千葉氏と鎌倉幕府樹立 第一部

始めに

本記事(投稿)は随時訂正・加筆します。

 源頼朝が挙兵し石橋山で敗北し、房総に逃れ現在の千葉市に居た千葉氏の加勢もあって鎌倉幕府をつくった話は良く知られたことです。編集者は以前まで「出来すぎ」と考えてました。なぜなら、石橋山で敗北して海岸まで来たら「船」があり、房総半島に上陸し千葉氏に加勢を頼んだらOKとなりました。飛び込みで頼んだら「飛んで火に入る夏の虫」とばかりに捕まって手柄にされるかもしれません。事前に何かあって「石橋山の合戦は出来レース」と考えてました。調べてみると「出来レース」とまではいかないでしょう。又、千葉氏は平氏で頼朝は源氏です。

結論を先に言えば、石橋山で合戦をやろうとしたのでなくたまたま石橋山で合戦になった。従って頼朝の負けは当然です。

 「ドシロート」が調べたことを紹介します。参考文献は以下です。

  • 「千葉常胤」福田豊彦󠄀 日本歴史学会編集 𠮷川広文館  
     この書籍をベースにしてます。この書籍からの引用は「千葉常胤:福田豊彦󠄀」とします。
  • 「吾妻鏡」

    有名な古文書ですが、必ずも信頼出来ない部分があるとされてます。
    吾妻鏡入門が現代語約もあり便利です。

  • 「歴史群像」2021 2月号 「鎌倉軍事政権の誕生」西俣総生

千葉氏と源氏

 千葉氏の出自は平氏ですが何で源氏を加勢したのか興味があり調べてみました。
 千葉氏の四代目「常長」が現千葉市に移住した時にそれまで代々名乗ってた「平」から「千葉」と姓を変えたとされてます。大治元年(1126)とされてます。

平氏と源氏

 「源平合戦」と聞くと源氏と平氏はいつも対立してるように考えていました。そもそも源氏と平氏はなにかを調べとそう簡単ではないようです。まずこちらから。

源は「氏」で平は「家」なのか

本姓である氏とは、皇族が臣籍、つまり天皇の家来・仕える者に下る「臣籍降下」にあたって下賜された姓でした。天皇や皇族は姓を持たなかったので臣下となる際に「姓」をつける必要があったのです。源姓を名乗った一族はたいへん多かったため、源家の総体として源氏と呼ばれていました。

一方平家とは、政権を打ち立てた平清盛とその一族、さらには仕えている者たちも含めた政権・軍事の一団のことをいいます。そのため、平家の中には清盛らに仕えていた藤原氏や源氏の武士もいたのです。平家とは平氏の中の一部でありながら、平氏以外の外部の者も多くいたというわけでした。

源平藤橘を5分でおさらい!あなたの名字は何氏の流れ?

 他のサイトでも「平家」の定義はこうなってます。

 これから本サイトでは「平氏」を使用します。千葉(平)氏は「平清盛」が表舞台に登場以前から存在してました。

 尚 本サイトは「千葉市」と区別するため「千葉氏」を使用してます。

平家

 「平氏」ウィキペディア(Wikipedia)によれば

「平氏には桓武天皇から出た桓武平氏仁明天皇から出た仁明平氏文徳天皇から出た文徳平氏光孝天皇から出た光孝平氏の四流がある。しかし後世に残ったもののほとんどは葛原親王の流れの桓武平氏であり、武家平氏として活躍が知られるのはそのうち高望王流坂東平氏の流れのみである。」

千葉氏は「高望王」の流れになります。この流れから有名な「平将門」もいます。

平清盛」ウィキペディア(Wikipedia)によれば「平清盛」は高望王流伊勢平氏とされてます。
さらに「武将で公家」とありますので、京都にいたようです。
誕生永久6年1月18日(1118年2月10日)

源氏

源氏ウィキペディア(Wikipedia)の冒頭

嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏清和天皇からの清和源氏から、江戸時代に成立した正親町源氏に至るまで数百年間にかけて二十一の系統(二十一流)があるとされているが、文献によっては源氏二十一流に含まれない淳和源氏(淳和天皇の子孫が源姓を与えられたものなど)が存在することを明記しているものもある。

 こんなにあるのかと言うくらいです。源頼朝は清和源氏の流れとなるようです。

平忠常(千葉氏三代目)と源氏

 「千葉常胤:福田豊彦󠄀」1によれば、千葉氏が源氏よりになった最初のきっかけ平忠常ではないかとしてます。
 実は平忠常は「平将門の乱」天慶2年(939)に相当する「平忠常の乱」長元元年?(1028)~を起こしてます。
「平忠常の乱」自体は概ね以下の如くです。

 忠常は下総・上総に地盤を持つ在庁官人でした。ところが収納したものを納めず(言わば横領)したうえ国司(現代的には県庁)を焼き討ちをします。そこで朝廷は追討史を派遣しますが、上手くいきません。このあいだ農地は荒廃し「亡国」の憂き目にあいます。
 次の追討史が「源頼信」です。忠常は頼信には適わないわないとみて降伏します。頼信も攻撃しませんでした。忠常は京に送られますが途中で病死します。

 この辺の事情は「千葉常胤:福田豊彦󠄀」に詳しいですが。
 平忠常の乱ウィキペディア(Wikipedia)、にもありますが「千葉常胤:福田豊彦󠄀」とは多少異なります。
 因みに「千葉傳考記」の「千葉忠常の事」にもあります。


下図は「千葉市史 第一巻」の342頁からの引用です。
(本書籍は「市政50年記念」で作成されたようです。千葉市図書館にあります。)

 ここで問題は「平将門の乱」では将門は滅亡し代は続きません。どうして千葉氏は存続できたのでしょうか。千葉氏は三代で終わっても不思議はありません。またなぜ、常胤が源氏に加勢したかは「千葉常胤:福田豊彦󠄀」では次のようになってます。

子息の常昌てねまさ (常将) や常近はなお降伏しなかったので、その処分問題が朝廷で論議されたが、追討による関東の衰亡や忠常の死による服忌ぶつきなどを理由に沙汰やみとなっている。朝廷は叛乱追討にあまり熱意をもたなかったともいえようが、 とにかく忠常の子孫が生き残り、その支配圏を維持できたことは将門の場合との大きな違いであった。 この忠常の時期が千葉氏の祖先と源氏との接触の始まりである。

中略

 当時の習慣からみて、忠常の子孫がすべて源氏の代々の従者の地位にあったとは考えられない。しかし先祖の事蹟が尊重されていた当時、忠常の時期の最初の源氏との接触が、常胤まで伝えられていたことは確かであろう。

「千葉常胤」福田豊彦󠄀 日本歴史学会編集 𠮷川広文館 25ページ  

保元の乱

 「保元の乱」は年保元元年(1156)の崇徳上皇と後白河天皇が皇位継承をめぐる争いに、源義朝と平清盛は、味方として後白河天皇方に付き勝利。崇徳上皇は平氏を利用し敗れます。
 このとき常胤は義朝に従ったとされてます。
 この理由は「千葉常胤:福田豊彦󠄀」では当時、常胤は相馬(千葉県北部)の土地で争ってたのを義朝が調停したせいではないかとしてます。

 その後、源義朝と平清盛は権力闘争で「平治の乱」平治元年(1159)が起きます。このとき、常胤が参加したかは「千葉常胤:福田豊彦󠄀」では不明としてます。
 敗れた源義朝は部下に殺害され、子供の源頼朝は伊豆に流されます。
 「源平合戦」の始まりです。

参考
保元の乱 ウィキペディア(Wikipedia)
平治の乱 ウィキペディア(Wikipedia)

考察

編集者の勝手な考察です。

まず、千葉氏と源氏の系図

千葉(平)氏                 源氏

忠常 「平忠常の乱」 長元元年?(1028)~  頼信 忠常が降伏
 |                      |
常将                     頼義
 |                      |
常永                     義家
 |                      |
常兼                     義親
 |                      |
常重                     為義
 |                      |
常胤 「保元の乱」保元元年(1156)     義朝  常胤が義朝に加勢
 |                      |
 ーー「石橋山の合戦」 治承四年(1180)   頼朝  常胤は石橋山の合戦には参加して
                           ませんがその後加勢 

 こう見ると、「常胤」が第五代約130年前、御祖先が恩義を受けた借りを返したことになります。
 そうしたこともあるかも知れませんが、戦国時代みたいに戦場に行ってからどっちに付くが判断するなんてもあります。
 現代でも党首を選ぶのに「勝ち馬」に乗るのが普通です。昔受けた恩義で行動するのは少数派です。

 天皇に男子が多いと多分、全て皇室に置いておけないので民間人にする。天皇家には苗字がないので苗字をつける。それが「源」「平」とかになるのでしょう。天皇が代わってもあいかわず「源」「平」にする。もう少し考えて欲しかった?
 源氏、平氏とかにこだわっても仕方ないのでしょう。

「石橋山の合戦」と千葉氏

 源頼朝は伊豆に流人となりました。永曆元年(1160)14歳のときです。江戸時代の八丈島では島民にこき使われてかろうじて生きてました。当時はそうしたことはなく北条に預けられ、監視人(北条以外)がいました。また、縁者が出入りして緩い状態です。頼朝には武力や土地を持ってないので、何もできないので平清盛は忘れて2たのではないかとしてます。

 殆どの書籍は鎌倉幕府の成立に関しては「吾妻鏡」を基にしてます。そこで「吾妻鏡」から千葉氏の部分を重点的にとりあげます。

挙兵前

 頼朝が流人になって20年後、34歳のとき事態は動きます。
 頼朝との接触は胤常の子供達から始まります。

               常胤
 ┏━━┳━
日胤 胤頼 胤道 胤信 師常 胤正
(僧)             (嫡子)

治承四年(1180)四月九日(吾妻鏡)
 源頼政(頼朝の叔父)と息子の仲綱達をつれて以仁王(後白河上皇の子)のもとに行って平家打倒のため、頼朝等の源氏を味方に付けようと密談。(密談は京都)
注1.密談の中に日胤がいた。3
注2.頼政は源氏ですが、この当時、京にて自由に動けたのは、保元・平治の乱ではたくみに立ち回って清盛にくみし、文化人としても一目置かれて三位という高位得ていた。4

治承四年(1180)四月二七日(吾妻鏡)
 伊豆の北条館の頼朝の所に八条院の蔵人行家(源頼政)が平家打倒の高倉宮(以仁王)の源氏打倒の令旨を届ける。行家は甲斐や信濃の源氏に知らせるため、すぐに出発した。

治承四年(1180)五月二六日(吾妻鏡)
 頼政とその子供〔仲綱、兼綱、仲宗〕と婿の足利義房、以仁王も殺される。
注1.このとき日胤も殺害された。5
注2.治承四年(1180)五月一五日(吾妻鏡)から計りごとがバレて戦になっていた。

治承四年(1180)六月二十七日。(吾妻鏡)
三浦義澄と千葉胤頼が京からの帰りに頼朝をおとずれ密談。

注1.「千葉常胤:福田豊彦󠄀」では以下のようになってます。
この三日前に安達盛長らの使者が累代の御家人の催促に発っており、この密談で彼らの参加が要請され、関東の武士の動向なども分析され て、挙兵後の手筈も相談されたに違いない。彼ら両名の父千葉介常胤と三浦介義明は、 関東で最も有力な豪族的領主の一人であり、頼朝の父義朝に従って保元の乱にも参加し た者たちであった。
注2.胤頼大番役(平安時代後期から室町時代初期にかけて、地方の武士に京を、鎌倉時代に入ってからは京と鎌倉の警護を命じたもの)として京にいました。頼政の陰謀がバレて宇治合戦(宇治橋合戦)となりこれが原因で遅くなったとしてます。
  大番役:編集者の考察
  江戸時代の参勤交代のルーツはここからきているのではないかと考えます。参勤交代は藩に財政負担
  をさせ勢力をそぐためとか言われてますが、実際は江戸の警備(防衛)に来いとするものです。

注3.「吾妻鏡」では原文「爲官兵被抑留之間」を現代語訳とし「平家軍に捕われており」としてます。一方、「千葉 常胤:福田豊彦󠄀」では「道を遮られ」としてます。「捕われており」とすると殺されなくてよかった。この辺は分かりません。
注4.三浦義澄は千葉常胤、上総広常らと共に鎌倉幕府設立に貢献

 頼朝挙兵前の千葉氏との接触は吾妻鏡では以上です。
 これだけでは挙兵しないと考えられます。もう少し千葉氏、上総広常、三浦氏との談合が必要です。
例えば、どこで、いつ挙兵するか、兵力はどの位と言ったことです。
 「千葉常胤:福田豊彦󠄀」では「平家物語」(歴史小説?))等を参考に「6月の段階に早くも常胤らに対する使者の派遣があったという仮説は充分に成つ。」としてます。
 頼朝としては本来4月令旨が来た段階で挙兵したかったが、流人では簡単に動けないし、と言って京では源氏滅亡を発するし、頼朝の居る伊豆の近辺・関東にも頼朝を倒して手柄にしょうする輩がいるでしょうから焦って?いたかもしれないので、「根回し」が不十分で始めたのかもしれない。
 大日本帝国もアメリカ相手に何とかなるだろうと始めた戦で、何ともならなかった。戦とはそんなもんです。

 日胤に関しては「千葉常胤:福田豊彦󠄀」でも取り上げています。
治承五年(1181)五月八日 (治承五年養和元年(吾妻鏡)

律静房日胤は、園城寺の僧で頼朝の祈薦師であった。以仁王の令旨をうけた頼朝は、五月に伊豆から願書を付し、源氏の氏神である石清水八幡宮に参籠して、一○○○ 日の大般若経の無言読修を依頼した。六○○ヶ日の夜に日胤は、宝殿より金甲を賜 わる夢を見、所願成就の確信を得た。ところがその翌朝、以仁王が園城寺に入った ことを聞き、頼朝の願書を弟子の日恵に託して王に従い、以仁王が流矢で倒れた光明山寺の鳥居前で平氏に討たれた。そののち日恵は、 日胤の業をついで一○○○日 の所願を果たし、翌年五月に鎌倉についた。

千葉常胤」福田豊彦󠄀 日本歴史学会編集 𠮷川広文館 144ページ

 しかし、この記述は事実かは怪しいとしてます。また、日胤は説話化された人物で、史実はつかみ難いのである。「千葉常胤:福田豊彦󠄀」

前述での 治承四年(1180)五月二六日(吾妻鏡)の所の
注1.このとき日胤も殺害された。6

はここから来てます。

治承四年(1180)四月九日(吾妻鏡)
注1.密談の中に日胤がいた。7

はいまのところどこからきてるのかは分かりません。2021.2.2

又、「千葉常胤:福田豊彦󠄀」ではさまざまな文献を参考に頼朝と常胤等事前に打ち合わせをしたであろうとしてます。さらになければおかしいとしてます。

挙兵

武家政権樹立への開始です。

治承四年(1180)八月十七日。(吾妻鏡)
頼朝挙兵です。

常胤自体は参加してないのですが編集者の個人的興味から多少書くことします。
以下は「「歴史群像」2021 2月号 「鎌倉軍事政権の誕生」西俣総生」を参考にしてます。

 まず伊豆の目代もくだい)と目代の後見人邸を襲撃します。月下の夜襲です。「挙兵と言うより田舎ヤクザの出入り程度の戦いレベル。」

 頼朝自身は襲撃に参加せず、北条邸から高みの見物?予備としてそなえていたようですが、実際の兵力はほとんどいなかったようです。
 ともあれ初戦は成功です。

治承四年(1180)八月二十二日(吾妻鏡)
 来るはずの三浦一族が頼朝の所に来ないので伊豆を出発。

治承四年(1180)八月二十三日。(吾妻鏡)
 そぼ降る雨の未明に石橋山に陣を張ります。300騎
 夜明けに目に飛び込んできたのは、三浦一党でなく、前方に敵対する大庭景親3000騎、後方にこれも敵対する伊東祐親300騎。大庭景親の後方に三浦一族500騎です。
 開戦は夕刻からです。頼朝は惨敗し杉山に敗走します。
注 この合戦は吾妻鏡に比較的詳しく書いています。
 しかし、当時の戦いの常識から言って疑問をていしてます。8
かって石橋山古戦場に行ったのでそのときの写真をいくつか紹介します。

治承四年(1180)八月二十四日。(吾妻鏡)
箱根山中を逃げまわる。頼朝も百発百中の弓の腕を見せ、何度も戦かった。

治承四年(1180)八月二十五日。(吾妻鏡)
尚、箱根山中

治承四年(1180)八月二十六日。(吾妻鏡)
三浦一党は衣笠城(横須賀)に引きこもり防戦。

治承四年(1180)八月二十六日。(吾妻鏡)
三浦義明(八十九歳)戦士。三浦一族は、船で安房(房総南部)の国へ向かう。
頼朝軍は三日間食料もなくさまよう。

治承四年(1180)八月二十八日。(吾妻鏡)
土肥次郎実平が土肥に領地のある貞恒に命じて小船を用意させ、頼朝は真鶴から舟に乘り安房の国へ向かう。

頼朝房総半島に上陸

治承四年(1180)八月二十九日。(吾妻鏡)
安房の国平北郡猟島に舟を着けた。
注1.安房の国平北郡猟島とは現在のどこは以下のようになってます。

伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、治承4年(1180)に挙兵したが、8月「相州石橋山の合戦」で平家との戦いに敗れ、同国土肥郷真名鶴岬(現真鶴岬)から小船で安房国へ逃れた。安房国へ逃れた時に頼朝が上陸した地点については、伝承をもとに数か所の地名があげられてきた。なかでも、安房郡鋸南町竜島(りゅうしま)と館山市洲崎は、その代表的な地点として有力視されてきたが、大森金五郎文学博士の研究により、『吾妻鏡』の「武衛相具実平、棹扁舟令着于安房国平北郡猟島給」(頼朝、土肥実平を相具して、扁舟棹さして、安房国猟ヶ島に着かしめ給う)という記載などから、現在の竜島付近が上陸地点として認定された

千葉県教育委員会

現地へ行った時の写真です。

説明版の文字起こしです。(グーグルのマイドライブの手助けあり
これらを参考に話を展開していきます。

千葉県指定史跡 源賴朝上陸地


                  昭和十年三月二十六日 指定
                  千葉県鋸南町竜島一六五の一

治承四年(一一八〇)八月、伊豆で挙兵した源頼朝は、二十三日、
平家方の大庭景親おおばかげちか勢との石橋山の戦いに敗れ、真鶴まなづるより海路小
舟で脱出し、安房国へ向かいました。「吾妻鏡あずまかがみ」によれば、「二十
九日、武衛ぶえい (頼朝)、(土肥どえい) 実平さねひらを相具し、扁舟へんしゅうさおさし安房国
平北郡猟島りょうじまに着かしめたまうう。北条殿以下人々これを拝迎はいげいす」と
あり、上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島りゆうしまとされています。
頼朝はここで先着の北条時政ほうじょうときまさ三浦義澄みうらよしずみらと合流し、再起を図り
ました。当時房総には、下総の千葉常胤つねたね、上総の上総広常かずさひろつね、安
房の安西景益あんざいかげます丸信俊まるのぶとしら源氏恩顧おんこの豪族が多く、また内房沿岸
は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝が房総での
再起を選んだ理由と考えられています。
房総一の兵力を誇っていた上総広常のもとへ向かうべく、
外房の長狭ながさ (鴨川市)へ進んだ頼朝一行は、九月三日、平家に味方
する地元の豪族長狭常伴ながさ つねともの襲撃を一戰場いっせんばで撃破。ひとまず安西
景益の館 (南房総市池ノ內)へ入り、各地の豪族へ使者や書状を送り
味方を募り、情勢を見極めます。その間、洲崎すのさき神社 (館山
市)、丸御厨まるのみくりや (南房総市丸山) などへ足を運び、十三日、安房を
進発して兵力を加えっっ房総を北上、鎌倉へと入りました。 東
国の豪族たちを糾合きゅうごうし、平家を滅ぼし、鎌倉幕府という武家政
権を樹立した源頼朝の再起の一歩はここから始まったのです。

                      鋸南町教育委員会

治承四年(1180)九月一日。(吾妻鏡)
頼朝は上総の広常に行こうとしますが、まず安房の源氏で領地のある安西三郎景益に書状を出すことになった。「地元の役人を同行し、又平家方は捕まえて来い」。

治承四年(1180)九月三日。(吾妻鏡)
 平北郡から広常の屋敷へ向かい宿泊所にはいる。安房の国に領地のある長狭常伴は宿泊所を襲う計画であったが三浦次郎義澄は先回りして成敗。
注 場所は「千葉県鴨川市貝渚かいすか(一戰場)」とされてます。

治承四年(1180)九月四日。(吾妻鏡)
 9月1日に書状を出した安西三郎景益が頼朝の所に来た。安西は広常の所に行く前に使者を出すべきとした。
 行く所を安西三郎景益の館に変更。和田太郎義盛を広常の所へ、藤九郎盛長を常胤の所へ行かせて。迎えに来るよう伝えることになった。
注 安西三郎景益の館は南房総市池ノ內。上陸地の説明板

治承四年(1180)九月五日。(吾妻鏡)
頼朝は洲崎神社に行き参拝。広常、常胤への使者が無事帰ってきたら田を寄進する。

治承四年(1180)九月六日(吾妻鏡)
広常の所に行っていた和田太郎義盛が帰ってきた。広常は常胤に相談した上でくると伝えた。
注 上総介広常の館のある所は現在のいすみ市又は御宿町とかで今もって分かってないようです。

治承四年(1180)九月九日(吾妻鏡)
 盛長が千葉から帰ってきた。「常胤は感動していた。速やかに鎌倉へ行かれるが良い。常胤が出入りのもの皆引き連れて、頼朝をお迎え行く」と云えました。

治承四年(1180)九月十一日(吾妻鏡)
頼朝は安房の丸御厨(南房総市丸山)を見に行く。
注 丸御厨は南房総市丸本郷らしいとしてます。

治承四年(1180)九月十二日(吾妻鏡)
頼朝は洲崎宮(館山市)に広常・常胤への使者が帰ってきたので寄進状を送る。

治承四年(1180)九月十三日(吾妻鏡)
頼朝は安房の国から上総の国へ向けて出発。兵は三百騎。広常は兵を集めるのに時間かかるとして広常の所は中止。
頼朝を迎えに行く前に留守を固めるため、常胤の子、孫は平家側の目代(市川市国府台)を襲撃し首を取る。

頼朝の房総半島での行動を図にすると下記のようになるでしょう。

治承四年(1180)九月十四日(吾妻鏡
下総国千田庄(千葉県北部)の千田判官代親政は自分の代官が殺されたので、常胤を襲うとしたが、常胤の孫の千葉小太郎成胤はを千田判官代親政を捕虜にした。

千葉氏鎌倉へ

治承四年(1180)九月十七日(吾妻鏡
常胤は一族を連れて市川国府台(市川市)で頼朝と会う。このとき頼朝は有名な「千葉介常胤を父とも思っている。」と言う。

捕虜にした千田判官代親政を頼朝に見せた。

注1 常胤と頼朝の最初の出会いになるのでしょう。
注2 不思議なのは、胤常(千葉市)をパスして市川市なのかです。頼朝は胤常に対して安房から迎えに来いと伝えた。
 広常は二万騎を集めるとしていたので待って居られないとして、先を急いだ?それなら千葉市に船で上陸地しそうです。「千葉常胤:福田豊彦󠄀」ではこの考えです。「千葉常胤:福田豊彦󠄀」はさらに広常が裏切って平家側につくかも知れないので警戒した。との考えも述べてます。
編集者としては頼朝は急いでいた。後から追っかけて来いとして市川市に船で上陸したのかもしれない。

治承四年(1180)九月十三日。頼朝が安房を出発して、常胤、広常に会う日は吾妻鏡にある日付より以前とする文献もあります。

親政大勢 こらえ得ず、落ち行くこと二十里、遂に馬の渡り迄ぞ追打しにける。軍果て、それより上總へ參り、佐殿へ斯くと申上げければ、佐殿仰せられけるは、「千葉の曩祖より相傳の妙見守護神こそ、亂軍の中に矢を拾ひ射させ 給へる事、我が朝神國とは申せども、今に於て珍しき事なれ。急ぎ參りて祈念も申すべき也」と、同二十日千葉へ御越しありて妙見御参詣あり。御伴には先陣上總權介廣常、長所太郎重常、長北二郎家仲、次郎常家、伊保庄司常仲、同太郎常信、二郎常明、小大夫時常、佐是四郎祥師、天羽庄司秀當まさ、常ちか、同四郎師常。安房の 國には安西三郎景益等一門、其の勢一千餘騎、千葉へ館して御移りあり。

千学集抜粋9(177)

治承四年(1180)九月十四日(吾妻鏡)では千田判官代親政を捕虜にしたことになってますが、ここでは千田判官代親政は上總に行き佐殿(頼朝の別名)に事情を説明したが、無視(?)されて同伴者をつれて同二十日千葉へ行き妙見(現千葉神社)御参詣したことになります。

同二十日とはいつのことかはわかりません。多分、治承四年(1180)九月二十日でしょう。この日はさらに上總介広常も同伴してます。つまり、頼朝、常胤、広常3人は千葉に来る前に合流してた事になります。吾妻鏡では頼朝は九月十三に安房を出発したこになってます。
頼朝は吾妻鏡では常胤には九月十七日に市川で、広常には九月十九日に隅田川の辺で会ったことになってます。
どうもこうした事は問題にせず、並べて書くのが歴史の考察のようです。歴史考察の新参者で慣れてません。
尚、頼朝が千葉に来たとの記述は下記にもあります。
房総叢書の「千葉實録」「妙見宮實録千集記」「総葉概録」にもあることは確認してます。多数決で「頼朝が千葉に来た」とするのは無理があります。これらは「千学集抜粋」を基にしてるとの見解もあります。

治承四年(1180)九月十九日(吾妻鏡
広常は二万騎で隅田川の辺りに参上。頼朝は遅れた参上を怒った。広常は場合によっては頼朝を討って平家に渡して手柄にしようしていたが、大軍をみて喜ぶと思ったら怒ったので、上に立つ器量があるとして従った。

注 鷺沼とは現在の習志野市鷺沼とされてるようです。9月19日にいた墨田川から一旦引いたことになります。10月2日の記述から、川を渡る船の準備のため?場所的には常胤の3男胤盛の名字「武石」に近く、胤常の千葉市にも近く安全?
(編集者が現役の頃、鷺沼に事務所があり「武石」の地名もなじみです。歴史的な所にいたとは知らなかった。余計なことですが。)

治承四年(1180)十月二日。(吾妻鏡
頼朝は常胤、広常等が用意した船で大井、墨田川を渡る。兵3万騎になっていて武藏國(東京都)に向かう。
注 川の名前は下記を参照して下さい。現在とは全く異なるようです。

「千葉胤常」:福田豊彦 歴史学会編集 𠮷川弘文館 99ページ

注 3万騎?が2つの川を渡る船となると大変と考えますがどんなもんでしょう。自衛隊なら船でなく仮橋をさっと造るでしょが。

治承四年(1180)十月三日。(吾妻鏡
常胤は厳命で子息と郎党を上総に向かわさせ敵対勢力を追討させた。

治承四年(1180)十月六日。(吾妻鏡
頼朝軍鎌倉に到達。常胤がしんがりを務めた。

治承四年(1180)十月二十日。(吾妻鏡
富士川の合戦。

注 有名な合戦ですが。実際の戦いは広く知られてる様子とは異なるようです。実際に戦ったのは甲斐源氏、頼朝は補助的な役割とかあります。富士川の戦い(ウィキペディア)では他にも興味深い解説がされてます。

編集者が旧東海道を歩いていた時に撮影した。碑です。

治承四年(1180)十月二十一日。(吾妻鏡
頼朝は敗走する平家を追って京まで行こうとします。胤常等は関東にはまだ頼朝に従わない勢力いるので足下を固めからと進言し、そうなります。

注1 「千葉常胤:福田豊彦󠄀」では参加した武士たちは京で平氏のように貴族化するなのでなく自分達の領地の保全をし、もめた時の仲裁を望んでいたとしました。当時の朝廷は正当な領地の支配権を保証できなくなっていた。武家政権・鎌倉幕府への方向が定まったとしてます。
注2 頼朝と義経が対面したとする「対面岩」。これも編集者が旧東海道を歩いていた時に撮影した。

治承四年(1180)十月二十三日。(吾妻鏡
頼朝は相模の国府(神奈川県 大磯町)に戻り論功行賞を行う。常胤らには現在の領地を認めたうえに新たな領地を与えた。
注 「千葉常胤:福田豊彦󠄀」では論功行賞は重要としています。朝廷の出先機関(国司等)の役人を勝手に任命し、役職(介)を与えた。実力による謀反の政権として出発した鎌倉幕府の性格があらわれてる。(クーデターで関東地方を独立させた。編集者)

頼朝関東地方平定


治承四年(1180)十月二十七日。(吾妻鏡
頼朝は佐竹を征伐するため、常陸国へ出発。

治承四年(1180)十一月四日。(吾妻鏡
頼朝は胤常らに佐竹との戦いは計略を練てからと指示。

治承四年(1180)十一月七日。(吾妻鏡
広常の武士達が頼朝に合戦の次第と佐竹が逃げたことを伝える。

治承四年(1180)十一月十七日。
頼朝は、鎌倉に帰還。

注1 佐竹との戦い後に武蔵国にで敵対勢力を成敗したり、寺院のゴタゴタをかたづけてうえで帰還してます。このとき常胤が居たかは不明です。
注2 治承四年(1180)八月十七日頼朝が挙兵してからわずか4ヶ月の早業です

その後、鎌倉に御所が出来たので各種行事がおこなわれます。
胤常の館も鎌倉に造られます。

治承四年(1180)は終わりで、ひとまず源平合戦は休止です。

第一部はこれで終了です。

予定としては下記ですが、多分タイトルは替わり、途中で止めるかもしれません。

千葉氏と鎌倉幕府樹立 第二部
第三部は常胤奥羽州へ
第四部鎌倉幕府樹立後