千葉氏と南北朝時代

 千葉氏は「鎌倉時代」を生き残りました。
 まず、鎌倉時代に朝廷では、誰を天皇にするかで対立してました。大覚寺統だいかくじとう持明院統じみよういんとうです。
鎌倉幕府の仲介で交互に即位することになります。
 元弘の乱 で大覚寺統の後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒幕させました。この乱で千葉氏は当初は幕府側でしたが最終面で寝返り後醍醐天皇に付きます。しかし、朝廷は天皇の系統で対立していて、 後醍醐天皇は倒幕の立役者足利尊氏たかうじと対立し、敗者となり南朝(吉野)を樹立します。つまり京(北朝)に足利尊氏が擁立した光明天皇と朝廷が二つできました。その結果全国の武士が二分され戦いになります。この辺の事情は 南北朝時代 に詳しいです。
 千葉氏はこの時どうしたのでしょうか。南北時代の区間をどうするかは議論があるようですがここでは下記とします。
 始め  (南朝:延元元年/北朝:建武3年12月21日)1336年
 終わり (南朝:元中9年/北朝:明徳3年10月5日) 1392年

一方、北朝光明天皇に建武5年(1338年)8月11日に尊氏は征夷大将軍に任ぜられます。これもって室町幕府成立とする考えや実質的に前年1337年とする考えもあります。

いずれにしろ、概ね室町幕府の始まりの約50年を「南北朝時代」と呼んで差し支えないでしょう。

鎌倉幕府滅亡(鎌倉陥落)を1333年とすれば、1333年から1337年は動乱の時代です。後醍醐天皇が天皇専制をし、武士がそれまで持っていた権利を剥奪されるなどで不満が高まります。有力武士が、後醍醐天皇側、反天皇側となり全国的な戦いとなります。この時代を本サイトでは「南北朝:前史」とします。

1333 ーーーーーーーー-ー1336      1392
   南北朝:前史   |ー南北朝時代ー| 
            |ーーーーーーーーー室町時代ーーーーー

この時代の千葉氏の当主は下記になります。

千葉介貞胤 (15代) 北朝:觀應二年(1351年)正月一日 死去  61才
千葉介氏胤 (16代)北朝:貞治四年(1365年)四月十三日 死去  29才
千葉介滿胤 (17代)應永三十三年(1426年)六月八日 死去 67才

 死去日は 千葉傳考記 からです。これから言えることは「貞胤」は後半から「氏胤」は存命中「滿胤」は前半の当主であった事になります。 觀應 貞治 は北朝が使用した元号です。( 應永は南北朝統合後の元号です)一般に見方した方の元号を使用するので千葉氏の当主は北朝側と考えられます。
北朝、南朝が使用した元号はこちらが詳しいです。

主要参考文献
1.千葉傳考記
2.歴史群像 2002 8月号 「足利尊氏の逆襲」
3.完訳「太平記」1~4 勉誠出版

千葉氏本家(下総)

千葉介貞胤

 足利尊氏は本来源氏の出自ですが、後醍醐天皇が企てた鎌倉幕府倒幕の元弘の乱では後醍醐天皇側につきます。
 尊氏は鎌倉を弟忠義ただよしを関東支配の「小幕府」というべき鎌倉将軍府実質的支配者とするこ成功します。(将軍は成良なりよし親王)尊氏は表には出なかった。

 しかし、後醍醐天皇は専制をします。これが、武士の土地権利を無視するようなことや、後で倒幕に参加した公家の方に恩賞が厚かった。こうしたこともあって、鎌倉幕府の残党が幕府再興を狙って各地で挙兵をします。最後の得宗北条高時の二男時行も挙兵し、鎌倉を手中にします。

そこで、後醍醐天皇は京いた尊氏に鎌倉奪還に派遣し成功します。
ここまでは、朝廷側で官軍です。

 後醍醐天皇は尊氏を鎌倉に置いておくと鎌倉時代の武家政権が誕生することこを危惧し、京に戻るよう命じます。しかし、尊氏は応じません。弟忠義は関東諸国の武士に軍勢促進状を発します。
 後醍醐天皇は奥州(塩竃)の北畠顕家あきいえを鎮守事府将軍に任じ鎌倉の背後を衝く姿勢をとらせます。
 尊氏は、いわば同士である鎌倉を攻落した京にいた新田義貞が尊氏を讒言したとして討伐を要請します。後醍醐天皇に尊氏か義貞どちらかをとるか迫ったことなります。後醍醐天皇は義貞をとります。
 かくして、尊氏は朝敵となります。
 
 官軍は京都から東海道を新田義貞軍、奥州から北畠顕家軍、東山道からは洞院実世とういんさね軍が鎌倉に向かいます。迎え撃つ足利(尊氏)軍は東海道を京に向かいます。
 足利軍は「箱根竹下の合戦」で官軍を撃退します。

千葉介貞胤はこの時どうしていたのでしょうか。千葉傳考記によれば下記のようです。
 後醍醐天皇が鎌倉に官軍派遣をしたときは京にいました。貞胤は官軍にしたがい「箱根竹下の合戰」で敗れますす。
 注1 編集者には当時どうして貞胤が京にいたかは不明です。
 注2 「太平記」にもこの戦いに参加した記述があります。

 足利軍は進撃を続けます。官軍側の大友貞載さだのりの寝返りもあり、官軍は富士川の西側まで後退します。
官軍の敗北に驚いた朝廷は新田義貞に帰還を命じます。逃げ足は早く、取り残された武士達は足利軍に寝返ります。

千葉介貞胤はこの時どうしていたのでしょうか。千葉傳考記によれば下記のようです。
 千葉介貞胤は寝返ず京まで後退します。

 京近郊に迫った足利軍と官軍は京を巡って、双方が京を取った、取り返したの攻防で最終的に足利軍は敗北し九州に逃れます。

千葉介貞胤はここでどう戦ったのでしょうか。千葉傳考記によれば下記のようです。
 奥州からの北畠顕家軍が到達(注 北畠は軍勢を集めるのに手間取ったので遅れたようです。東海道を足利軍を追いかけるように進軍してきました。)します。貞胤の嫡子一胤は数百騎を伴って顯家に属し、1336年1月12日、江州坂本着陣し、父貞胤に対面します。その後、足利軍との激し三井寺合戦で一胤は討死します。貞胤は京都に入ります。
(注 この戦いは京を占領していた足利軍に反撃するため官軍側(北畠顕家が主力)は比叡山から1336年1月16日攻撃を開始し、足利軍は京から最終的に1336年1月30日に撤退九州へ逃げます。京は盆地で守りにくく攻撃しやすいと言われてます。官軍側は一端は京に入りますが撤退し、再度京に入ります。)

 足利軍は九州に都落ちします。この際、足利尊氏は非常の策にでます。持明院統の「光厳上皇」の院宣を受け幕府開設をめざします。再び両系統で対立します。これでは官軍が二つ出来たことになります。この時点では北朝・南朝はまだ言えませんので、便利上後醍醐天皇側を宮方軍とします。さらに九州は足利尊氏にとってホームグランドです。大勢を立て直し、再び京を目指します。
 足利軍は奏川の合戦みなとがわのたたかいで勝利し、京にせまります。

この戦いに千葉介貞胤は「太平記」を見ても出てきません。後醍醐天皇警護のため京いたと考えられます。

 足利軍が京に迫て来たので、宮方は東坂本(滋賀県大津市)に退きます。武士以外にも公家等も同行します。「太平記」には千葉介貞胤の名前もあります。

 延暦寺の全僧兵は宮方につきます。
 足利軍はこれを察し、建武三年(1336)六月二日延暦寺を攻撃します。東坂本の千葉介貞胤等も参戦します。足利軍は京に後退します。
 宮方は京に攻め入ります。しかし、足利軍は押し返します。宮方は延暦寺、東坂本に戻ります。

 宮方に付く武士や、延暦寺に味方する寺を得て、再び京都に侵攻しますが、押し戻されます。

 その後、足利尊氏と後醍醐天皇の間で和解が成立し、天皇は京に戻ることになります。宮方の軍は天皇と共に京に行く者とに分かれます。
 後醍醐天皇はもう一方は北国に行かせ立て直しを図ります。千葉介貞胤は北国行きです。
この際、後醍醐天皇は宮方の将新田義貞にったよしただが朝敵になることを恐れ皇太子(恒良つねよし親王)を義貞に付けます。
 京に戻った後醍醐天皇は大覚寺統だいかくじとうの光明天皇に三種の神器を渡すよう強要されますが、偽物を渡したとされます。後醍醐天皇に付いてきた者は拘束されたり殺されて悲惨なことになります首尾良く脱出し国元に戻る者もいます。(注 その後、後醍醐天皇は先帝後醍醐になるでしょう)

 北国に向かった十月十一日(注 千葉傳考記では十月十日になってます。)千葉介貞胤は木芽峠きのめとうげ(福井県敦賀市)で雪のため寒さで動けず自害しょうとします。千葉介貞胤は越前国(福井県北部)の守護の尾張守・高経の説得で足利尊氏側に付くことになります。

この辺のことは千葉傳考記では次のように記されてます。

敵將足利尾張守高經、使者を馳せて、慇懃に告げて曰く、「公能く死を善道に守って、其の志を盡さるゝ事、誰か感ぜざらんや。鳴呼悲しいかな。千葉大家の遺蹟を滅して、徒に諸卒の命を須さん事を。願くは、枉げて武家に屬し給へかし」と。 其の語丁寧に、禮を卑くして述べられければ、貞胤計を往路に運して尊氏の座下に屬せらる。
(注 要は貞胤は武家なので天皇側でなく武家側につけとなるでしょう)

完訳太平記では次のように記されてます。

「武勇の道も、もうここまででございます。どうか我が方に投降なさってください。これまでのことは、我が身に替えてでも将軍のお許しをいただくよう努力します。」と礼儀正くおしゃって使者
を遣わされたので、貞胤さだたねも不本意ながら降伏し、高経たかつねのもとに下だった。
(注 将軍=足利尊氏)

 宮方は北国で足利軍と戦い、敗北します。戦死しなかった兵は自決します。宮方の将新田義貞も戦死します。この戦いはこちらが参考になります。皇太子(恒良つねよし親王)京都に送られます。

 北国での戦い中に幽閉されていた先帝・後醍醐は京を脱出して吉野に逃げます。地元の武士達の味方を得ます。これで、南北朝に分裂です。建武三年十二月二十一日(1336)
 先帝・後醍醐は南朝で再び後醍醐天皇になりますが、南朝 :延元えんげん四年八月十六日(1339)病のため崩御します。後村上ごむらかみ天皇(南朝)が即位します。

 全国的に各地で北朝・南朝で戦いが始まります。
北朝:貞和四年(1348)一月大阪で行われた「四條(畷)縄手の戦いしじょうなわてのたたかい」で千葉介貞胤は足利尊氏(幕府軍 北朝)に加わり、南朝軍と戦い勝利します。

千葉介貞胤 北朝:觀應二年(1351年)正月一日 死去  61才

千葉介氏胤

このページは主に千葉傳考記 を参照してます。

 南朝:延元二年(1337)五月十一日、京生れです。
 北朝:貞和元年(1345)八月二九日、天龍寺供養の時、尊氏の參詣に氏胤後陣を勤めます。九歳。
 注 太平記にも「千葉新介・氏胤」の名前がありますが、9番手の集団に属しており10番手まであります。かならずしも最後尾(しんがり)ではないようです。この時期は安定して時期のようです。

父 千葉介貞胤が 北朝:觀應二年(1351年)正月一日 61歳で死去、兄一胤は三井寺合戦で討ち死にしたため氏胤十五歳で家を継ぎます。

 北朝:觀應二年(1351)十月十四日、尊氏は直義入道惠玄を誅詩せんが爲め、東州に下向あり、氏胤亦隨從して忠戰を励む。時に十五歲なり。尊氏大に感賞あり。
 注 直義は尊氏の弟で争っていたことは確認できますが、この戦いは調べても編集者分かりませんでした分かりませんでした。2022.5

軍終るや、氏胤始めて領國千葉に入り、一族家臣等の賀を受く。

 南朝:文和元年(1352)二月、尊氏新田義宗と武藏野に載ふ。尊氏の軍利あらずして石濱に逃ろ。既にして、義宗は尊氏の將仁木左京大夫義長と戰ひ、軍敗れて笛吹うする峠に退く。廿七日、氏胤尊氏の軍にし八日直ちに笛吹峠に向ひ、義宗の將上杉民部大夫と戦って勝利を得たり。延文五年(1360)四月三日、南方の軍將紀州に出張す。氏胤も義詮卿の命に應じて戰功あり。
注 新田義宗と尊氏の戦いは「武蔵野合戦」と称するようです。

 北朝:貞治四年(1365)四月、氏胤洛に在りて病に冒さる。是に依つて領國に歸らんとせしが、命なる、同十三日途中濃州の某驛にて死亡。年二九歳。

千葉介滿胤

このページは主に千葉傳考記 を参照してます。

北朝:延文五年(1360)十一月三日生。父氏胤が二十九歳で死亡により六歲にして家督を相続。

 北朝:貞治六年(1362)三月廿九日、中殿の法會あり。義詮卿參內の時、滿胤亦行列の中に載せらると雖も、幼年の故を以て、粟飯原弾正左衛門尉詮胤をして之に代らしむ。
注 義詮は尊氏の嫡男で室町幕府二代将軍で、尊氏の法要でしょう。滿胤はまだ八歳なので代理が参加でしょう。粟飯原弾正左衛門尉詮胤の実名は粟飯原詮胤で千葉氏の一族で後見人とされてます。太平記にはこの法要のことはでてきません。因みに尊氏の死亡は1358年四月三十日です。

南北朝の終わりを1392年とすればこの時代を三十二年生きたことになります。死亡は六十七歳なのでそれ以後三十五年です。しかし、滿胤は南北朝の動乱とは関係なく関東での争いをします。原因は香取社に関わるようです。これは、「千葉氏と室町時代」で考察したいと思います。

見解


 南北朝時代は明治時代にタブー視されあまり取り上げらません。しかし、編集者には代0時戦国時代とも言えるのではないかと考えてます。仲間内が敵対したりで興味深いです。京を取ったり、取られたりまさに動乱の時代です。
 千葉氏に関して貞胤が際だってます。氏胤、滿胤は子供時代に当主になったのでこれと言ったことはありません。