臼井城址 千葉氏関連の城址 2019.6

 「臼井城址」そのものは数十年前から名前だけは知ってました。どうやら千葉氏と関連があるらしいので見に行くことにしました。
 花見川区の自宅から、花見川、新川、印旛沼、北印旛沼、利根川まで片道約45kmの自転車道があり年数回サイクリングしてます。往復約7時間かかります。帰りに寄り道をしてきました。
 千葉氏は「本佐倉城址」が有名ですがこちらも中々の物です。
場所は「千葉県佐倉市臼井字城之内」となってます。京成臼井駅から徒歩で12分となってます。

スーパマップル・デジタルの地図から加工

まず、例によってウィキペディアから。

概要[編集]
永久2年(1114年)、平常兼の子の常康が臼井に居を築き臼井六郎を称したと伝えられるが、その居館がこの臼井城であったかどうかは定かではなく、臼井氏の中興の祖といわれる臼井興胤の代(14世紀中頃)に城としての基礎が置かれたといわれている。

中略

年表[編集]
12世紀中頃、臼井常康が築いたと伝わるが定かではない。
14世紀中頃、本格的城郭として整備される。
1479年文明11年)、太田道灌の率いる上杉方に攻められ、七ヶ月に及ぶ篭城の後落城。
1557年弘治3年)、臼井久胤の後見として原胤貞が入り、原氏の支配下となる(1551年天文19年12月(旧暦))とする説もある)。
1561年永禄9年)、上杉謙信に呼応した里見側の正木信茂に攻められ落城。
1564年永禄7年)、原胤貞が奪還。
1566年永禄9年)、臼井城の戦いで上杉・里見勢に攻められるが、これを退ける。
1574年天正2年)、生実城が里見氏の手に落ちたため、原氏の本拠となる。
1590年天正18年)、小田原征伐により原氏が滅び、豊臣側に接収され、後に酒井家次が封じられた。
1604年慶長9年)、酒井家次の高崎移封に伴い廃城となった。
1994年平成6年)2月16日、城跡が佐倉市指定文化財史跡)となる。

中略

外部リンク[編集]
房総の城郭 – 戦国関東 古城址の旅 – 千葉県 – 臼井城ウェイバックマシン(2010年9月6日アーカイブ分)
埋もれた古城 – 関東地方の城 – 千葉県 – 臼井城
古城の丘にたちて – 下総地方の城 – 臼井城
臼井城址公園(佐倉市)
臼井の歴史

臼井城

 臼井城の歴史は「外部リンク」の古城の丘にたちて – 下総地方の城 – 臼井城が詳しいので一部引用します。編集者もかなりの写真を撮りましたが、リンク先の写真と重複しますので掲載は省略します。

臼井城の築城時期は明確ではないが、千葉常胤の祖父である下総権介平(大椎)常兼の三男で、常胤からは叔父にあたる臼井六郎常康が永久2年(1114)に臼井を領して居を構えたのに始まり、本格的には臼井氏中興の祖と言われる臼井興胤が暦応元年(1338)に城郭として整備したという。康生元年(1455)に千葉宗家の千葉胤直が、馬加康胤に与した原胤房によって攻められて自決し、康胤ら馬加氏系千葉氏が宗家の座について以降、千葉氏の本拠地は千葉城から本佐倉城に移ったが、臼井城は本佐倉城の西にあって、その支城の役割も担っていた。

中略

臼井城は、徳川譜代の酒井家次が三万石で入封するが、文禄2年(1593)に城内より出火し、焼失した。そのまま、再建されることなく、酒井家次の移封に伴って、慶長9年(1604)に廃城となる。

古城の丘にたちて – 下総地方の城 – 臼井城

 千葉市開府900年としてるのは大治元年(1126)に土気(とけ)の大椎(おおじい)から大椎常重が現在の千葉市に移住したことを根拠にしてます。千葉市開府より12年前になります。
 この辺を整理すると系図は下記になるでしょう。
大椎介(平)常兼ー千葉介(平)常重(長男)(現千葉市に移住)ー千葉介(千葉)常胤
       |ー臼井六郎常康(三男)(臼井に移住)

注 大椎介、千葉は地方役人の階級みたいなものでしょう。現代的には「千葉市長XX」姓は省略。

 本来は「臼井六郎常康」は「平常康」でしょうが、地名の「臼井」は良しとしても「六郎」はどこから?ウィキペディアにあるようにこの時期はよくわからない。また、引用文献の記載
もないのでさらに調べようがありません。ひょっとしたら「千学集抜粋」ですかね。
 後半の千葉氏の本拠地が「本佐倉城」に移ったのはその通りですが、「1455」年に宗家が
滅んだだかは再考の必要があります。「千葉開府900年」で何をするの 2019.3 
 戦国時代は臼井城と本佐倉城の千葉氏は小田原の北条氏と同盟関係にあり、上杉氏と里見氏
の侵攻に対抗したようです。最終的には秀吉の小田原城攻め時に別動隊によって下総の千葉氏
は滅亡します。

小田原の役(歴史群像 石垣山城2011年4月)

 本佐倉城は1590.5.18に一日で落城(実際は戦わずに白旗)、臼井城は不明でが本佐倉城前に落城です。いずれも本隊は城主と共に小田原城に居たでしょうから、留守部隊での防戦はたかがしれてます。
 八王子城址にも行ったことがあります。山城で強固でしたが、やはり留守部隊での防戦では無理でこれも1日で落城してます。

 前述のウィキペディアによると臼井城での戦いは4回あったことになります。
 1回目 1479年文明11年)、太田道灌の率いる上杉方に攻められ、七ヶ月に及ぶ籠城
     後落城。
 2回目 1561年永禄9年)、上杉謙信に呼応した里見側の正木信茂に攻められ落城。
 3回目 1566年永禄9年)、臼井城の戦いで上杉・里見勢に攻められるが、これを退ける。
 4回目 1590年天正18年)、小田原征伐により原氏が滅び、豊臣側に接収され、後に酒井
    家次
 4回目はしょうが無い(?)としても、1,2回目は落城後「奪還」とは凄い。通常は滅亡ですが、上杉(越後)里見(上総)は遠くて維持は難しでしょう。
 臼井城址公園の佐倉市の説明看板では1,3回目を大きな戦いとしています。
 それはほど強固な城で有ったのか考えてみます。2つ有ったと考えられてます。
 1.臼井城単独でなく、周辺に砦や支城があった。
 2.地形的に天然の要塞であった。

臼井城の惣構(佐倉市臼井田ほか)砦や支城の解説があります。。

 現在の地図を見ると住宅街にあると言って良いくらいです。台地にはなってはいます。
 本丸付近の標高は25m、近くの印旛沼干拓地5m(GPS地図GARMINより)位です。山城を攻めると言った感じではありません。

 下総(千葉県北部、茨城県南部)の北部は印旛浦(印旛沼の歴史)と言われてた内海です。現在のように孤立した状態の沼地になったのは江戸時代になってからです。臼井城も印旛浦湖岸にあったとすべきと編集者は考えてます。それはさておき、戦後、印旛沼周辺は干拓され印旛沼は縮小しました。現代の地図を詳細にみるとどう干拓されたかは容易に想像できます。
 本ページの最初に掲げた地図の印旛沼方向、新川方向は臼井城にせまる印旛浦湖岸です。城
の半分位は防御の手抜き(?)ができ「背水の陣」です。湖岸は湿地帯でしょう。
 さらに踏み込んだのはOZ城-日本の城-臼井城に当時をイメージしたイラストがあります。現在の印旛沼、新川周辺を拡張したと思われる水面(薄水色)があります。砦等の配置もあります。これを落とすなるとウーンです。対岸から船でと考えてもそこにはしっかり城を築いてます。

参考・図表等引用させて頂いたサイトには感謝もうしあげます。