千葉氏と鎌倉幕府樹立 第二部

「千葉氏と鎌倉幕府樹立 第一部」に続き第二部です。


本記事(投稿)は随時訂正・加筆します。


千葉介常胤は頼朝の命を受けて九州まで遠征します。

吾妻鏡は下記から引用させて頂きました。
  有名な古文書ですが、必ずも信頼出来ない部分があるとされてます。
  吾妻鏡入門が現代語約もあり便利です。

治承5年(1181年)六月十九日(吾妻鏡)
上総権介広常が頼朝の前で下馬しないで挨拶をした。他に宴席で無礼な振る舞いがあった。

注 後に広常が謀反の疑いで誅殺(=暗殺)されますが、それのため挿話(=言い訳)と考えられてます。

養和二年(1182)正月二十八日(吾妻鏡)
頼朝は伊勢神宮に馬や砂金の献上を検討。砂金は百両を千葉介常胤と小山四郎朝政が献上。馬は10頭をそれぞれ家臣10名が献上。
注 頼朝は元旦から数々の行事をこなしてます。


養和二年(1182)三月九日(吾妻鏡)
頼朝の妻の政子の腹帯を着ける儀式。千葉介常胤の妻が孫の成胤を使いとして帯を献上した。

寿永元年(1182)四月十五日(吾妻鏡)
頼朝は上総権介広常等と江ノ島へ。弁財天をこの江ノ島へ呼び祀り、奥州平泉の藤原秀衡を祈り殺すため。
注 この時点で藤原秀衡の庇護を受けていた義経は殺される運命になった。考え過ぎか?


寿永元年(1182)八月十八日(吾妻鏡)
頼朝の子供(頼家)の生誕七日の儀式を千葉介常胤が実施。
注 生誕五日は上総権介広常が実施。

寿永二年(1183)十二月
広常が謀反の疑いで誅殺(=暗殺)されますが、これ自体は吾妻鏡にはでてきません。欠落?
下記を参考にして下さい。

寿永2年(1183年)12月、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時天野遠景に命じ、景時と双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男・上総能常は自害し、上総氏は所領を没収され千葉氏三浦氏などに分配された。この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。広常の死後、千葉氏が房総平氏の当主を継承した。
慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べたことを記している。

上総広常 – Wikipedia

注 頼朝は、出る杭は引っこ抜くのでしょう!? 後に、木曽義仲、源範頼源義経も殺します。

寿永二年(1183)十二月三十日(吾妻鏡)

保留された上総権介広常の御家人等の屋敷土地を戻す。

富士川の戦い依頼約3年鎌倉では戦いがありませんでしたが、寿永三年(1184)は大きく動きます。
頼朝と同時期(1180)に挙兵した木曽義仲(頼朝のいとこ)は各地で平家と戦い、平氏は寿永二年(1183)7月25日京を逃げだした。27日木曽義仲は京に入ります。これ以後のことはドラマ等で知られています。
概略は源義仲にもあります。


寿永三年(1184)正月十日(吾妻鏡)
木曽義仲が二百四十五年ぶりに征夷大将軍になった。余程に珍しい朝廷のお計らい。
注 朝廷を冷やかしてます。

寿永三年(1184)正月十七日(吾妻鏡)
上総権介広常の兜からの文書で謀反の疑いが晴れる。追善供養をした。

寿永三年(1184)正月二十日(吾妻鏡)
範頼、義経が頼朝の使者として義仲を追討するため京都に入る。義仲は当日殺害される。
注 範頼 頼朝の異母弟で、義経の異母兄 源範頼

寿永三年(1184)二月五日(吾妻鏡)

範頼一ノ谷のそばに到着。千葉介常胤も同行。 

ここで、千葉介常胤の名前が突如でてきます。常胤は現千葉市を出て、多分鎌倉経由で、京都、一ノ谷に向かったのでしょう。又、広常が誅殺されたときどうしていたのでしょう。
注 鎌倉には常胤の屋敷もあるので、兵のみ現千葉市から呼び寄せたかもしれません。
福田豊彦氏は下記のように考えてます。

上総介広常の殿中誅殺のとき、常胤はどうしていたのであろうか。『吾妻鏡』にはこの重要な寿永二年(11) 十二月の記事を欠いており、知り得ないことは残念である。推測するに常胤は、木曾義仲追討のために、すでに鎌倉を発っていたのではなかろうか。
『平家物語』によると、源平合戦で彼が属していた大手範頼の軍勢は、十一月中に尾張に着いている。政治家頼朝の計算の中には、同族常胤の不在も入っていたのかも知れない。

千葉常胤 福田豊彦 日本歴史学会編集 𠮷川弘文館 181ページ

これから、言えるのは広常は十一月には京都に行くため、鎌倉に入っていた可能性がある。広常を誅殺するためか、鎌倉が手薄なるので留守部隊のため残したか、どうだろうか?


一ノ谷の合戦は余りにも有名なのでここでは詳細は省略します。

千葉介常胤は範頼が指揮する大手にいます。
具体的に常胤がどう戦ったは不明です。

搦めては義経が指揮します。最近では「鵯越の逆落とし」は平家物語、吾妻鏡の創作との説が有力です。


図は一ノ谷の戦いウィキペディアから引用させて頂きました。

この後暫く、地方では、平家の残党との小競り合いあり頼朝は対応してます。

千葉介常胤の動きはありません。多分、現千葉市か鎌倉に居たと考えられます。
半年後、常胤の出番がきます。

元暦元年(1184)八月六日(吾妻鏡)
平家を討伐するために、中国四国九州方面へ出かけるため、千葉介常胤等の送別会。

元暦元年(1184)八月八日(吾妻鏡)
範頼を司令官として千葉介常胤等が鎌倉を出発。


元暦元年(1184)八月十七日(吾妻鏡)
義経の使者が頼朝の所にきた。断り切れず朝廷から任官を受けた。頼朝不機嫌。

注 朝廷は武士達を勝手に任官させ反目を狙い勢力を削ぐ。義経はその辺が理解できず悲劇の始まりとされてます。後に義経が殺害されますが、それの理由付けの一面もあるでしょう。

元暦元年(1184)十月六日(吾妻鏡)

鎌倉で新築の公文所で縁起の良い幕府行事を書く吉書始めが行われる。千葉介常胤が運営、宴席を用意、引き出物をくばる。

八月八日鎌倉を出て西に向かっていた常胤が突然鎌倉に現れます。
新築の公文所くもんじょの祝い事を常胤にやらせるため呼び戻された。


公卿政所僧綱国衙荘園などに設置され、文書管理のみならず指揮命令・訴訟・財政収取などの実務機関としても運用された。

公文所(ウィキペディア)

現代的には行政、司法機関さらには公文書館をそなえた国家政権として体裁を整えたことになるのか?そうなると、常胤がいかに重要視されたかがわかります。
鎌倉へ呼び出されたは一時帰還であることは後で判明します。

元暦元年(1184)十一月二十一日(吾妻鏡)
頼朝は筑後権守俊兼を呼び出し、千葉介常胤を例に領地は多いが質素にしている、服装などが贅沢だといましめる。


元暦二年(1185)正月六日(吾妻鏡)
頼朝が十一月十四日送った御文(手紙)が蒲殿(=範頼)に着いた。
文中で「千葉介ことに軍にも高名し候けり。大事にせらる候へし。

ここで、千葉介常胤が一時帰還あったことが判明します。どこから帰還し、どこで再び合流したかは不明です。

正月六日は頼朝は復数の命令書をあっちこっち出してます。


範頼は九州へ行き、京都で検非違使をやってた義経は四国へ行くことを命じます。
注 平家は四国屋島にいました。範頼は九州の武士達に屋島を攻撃させる計画でしたが、義経を四国に派遣し挟み討ちの戦略変更とみられてます。

元暦二年(1185)正月二十六日(吾妻鏡)
臼杵惟隆と緒方惟栄は範頼の命令で八十二艘の軍船をだす。そして豊後国へ渡る。千葉介常胤等も渡る。常胤、衰老をものとせず、風波を凌ぎ進み渡り。

元暦二年(1185)三月十一日(吾妻鏡)
頼朝から範頼への手紙。千葉介常胤は老骨に鞭打って、旅生活に耐えてる、誰よりも抜きん出て大事にするように。今までの千葉介常胤の手柄には、生涯かけても返しつくせない程の恩がある。

元暦二年(1185)三月二十四日(吾妻鏡)

壇ノ浦合戦

元暦二年(1185)四月十二日(吾妻鏡)

鎌倉での決定、範頼は暫く九州にいて、平家の領地の接収をする。

元暦二年(1185)四月二十四日(吾妻鏡)

範頼〔未だ九州にいる〕

文治元年(1185)九月二一日(吾妻鏡)
範頼の使者が鎌倉にきて、すでに九州を出て指示通り8月中に京都に入るようにする。

文治元年(1185)十月二十四日(吾妻鏡)

鎌倉の勝長寿院の完成式典に千葉介常胤を始め一族が参列。範頼も参列。

注 福田豊彦氏(「千葉常胤」𠮷川弘文館)は

 常胤も範頼に同行していてこの頃(10月)鎌倉に帰ってきたのでないかとしてます。
 


千葉氏と鎌倉幕府樹立 第二部 終わり

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千葉氏と鎌倉幕府樹立 第一部