樂頭源忠世朝臣156 に仕ふ。長胤・俊胤が願望を達するに便あらし
めんが爲めなり。正胤此の時に氏を門井といひ、長胤の甥たることを顯さず。爾來、千葉の家督を受くと雖も、
なは深く之を秘し、素望を達するの期を待てり。其の後、弘文院學士春齋法印、厳有廟の台命を蒙り、本朝通鑑
を編撰せらる。正胤之を聞いて以爲らく、「予千葉の嫡流を承くと雖も、一の功績なし。何を以て か祖先に謝せ
ん。只恨む、累代の勲業、長く地に堕ちて後世其の事實を知る者なからんことを」と。是に於て、系圖家譜の要
とりりて學士に示す。學士其の著明なるを稱美し、之を通鑑に収載せり。寛文十年冬、大老雅樂頭忠清朝臣此の
事を聞き、其の系圖・證書等を取寄せ閲覧ありし後、千葉の本氏を稱すべき旨を懇識あり。且、時服を下賜され
しかば、漸く素願果されんとするに際し、偶々病患に罹り、酒井家を辞去して閑居す。病革まるに及んで、其の

78(146)


子何胤に先考の志を継がん事を遺言し、延寶五年八月四日、武州淺草の宅に於て沒す。年六十四。浅草寺塔中梅
園院に葬り、影像を佐倉の海隣寺に安置せり。法號臨阿彌陀佛。又龍昌院殿井雲口門大居士といふ。157

千葉權之助本名門井を改め千葉を稱する事。

 千葉權之助といふ者、江戶にあり。彼が由緒につき、古市兵庫158
談じて曰く、「先年酒井雅樂頭家に門井何某といふ者ありしが、故ありて、千葉氏の文書記錄を得たりし
かば、159時節を待ちて、自分は本氏千葉にして、其の嫡統なる由を言ひ、彼の證書共を差出し、
復姓の事を願ひしに、望みの如く差し許さる。同人は、豫て衣類大小刀の粧ひに至るまで、月に星の紋を附け、
貯へ置きければ、千葉を名乘る事を申付けられし翌日より之を用ひたり。其の後、千葉の正統を偽る事顯はれて、 勤仕し難くなり、同家を立退いて浪人せり。かくて、下總國に至りしに、千葉權之助といふ名を聞きて多少信ず
る者無きにあらざりしも、其の頃は、下總の老人ども未だ能く千葉家の事を知れる者多かりければ、其の地の古
老ら訝りて、千葉家の嫡流は正しく絶えたるに、不器の事なりとて、彼が許に至り其の由緒の故事・色々の家傳
を探り尋ぬるに、元來知らざる事共なれば、其の答不都合にして、面目を失ひ、早々其の地を退き、江戸に來り、
浪人160にて一生を終れり。其の子もありけるとなん。云々。

千葉新助噂の事。

79(147)


 楠尚右衛門161の談に云ふ。今世の千葉權之助は、
本苗字は門井といひ、千葉の家來筋なり。尤も、千葉の枝葉にて候。千葉重胤殿は束髪になり、浪人して居られ
しを、家來筋の者共敬ひて、養育致し置き候。重胤卒去の時、千葉の舊記共、変に一つこれあり。故に妙見の尊
像も御座候處に、門といふ者ひったくり取り納め、吾物としたろとかや。或は、看病の褒美に貰ひたりともいふ。
此の門井は、酒井雅樂頭殿に勤めて、或時、千葉權之助と名字を改めけり。そもそも、門井は常州・總州の御代
官關口作左衛門殿といふ人の妹婿なり。此の關口作左衛門殿は、厳有院様の御代に、御勘定立たざる儀これあり、
切腹仰せ付けられ候なり。其の弟關口孫右衛門は、甲府樣にあり。孫右衛門と權之助と一類たるにつき、本所に
居られけり。其の子息は千葉新介と申しけるが、子なくして死す。162千葉舊記の箱を笈にして多くありける
由、岩村八郎右衛門といふ浪人者163の子に、岩付藤右衛門といふ者を養子として、千
葉氏を授けゝり。元文年中、神尾內記殿に勤め、千葉新助と名を改め候。云々。○或人云ふ、大久保源次郎物語
も此の通りなり。岩付藤右衛門は、源次郎が知る人の田、但し千葉舊記の中に、岩付の名字見え申さず。此の岩
付、もと千葉の別れとて、九曜星を紋に付け申候事、不審なりと。予思ふに、岩付名字の者、いづれの時にか、
縁家などにて紋を貰ひしものならんか。又は、古へ千葉の家來にて、主料より賜はりし紋か。○同源次郎話に曰
く、増上寺開山酉譽上人は千葉氏ゆゑ、幕共の外の什器にも、十星を付け申し候。斯樣の縁に因ってか、貞譽
大僧正の時分に、千葉權之助より賴み候て、此の僧正を以て桂昌院様まで願ひ上げ候ところ、程なく御逝去遊ば
されし故、上聞にも達せざると見えたり。云々。

80(148)


篠塚何某、大久保氏の話を談ずる事。

164

大久保源次郎殿165の談に曰く、千葉被官・郎等・小田原籠城三千騎雜兵都合八千と云々。此の
從士分散す。重胤殿は千葉村に蟄居して卒し給ふ。或は江戸にて卒し給ふともいふ。病死の時、子なし。一類
たるに依つて鏑木權太郎を養子とせらる。木の家紋は九曜星なり。押田・臼井も千葉の一家なり。諸德寺といふ
名字、圓城寺といふ苗字あり。在名なり。166須田近江守といふもあり。167門居刑部・金田左近・
海上四郎左衛門168・椎名權六・石橋七郎二郎・匝瑳掃部・岩部作十郎・武射主水169•鴨根
壹岐・波生宮內・天羽庄次郎・伊北監物・馬場平內などあり。武井名字は、馬場名字と同家にて候。いづれ二家
共に千葉介殿御代の御家別の譜代の家にて候。さりながら、九曜星を憚り、二頭の巴を紋に付けられ候由。高原
外記・池田主計・千田勘解由・多田左門・大須賀太郎左衛門・東上野介・粟飯原內記・高田半左衛門・木內惣三
郎など、いづれも湯本口を固めし小田原籠城の者共にて御座候。重胤殿には、御髮總結になされ、重胤樣と申し
候。右の者共、在所々々に引籠り候處に、御來駕これありし由。重胤殿の御分限帳は皆永樂知行にて御座候。是
は權之助の所に御座候。權之助儀、千葉代々舊記・分限帳を質物に取り、金子用立て候由、祖父など物語り御座
候。權之助の名字、千葉にてはこれなき由。其の頃、常州總州の御代官は關口作左衛門殿と申す由に御座候。權
之助は作左衛門殿妹婿にて、千葉の被官筋歷々の者に御座候○多田苗字は、大須賀苗字の別にて御座候。香取郡

81(149)


多田村・篠原村を、多田左門の代まで千葉介殿知行なされ候。多田村・篠原村は三百石の所にて御座候駿。河臺
袋町奥田八郎右衛門殿知行所に御座候。170多田村に八幡宮御座候。
上方の多田村より勧請にて御座候。別當は光明院と申し候。眞言新義宗にて御座候。多田滿仲様の御墓御座候。光
明院本尊は滿仲公の守本尊に御座候。滿仲公の御廟に太さ九尺廻りにも超えたる松の大木御座候。是滿仲公の御
廟印に御座候。拙者先祖は篠崎修理亮と申し、多田左門家來に御座候。修理より拙者まで五代に御座候。右光明
院は、智國寺に御座候。拙者の世、枠儀寳藏院胤風法印は文字目錄頂戴仕り候O圓城寺の末は、飯河賴母殿御家
老圓城寺佐衛門と申し候。父は高橋瀨兵衛と申し候。諸德寺苗字は、火消與力舟越左門殿の御組に御座候○今井
名字は、松前伊豆守殿組、町與力今井中右衛門と申し候。千葉殿より數通の御書付、いづれも所持罷り在り候。
士筋の者にて御座候。以上。

千葉重胤系圖等鏑木何某に張り與ふる事

 千葉重胤は、病胸難治に及んで、嗣子なきため、鏑木氏は元來千葉の餘流にて、殊に鏑木健太郎は斷金の友な
るが故に、養子として、千葉の系圖井に妙見菩薩尊像丸鏡171等を譲り授く。權太郎之を受けて、子孫に傳へた り。權太郎諱を長胤といふ。172
 下總國土民の言ひ傳へし事あり。千葉新介173浪々して下總に到りける時、所の古老共、其の真偽を探り問
 ひ疑ひける時、新介湯を引きて胸のほとりを揉みけるに、月に星の形現はれたろを見て、其の嫡流なる事を信

82(150)


 じ、いたはり敬ひけりといへり。實なるや否や。174○右の諸說を考ふるに、千葉重胤出奔して、殘
 し置ける所の文書・記錄等を、門井文左衛門わが物として納め取り、後に名字を改め、千葉耀之助と名乘りた
 るも實談なり。されば、重胤浪々の後までも、系圖と妙見の本尊と鏡等をば、一生わが身放さず持ちて、死期
 に及んで鏑木何某へ譲りし者なり。其の故にや、鏑木の千葉系と、今世千葉權之助が系とは相違多く、邦胤よ
 り後の事に於て、なほ疑しき所多し。 .

鏑木氏の事。

 鏑木氏は千葉の一族にして、千葉胤正の四男胤時175を白井鏑木の祖とす。下總國白井庄を領し、
始めて稱號とせり。將軍賴経卿に奉仕して、賴嗣卿に至る。上總權介秀胤罪せらるゝに及び、胤時亦其の事に座
して出仕を止め、千葉に來りて蟄居せり。陶子胤定に至り、同國鏑木城に居り、是より子孫鏑木を家號とす。後
年千葉の老臣四家あり。之を千葉の四天王と稱す。鏑木も其の一人なり。176其の末孫鏑木權太郎は、
寛永の頃浪人にてありしが、千葉重胤より數品の讓物を得て、養子となる。其の後、新右衛門胤幹177
が子の鏑木平內氏胤は、押田氏古縁の由緒これあり。平內は數十年の間、押田三左衛門直勝方に寄食せり。三左
衛門は館林の御家に奉仕す。178 三左衛門の願に因り、不內は憲廟へ召出され勤仕す。179元祿
十口年口口卒す。歲六十餘。平內子無く、養子せり。十成胤といふ180十左

83(151)


衛門も子無く、養子す。三五郎敎胤といふ。181三五郎も亦子無く、養子す。次郎吉近胤といふ。182
享保の頃、小十人を勤め、其の後、刑部卿の君に奉仕せり。

押田氏の事。

「押田氏は、古傳に曰く、治承四年九月十七日、頼朝公の下總國へ入らせ給ひし時、千葉介常胤は、一族郎從引
き具して參候し、先づ囚人の千田判官代親政を御覧に入れ、次に駄餉を獻ぜしむ。武術は常胤を御座の右に招か
れ、司馬を以て父とする由の御詞を蒙れり。時に常胤、一人の弱冠を伴ひ、御前に進んで、「是は陸奥六郎義隆の
遺兒わすれがたみ森冠者頼隆と申す者なり」と披露せり。頼隆紺村濃こんむらごの直垂を着し、小具足を加へ、常胤の傍に跪く。尤も
源氏の胤子と謂つべし。頼朝公これを感じて、忽ち常胤の座上に講じ給ひぬ。父義隆は、去る平治元年十二月、
天台山龍華越に於て、故左典厩の爲に落命あり。其の時、頼隆は生後僅に五十餘日なりしも、件の該座に依り、
永暦元年二月、常胤に仰せて、下總國に配流せらると云ふ。是より森冠者賴隆は鎌倉に住して頼朝公の恩遇厚く、
武衛に從ひて守衛をなす。養和元年六月十九日、頼朝公納涼の御遊びに、三浦へ出で給ひし時、頼隆以下供奉を
なす。又建久元年十月九日院參し給ふ時、後陣の隨兵に隨へり。其の後、承久三年、北條武藏守泰時上洛出陣の
句、東海道より上る大將五陣の千葉介胤綱に從ひて、藏人入道西阿183も兵を發せり。同六月五日に時房・泰時
の兩將一の宮に着き、此所にて諸方の手分ありし時、鵜沼の渡へは森藏人入道西阿、板橋へは狩野入道と定む。
鎌倉執權平義時等國政を握るに及び、萬事賴隆に相談しけり。然るに、賴嗣將軍の時、三浦泰村と北條時賴と確

84(152)


執に及べる事あり。森賴隆入道西河は、泰村が妹婿なりけり。然るに、或夜184西河が妻女、竊に侍女一人
を具して兄泰村が西御門の宿所に至り、「此の程の騒動何事やらんと思ひしに、兄上を討たせらるべき由、慥に聞
き及べり。然れば、森入道も定めて御所方に參らるべし。されど御調諫を加へて一味させ申さん」とて立歸りし
が、其の後、西河入道二百餘騎にて泰村が館へ駈け入られけり。左近將監時賴これを聞くや、「和平歸伏の所に、
又合戰を起すの條宥むべきに非ず」とて、陸奥掃部助賞時を以て將軍の御所を守護せしめ、北條六郎時定を大手
の大將として、五百餘崎を遣し、三浦の館を攻めしむ。其の時、萬年馬入道、時賴の南庭に馳せ參り、「森藏人入
り道こそ唯今三浦方へ參られ候へ。極めて大剛の者にて、奇計を運し候は難儀たるべし」と申しければ、時賴聞
きて、「天道に背きたる三浦の者共何條無事にあるべき。假令鐵城に籠ろとも自ら亡滅すべし」とて、激しく攻擊
を加へ、火を館に放ちけるに、折柄烈風に煽られて火勢猛烈となりしかば、三浦の者共防ぐに術なく、「此の上
は、故右大将の御影前にて自殺を遂げ、前代の御恩に報い奉らん」と、泰村以下北方を打破り、法華堂に入り籠
る。敵兵其の跡を慕ひて追ひ來りしかば、入道西河及び若狭前司泰村、其の餘一族二百七十六人、郎從家の子二
百廿餘人枕を並べて自双せり。時に寶治元年六月五日の申刻なりき。此の時、頼隆入道の男子四人も同時に自殺
せり。此の四人の兄弟は森兵衞大夫光廣・同左近藏人親光・同藏人經光・同吉祥丸にして、母はいづれも三浦義
村の女なり。此の外、領國下總に残し置きし男子あり。後に從五位下下總守若槻太郎賴胤といふ。其の子押田太
郎賴廣、これ押田氏の祖なり。賴胤の弟森口口口口を森氏の祖とす。是より代々總州に住して、千葉氏の縁者と
なり、好を通ぜり。天正十八年、北條氏政小田原籠城の時、抑田下總守胤定・同與一郎吉正185 ・同圧吉胤友

85(153)


等は千葉重胤と共に入城せり。同年神君關東御入國遊ばされし時、千葉の古老の者を御尋ねありて、押田藤右衛
186・同庄吉を召し出さる。其の故は、千葉介幼年たる所に、共の後見の仕方宜しきに依りてなり。則ち先祖
墳墓の地なるを以て、下總國匝瑳郡野手村に於て食献六五行を抑田庄吉に、同所にて五百石を押田藤右衛門に下
し賜はりぬ。187庄吉・座右衛門、共の子押田三次郎、三人共に大阪
冬・夏兩御陣に御旗下に供奉し、庄吉は夏御陣に首級を獲たり。庄吉の家は六兵衛に至り斷絕す。寛永十九年の
事なり。188藤右衛門子押田三次郎豐勝189
豐勝に三子あり。押田三左衛門直勝・河田六郎左衛門親風190押田五郎大夫賴意なり。
三左衛門は二千二百石を領し、其の子孫時に勤仕す。五郎大夫は、下總國野手村五百石を領せし所、其の子三次
郎幼年191にて病死せし故、此の家斷絕す。192

原氏の事。

 原氏は、千葉介常兼が甥原四郎常餘を祖とし、千葉家代々家臣の長として、民俗に四天王と稱するものゝ一人
なり。原左五右衛門は、小田原落去の後、神君に召し出され、千石を拝領す。193然るに慶長十七年三月、
幕府の士五人づつ組を分けて、耶蘇宗門の御改めありけるに、原主水が代に至り、彼の宗旨を信ずるが爲め逐電
したり。同十九年九月十三日、主水を城東より捕へ來ろ。乃ち其の十指を切り落し、額に烙印して、「此の者養育
するに於ては、其の人を曲事に行ふべき」旨の制札を負はせ放逐せらる。彦坂九郎兵衛之を沙汰すといふ。又

86(154)


君の侍女にて主水と密契せるもの、主水の重科に處せらるを賃り、惡逆を企てしに、其の事忽ち露顯して獄
に下され、其の兄中野彦太郎も逼塞を命ぜられしが、彼女は同月廿一日を以て死刑に行はれたりとぞ。
 原主水放逐の時、岡越前守貞綱が子不內が許に暫く隱し置ける事、翌年に至り露類に及び、不內父子糺明せら
 る所に、右は越前守が所爲に非ず、不內舊友たるの好を以て、領邑に隱し置きたる段、上聞に達しければ、
 貞綱は免許を蒙り、平內は改易せらる。此の平內といへる者は、浮田家の浪人明石掃部全登が婿にして、部・
 不內・主水の三人共に耶蘇宗の信者なりしと。又、駿府槇谷耕雲寺にても、暫く主水を止め置きし康を以て、
 同寺住侶も罪せられたり。
  元和元年七月廿九日、洛陽妙顯寺に於て、岡越前守貞綱194誅に伏す。其の嫡子不內も斬戮
  せられ、二男忠兵衛は、東武に於て死を賜はる。是は不內男明石掃部助全登が耶蘇宗門にて、午內も亦彼の
  邪宗に歸依し、去年神君より原主水を罪せられんとありしに、主水出奔し、不內が許に隱るゝ、事露顯し、平
 內を放逐ありし所に、大阪へ籠城す。此の科に依りて岡父子三人誅せられしなり。

石出氏の事。

 石出氏は、千葉介成胤の孫石出二郎胤朝195を以て祖とす。千葉四天王と稱せらるゝ其の一人
なり。196當時傳馬町石出帶刀が家なり。此の帶刀事、初めは島田彈正忠正利組の
御徒士なりしが、彈正忠江戸町奉行に轉役の時、囚獄司これなく、小役人のみなりし故、出火の節など、罪人の

87(155)


下知、其他に就て不便少からず。因て新に牢屋守を置くの儀を申立てられしに、上にも尤の儀に思し召され、早
速御許容あり。其の格を騎馬役として二百石を下賜し、從來の小役人を其の下役に仰付けられたり。此の時、石
出帶刀推舉せられて此の職に就く。これ現代帶刀の祖父石田大輔197の代の事なり。

海保三吉の事。

海保198三吉は、千葉家の士なり。後に召し出されて幕府の直參となり、大番組を勤む。然るに、慶長十四年
十月十六日、大番頭たる水野市正・近勝口口切腹を命ぜらる。其の故は、去月廿九日、市正宅に於て服部牛八が
久米左不治を双傷せし事あり。其の時、近勝は寺院に入りて、陳謝する所ありしも、去々年以來、此の市正組の
海保三吉・荒尾長五郎・有賀忠三郎・世良田小傳次・小股猪右衛門・間宮彦九郎等、伏見在番中、徒然に堪へず
して密々所々を徘徊し、樊崎講といふものを催し、街中に於て双傷を遊戯とし、殊に海保は坂東の強力たるに依
りて、忍びて上京し、好みて相撲を取りけるが、遂に秀賴の中間を抛殺せり。やがて、三年の在番終りて歸府し、
各々其の知行所に休息しけるところ、其の濫行露顯し、遂に死罪又は改易となりたりといふ。
  この時、間宮彦九郎一人逃亡せしが、妻子を虜とせらるゝ、由を聞き、忽ち出で自殺せり。其の外、松平九郎
  右衛門忠利・津野戶左門・岡部庄九郎・駒井孫四郎も連座によりて其の祿を沒收せらる。小斐仁左衛門は、父
  の忌中に密々江戶へ下りし爲め改易。藤方平九郎・小川左太郎は罪なしと雖も、其の家僕が商人を摶殺して逐
 電せし故、「尋ね出し斬戮すべし」とて、其の間のを祿收せられしが、後遂に探り出し、之を斬りて歸參する

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 を得たり。右組中不法の罪、番頭市正遁る所なく、剩へ、其の組三浦彦八郎が家候は、服部牛八逃亡の時、
  主の馬に乘らしむる故、彦八郎も之が爲め自殺の事あり。又、牛八逐電等、彼是の數罪に對し、市正申し開く
 べきやうなく、遂に自殺に及べりと云へり。右改易のやから、 追々免許を蒙り歸參せしが、松平九郎右衛門は本知
 五百石を領せしも、寛永九年召し歸さる時三百俵を賜はれりとぞ。

高橋氏の事。

 前に書ける大久保源次郎話の內の高橋輝兵衞が先祖を考ふるに、瀨兵衛高祖湯淺帶刀といふ者、千葉氏の養子
となる。帶刀父は圓城寺左衛門大夫といひ、千葉利胤・親胤の代に老職を勤めたりとぞ。

金田氏の事。

 金田氏は、千葉一類と雖も、家臣の列に入れる故に九曜を用ひず。輪違を家紋とす。千葉と同姓にて、金田何
某は曾て八千餘の兵を率るたることありとぞ。其の先は千葉六代常兼より出づ。常兼の二子常家
199 其の子常明200其の子常隆201其の子金田小大夫賴次。202上總國長柄
郡金田郷に居る。治承年中、頼朝公義兵を準げらゝ時、之に應じて軍忠あり。これ金田の祖先なり。

酒井氏の事。

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 酒井氏は、千葉の士にして、千葉の家老原氏の家臣たり。酒井金三郎の父は上總國東金の城主酒井左衛門重光
が子なり。舊主原吉丸203は、天正十八年に神君關東御人國の時より召し出され、太閤の伏見御屋敷御作
事の時、神君の御腰物を吉丸持ちて御供しけるに、此の日寒氣烈しく堪へ難し。吉丸幼年にして素足なりければ、
酒井金三郎これも弱年なりしが、吉丸ので氣に悩めるを見乘ね、自身の草履を脱ぎて吉丸に穿かせけり。これ往
年の主筋なるを思ひてなり。神君これを聞し召し、其の本を忘れざる志を御感ありて、金三郎に所領を下し賜は
りたり。酒井家は、世に「結城に多賀屋、千葉に原、原に兩酒井」とて、名を著したる家にして、秩父の餘流な
り。

相馬氏の事。

相馬氏の傳來は、千葉系傳の異本を以て看ろに二說あり。其の一說に云ふ。不將門より十一代の孫相馬中務大
輔師國男子なし。故に千葉介常胤の二男を婿養子とす。これ相馬小次郎師常なりと。又一傅を考ふれば、千葉常
204の三男常晴を相馬五郎と號す。相馬郡は、良文以來、嫡家代々相傳の所領なり。將門往昔滅亡の後、常永
深き志ありて常時に相馬の稱號を繼がしめ、相馬五郎と稱せしめて相馬郡を分ち與ふ。天治元年展六月、常晴故
ありて彼の郡を猶子常重205に護與す。是より常重・常胤を経て後、師常をして相馬氏を稱すると同時に相馬郡
を領せしめたり。此の師常を祀りたる祠を相馬天王とす。206、師常の屋敷は巽の荒神
の邊󠄀に在り。207東鑑に、元久二年十一月十五日、相馬次郎師常卒す。年六十七。端坐合掌

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決定往生す。これ念佛の行者なり。結縁として緇集り拜す。云々。○天正七己卯年、平将門廿九世相馬長門守
守胤、下總を没落し、遠州濱松に至り、神君を拜して初めて御家人に列し、天正十八年庚寅年、本國に於て釆邑
を賜はる。○相馬氏幕紋には連錢葦毛の馬を付す。庶子は餘の毛色の馬を畫き、驒馬れんぜんあしげをば只一匹のみ加へて悉
斑騢れんせんあしげにする事を憚る。今世其の嫡家と稱する相馬左衞門口口 口208家にては、皆騨馬を幕紋とす。又、此の
家に智卷といふものありて、古代よりの重寳なりと云へり。○千葉類葉の家、妙見を崇信する家々の者は、葦毛
馬に乘る事を禁ず。強ひて乘る者は怪我すといひ傳ふ。これ千葉の祖先、妙見の靈驗に因りて軍利を得たりし
時。妙見の神馬に菼騅あひげむまを供へし故なりとぞ。今の相馬氏も、騮馬あしげむまに乘る事を禁ずと聞けり。千葉緣家たる押田氏
も亦同樣なりとぞ。

千葉傳考記卷六

千葉家妙見菩薩を信ずる事。附、鎮宅靈符の事。

 千葉後裔の人は、正月三ヶ日、精進潔斎して、妙見の尊影を拜禮する家例あり。嘗て聞く、千葉・上級・相馬
等の家には、囊祖以來、星の宮と唱へて妙見大菩薩を祀り、以て其の家の守本尊とす。畠山・豊島・河越・曾我・
中村等も亦妙見を信仰せり。千葉氏祀る所の妙見の宮は總州にあり。又、武州男衾郡畠山より行程西の方へ七八
里にして、妙見の社あり。其所を大宮といふ。日本武尊秩父山に武具を埋めて、武甲山といふ。鎧の小札こさねに似た

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る山なり。今之を妙見山といふ。或は曰く、秩父妙見の祠は、西武藏にて武甲山の麓に在り。又、武甲山の上に
も祠あり。日本武尊の名付け給ふ武藏山これなり。武甲山の奥に三峯山といふあり。是は延喜式に謂ふ秩父の神
社なり。白鳥の神社ともいふ。日本武尊の靈社なり。秩父六十六郷を、白鳥の郷といひ、或は白鳥の庄ともいふ
なめ。三峯山の本社奥の院を那々伊志大明神と號す。石を七つ積みたる岩あり。
 三峯山の三社といふは、本社日本武尊、二社伊弉冊尊、三社稚日靈尊なり。或は曰く、按ずろに、武甲山は甲
の小札に似たろ故、甲冑を帶したる星靈を祀りたるが、社の紋所は九曜を付く。此の社は畠山重忠信仰せりと云
ふ。重忠の在所は、秩父郡より六七里を去る男衾郡畠山村といふ所なり。すべて九曜、十曜は、北斗・北辰の星
像より起れる所なり。其の影像を視れば、或は老形、或は童形、或は甲冑を帶し、河伯帶を佩きて、弓手に寶珠
さゝげ、馬手は雄剣を提げ、白蛇を腰に纏ひ、靈龜󠄁を足下に踏まへ、七星を圓光とし、或は七曜を手に握れり。
又、珠劍の持ち樣に異同あり。蛇龜󠄁の形態も種々ありて、其の家々の守本尊に充つといへり。これ則ち鎮宅靈符
の神にして、北斗七星の垂亦、弓箭守護の佛天なり。今按ずるに、靈符の由來、世に傅ふる所、其の事怪詭に亘
りて探り難きものあり。抑々、肥後國八代郡白木山神宮寺に在る所の靈符の本尊は、妙見菩薩なりと云ふ。七佛
所說神呪經に曰く、我北辰菩薩、名日妙見,處於閻浮提,衆星之中最勝。神仙中之仙菩薩大將云々。此の故に、
道家にも之を祀る。佛家は最も尊信せり。靈符を行ふに、本尊として降眞否を焼き、桂葉・梅花等を供して、富
貴延命を祈り、僧家は佛法の守護神とす。209これ、
皆北極の星靈なり。或は曰く、摩醯首羅倶生郡三寶荒神と變じ、上元大乙神となると。漢書に、祀太乙

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。祀至明。といふこれなり。事物紀原に、宋天億二年閏四月、詔して眞武の號を加ふ。東文太一・西太一・中太
一とあり。瑯邪代篇に、眞武の像形の事あり。太上感應編に、三臺北斗、神君在人頭上と。又、史記に、北
方玄武と。同註に、北宮黑布。其精玄武と。後漢書に云ふ、玄武北方之神。龜󠄁蛇合體と。文選註に云ふ、龜󠄁與蛇
交日玄武。北方之神獸。又日、太一常居後玄武と。朱子語類に云ふ、玄龜󠄀210武蛇也。211
に、四神の事あり。其の外、草山集。神國決疑編・但馬舞記等に所載枚擧すべからず。星靈を妙見とする に 合
へり。或は日く、北辰を妙見といひ、北斗を妙見といふと。其の說一ならざるに似たりと雖も、七星を以ていふ
時は、北斗をしていふか。又、北極の事をいふ時は、北辰星の事なるべし。予按ずるに、北辰といひ北斗とい
ふ說の如きは、少しく心得ありて、共に用ふべし。北斗七星の事は、世俗よく知りて、勝負の事に建を占ふ。破
軍星を卽ち妙見として、兵家尤も破軍の吉凶を用ふる事ふりたり。此の建を以て刻限を占ふ事も、俗間常に知れる
所なり。四時去りて、月の數を算す。正五九一心得る等の事なり。212古昔より妙見を北
極といひ、北斗といふ。今天學にいふ北極・北辰星と北斗星とは、格別の者なり。然れども、妙見をあがむる時は、
北辰・北斗一樣の理あるべし。強ひて星形に拘るべからず。妙見菩薩を尊むば、乃ち北極の神ならんのみ。

妙見菩薩の佛詠の事。

 國俗の傳に曰く、妙見菩薩御本誓の歌とて、
  月星を手に取るからはこの家の榮えんことは恒河沙の數

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 右の故を以て、千葉の幕紋は月に星を用ひ、或は七曜・九曜・十曜を用ひ來れり。さればにや、千葉家の總領
正統となるべき人には、身體の中に、月星の疣形ある事、累代の規模にして、誠に奇異の一端なりと云ふへし

千葉屋敷の事。

 新編鎌倉志に曰く、千葉屋敷は天狗堂の東の畠をいふ。相傳ふ、千葉介常胤が舊宅なりと。 東鑑に、阿靜房安
念、司馬の甘縄の家に向ふ。といふは、これなり。司馬とは、千葉成胤をいふなり。成胤は常胤が嫡孫にて、胤
正が子なり。

辨谷の事。幷に佐介谷の事。

 鎌倉のべんやつは、補陀落寺の東の谷をいふ。土俗紅が谷といふは非なり。或は別谷ともいふ。田代系圖に、鎌
倉の別谷は、千葉殿の敷地なり。介の唐名を別駕といふ間、別が谷といふなりとあり。
 又、佐介谷の事は、土俗に曰く、上總介・千葉介・三浦介、此處に住居す。故に三介が谷と名付くと。是は據
所なし。古き記錄等には、佐介とばかりあって、谷の字はなし。今は佐介が行といふ。佐介遠江守が舊蹟も此處
にあり。

嶺松寺の事。

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 鎌倉嶺松寺は、金剛寺と號す。建長院峯庵の末寺なり。寺僧曰く、千葉胤義が寺なり。開山は、月窗、諱を元
暁といひ、儉約翁の法嗣にて、紀州の人なり。貞治元年十月二日寂すと。接するに、瀬戸の鐘銘に、神主平義胤
とあり。神主は千葉氏なり。此の人の建立か。千葉系圖にも胤義といふあり。寺建立の事未だ詳ならずと云ふ。

橋場の總泉寺の千葉介石塔の事。

 武州石濱村總泉寺213に千葉介の石塔あり。青石にて二尺ばかり。諸人瘧疣の呪守として、此
の印石を吹き取ろ者多く、處々缺損し、其の文字も銷滅して見えず。江戸砂子といふ書には、千葉邦胤の印なり
とあり。當見按ずるに、邦胤の石塔には非ず。恐らくは、千葉親胤の墳墓ならん。親胤の法號を總泉院殿といふ
を思ふべし。予往年、此所に遊んで、此の印石に題し、蜂腰腰折の吟をなしたる事ありき。今思ひ出づるに任せ
て記す。

題總泉禅林之千葉親胤墳墓

 埋滅青苔碑石文。總泉寺樹繞荒墳。萬花千葉空塵芥。深夜月星草露紋。
 浅茅原草のゆかりも問ひこぬや拂はぬ露に宿る月星

千葉石の事。

 或書に云ふ、武州本所上水堀寶聚山大法寺に、廣布石といふあり。石の面に祖師214の眞筆の首

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題あり。寺僧の云ふ、世俗これを千葉石塔といふとなり。古鹿子に謂ふ所の千葉石は、全く是なるべし。此の石、
客殿にあり。又、堂の前に小社を建て、次の墓石を鎭め祀んとなり。父、古鹿子に云ふ、龜戶天神を少し過ぎ
て千葉石あり。千葉介が居作の所なりといふ。石は火の形微少なり。月に星、慥に見ゆるとなりと。云々。當見 按するに、千葉家が往古より家寶とし、幕紋にも付くる所の千葉石は、是と異るか。其の故は、千葉家系に曰く、
千葉勝胤、歸依禪宗。天文元年壬辰春二月、為開山花翁祖芳大和尚、建立一禪寺於印幡郡濱宿宿邑常歲
山勝胤禅寺。奉納家藏之千葉石此矣。僕215有故、去正德三年癸巳五月、至此寺、五六日止宿。現在知斷相見。家藏之第一千葉石、井器物・
織物悉見之。且又、御代々御朱印奉拝見。詣勝胤廟云々。

千葉介への感狀の寫。

今度於洞當下男山以下所々、致合戰忠節、敵數多被討捕之由、尤神妙候。彌可戰功之狀、如
件。

千葉新助殿

按ずるに、此の新介は、貞胤の嫡男新介一服のなるべし。

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千葉中諸寺院の記。

○東善寺萬福寺は、氏胤の建立、本尊虚空藏。
○高德寺生林寺は、氏胤の建立、比丘尼の庵なり。
○胤高寺福正寺は、原孫次郎寺なり。216
○常古院寶德寺流岸寺は、比丘尼なり。
O圓城寺・明照院・常安寺・圓德寺は、比丘尼庵なり。
O引乘寺は、武士三郎寺なり。
○泉福寺は、結城出雲守寺なり。
○大日寺・滿願寺・光明寺三ヶ寺は、一寺なり。
○來迎寺は、氏胤室女建立なり。
○増上寺•寶憧寺兩寺は、邊田なり。
○宗胤寺は、氏胤二男宗胤の寺なり。
〇國分寺は、常胤の五男胤道の寺なり。
○胤廣寺は、胤政七男三谷四郎の寺なり。
○貞胤一日に、七阿彌陀を建立す。內室菩提の爲なり。千葉西阿彌陀・森阿彌陀・星久喜阿彌陀・大谷阿彌陀・
 殿臺石神阿彌陀・仁井名阿彌陀・以上七佛。217

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千葉氏石碑略記。

○大日寺記に云ふ、千葉十六代石塔、不散失。當寺に有之云々。
○佐倉開運寺218 に 、千葉氏廟石七基有之と云ふ。輔胤・教胤・勝胤・昌胤・利胤・親胤・邦胤なり。

○胤持の廟は、無量寺にあり。
○佐倉海隣寺は、千葉氏代々の菩提所なり。重胤は武州江府に卒し、同所海善禅寺にて火葬し、石塔を同所日輪 寺に建て、遺骨は下總國佐倉海隣寺に納む。云々。

千葉氏華押。

千葉氏の華押未だ悉く備はらずと雖も、有るに任せ、次第序せず記すものなり。

海保三吉角力を好み怪に逢ふ事。

總州里民の話に云ふ、海保三吉は、千葉家の士なり。 力普通に超え、心不敵にして、常に角力を好み、山川を越えて此の戯をなす。或時、夜を籠めて、相撲の會

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に行きたりしに、道にて十一二歲ばかりの小坊主と連れ立ちけり。此の小坊主も相撲好にて見物に行く由なりし
が、三吉に向ひ、「今爰にて試に力競べん」などいふ。三吉心に可笑しく思ひながら、戯に取組みけるに、其の力
世の常ならず。やゝもすれば三吉負くべかりし故、今は精力を勵し箏ひけれども、互に勝負付かざる中に、明方
となりしかば、彼の坊主何時の間にか消え失せけるにぞ、三吉整然として宿へ歸りけり。其の頃、此の邊の寺院
にある金剛力士、219泥土に染めてありければ、「扨は此の金剛化けて、三吉と相撲取りしなり」と伝えひ傳へ
たりとぞ。

千葉氏代々卒日異說の事。

千葉正系譜といふあり。220此の後中に、諸記錄其の他の千葉系圖等と異る所あり。別して邦胤以
下疑はしき事あり。千葉氏代々の卒日も亦諸記鑑と相違す。故に合せ記して、後鑑に備ふ。

  忠賴221忠常222 常將  常兼 大治元年丙午六月十日。 常重
  治承四年庚子五月。 常胤223 胤正224
  成胤225 胤綱226 時胤227
  賴胤228 胤宗229 貞胤230

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  氏胤231 滿胤232 兼胤233
  胤直234 胤將235
  康胤236 輔胤237 孝胤238
  勝胤239 昌胤240 利胤241
  親胤242 胤富243
  邦胤244
按ずるに、胤富以下は正しく正系譜誤れり。胤富以前は、執れが是なる事を知らず。追って考正すべし。

千葉傳考記(終)

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編集者から

 千学集抜粋 2020.2を読んでも千葉氏の歴史はさっぱり分かりませんでした。当文献をインターネット化することで疑問であった事柄が分かったことも多くあります。しかし、当文献を裏付ける資料の入手も続ける予定です。
 歴史雑誌を愛読してると執筆者は地方の豪族や大名の歴史をどうして調べてるのか不思議でした。こうした文献を丹念に調べているのでしょう。頭が下がります。

 電卓が出来て暗算が出来なくなり、ワープロができ漢字が書けなくなり、GPSの発達で紙の地図だけでは登山や街道歩きが困難になり、劣化が進みます。
 そんな分けで当ページの間違いがあると思います。ご容赦願います。気がついた所は随時訂正します。(理数系の人間で国語は苦手でした。)