千葉氏と平安時代

千葉氏の始まりは高望王が、朝廷から上総(千葉県中部)に派遣(赴任)されたことからです。赴任には任期があるようです。どうしてそれが京に帰らず戦国時代末期まで千葉氏として存続できたのか不思議でしたので調べてみました。結果的にはかなり難しですが、出来るだけ簡単に記したいと思います。
本記事は下記をベースしてます。

歴史群像 2021.4号 「鎌倉軍時政権の誕生」 第2回 西股総生
本書ではこの問題を荘園制にあって「日本史上最大の迷宮」としてます。

桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王平高望)ー平良文(千葉氏1代)・・・・千葉常胤(千葉氏8代)
高見王は実在しなかったとの系図もあるようです、桓武天皇の孫又は曾孫になります。

それでは上総には何を目的に赴任(898年)したのでしょうか。2つの説があるようです。1つ目は「介」で現代的には県知事(?)でしょうか。2つ目は「押領使」で現代的には県警本部長(?)でしょうか。
「平高望の東国下向~桓武平氏の成立」も参照して下さい。「押領使とする系図もあります。

これからが本題です。本質は国(朝廷)の土地の所有に関する制度です。国有地、私有地に関するせめぎ合い、節税や課税逃れに関する事に尽きます。戦国時代は武力で土地を獲得し、法はありません。それ以前のはるか前です。
千葉氏だけでなくこうした事で私有地を拡大し居座ることができました。


古代の大和政権は地方の豪族を束ねることで国を運営してきました。
朝鮮半島への軍事介入「白村江の戦い」(663年)に失敗します。大陸からの報復を恐れた政権はそれまでの豪族連合軍から国軍の創設を目指します。そのため「律令制」を取り入れます。
「律令制」は中央政権国家を目指すものです。
まず、全国の土地や人を天皇の所有(=公地公民制)とする。
注 最近は「公地公民制」は無かったとする新説もあり、こうなると益々「迷宮」ですが一応あったものとします。
次に、地方の豪族を都に住まわせ貴族とします。地方には朝廷から役人を派遣し税率を全国一定にして徴税します。
この制度は中国等で行われた制度です。この制度を運営する貴族(=霞が関の役人?)は識字率が低く行政文書を取り扱えなかった。たちまち形骸化です。現代のように公務員になるための試験制度はなかった。中国では科挙があった。

国から派遣された役人(=国司、介)は言わば現代的には知事で末端の職務は在地の有力者が行います。有力者は郡司ぐんじ郷司ごうじの肩書きを当たられます。区分された土地の最小単位が郷で、複数の郷を束ねたのが郡です。これがあくどく農民から搾取します。さらに、郡司、郷司は私邸に使用人を雇い要塞化するのも現れます。(武士の起源?)
注 公地公民制から本来、土地は天皇のもの(=国有地)でも事実上管理する郡司、郷司のものになったようです。これを「私有田領主」と呼ぶようです。
一方、国としては税を増やそうして荒れ地の農地化を推奨します。開発した土地は一定期間免税した後国有地とします。郡司、郷司はこれを悪用します、複数の郷を纏め(=地上げ)あたかも開発した土地として、貴族と結託して免税手続をします。当然貴族にも賄賂が入ります。

その後、一定期間の免税では余り増え無かったので後に開発者の所有を認めます。

れを「在地領主」と呼ぶようです。
千葉氏3代目忠常は「私有田領主」であちこちに要塞化した私邸を持ち広範囲で反乱が可能になったとされてます。千葉氏8代常胤は「在地領主」に相当するようです。(人物叢書「千葉常胤」福田豊彦 𠮷川弘文館)

斯くして「公地公民制」は骨抜きされます。
骨抜きにされた「公地公民制」はさらに骨抜きにされます。それが「院政」です。
「院政」と聞くと、引退した天皇があれこれ現天皇に指図して実質的に国を支配するイメージですが、本質的には王家の資産形成システムとされてます。
現代も宗教法人は税が優遇されてます。当時もありました。引退し法皇となると税が優遇される寺社を全国に建てます。そこに在地領主は土地(=荘園)を寄進します。寄進と言っても実際には土地を譲渡するわけでなく、寄進元は土地からの収穫物の一部を寄進先に納入します。寄進元は税金として納める代わりに寺社側に納めることになります。これを「荘園公領制」と呼びます。寺社の建設は有力貴族も始めます。
 国税の私物化を王家みずからやってることになります。天皇自体が骨抜きにされます。それなら天皇みずから寺社を建て荘園を持てば良さそうですが、もともと「律令制」により全国の土地は天皇のものなのでそれはできない。法皇は個人なので可能です。良く考えたものです。

寄進元には、土地所有で争いになってる土地を寄進することによって自分のものとアピールするメリットもあるようです。
常胤も相馬(千葉県北部)でそうしてます。しかし寄進したからでそれで解決したわけでなく、常胤はあらゆる方法で対策しますが、相馬は奪われます。これが、頼朝に加勢した一つ理由とされてます。最終的には相馬は回復されます。(人物叢書「千葉常胤」福田豊彦 𠮷川弘文館)

国軍を目指した「律令制」ですが、外国から脅威が無くなったので国軍は解体されます。国内の反乱等のためにはその都度されます「アウトソーシング」(=外部委託)されます。