本佐倉城址 千葉氏関連の城址 2019.9

かって(2017.3)本佐倉城址に行ってますのでそのときの資料も参考にして紹介します。
千葉市郷土博物館のホームページには本佐倉城址に関しては何も書かれていません。

千葉氏拠点の推移

本佐倉城址は戦国時代に表舞台になったこともあり比較的分かってます。

「千葉開府900年」の900年起点の千葉城さえ現在ではほぼ否定されてます。
大友城址大椎城址は千葉氏関連とされますが、900年以上前で、その信頼性はほぼないと言って良いでしょう。
発掘調査の結果、戦国時代の城址と分かっても誰が築城し、その目的さえ分からないのは珍しいことではありません。

本佐倉城址は地元の人々が熱心にホームページ等で広報してます。城址には説明板も沢山あります。

本家(宗家)と分家の争いで宗家が滅亡し、分家が宗家を継いで拠点を本佐倉(当時は佐倉)に拠点を移したとされてます。

この辺の事情は複雑です。編集者が収集した複数の千葉氏略系図にも違いがあり興味深いです。

本ページで参考にしたのは下記です。

・先に紹介した地元の方のHP
・歴史群像2004年6月号
・ウィキペディア「本佐倉城址」
・ウィキペディア「馬加氏」
 (少し間違いがあります)
・あなたの知らない千葉県の歴史
 山本博文 監修 洋泉社
・上総 下総 千葉一族 
 丸井敬司 新人物往来者
・図説房総の城郭 千葉城郭研究会編
 株式会社 国書刊行会 2002
・千葉氏探訪 千葉日報

左の系図は「あなたの知らない千葉県の歴史」より

分家のだれが本家を滅亡させたのが興味あったので調べてみました。まず年代は享徳4年(1455年)「千葉開府900年」の起点(常重)・大治元年(1126年)から329年後です。千葉城付近に300余年いたことになります。それでも場所は特定できない。分家は馬加(現幕張)康胤です。本家は康胤の兄(長男)千葉兼胤の子供胤直と、その子供胤将を多古で滅亡させた。すなわち叔父に親子もろとも死に追いやられたことになります

注 本家と分家の争いがいつ起きたのかはで良く分かりません。
享徳4年(1455年)「上総 下総 千葉一族」
享徳4年(1455年)千葉氏探訪 千葉日報
享徳3年(1455年)ウィキペディア「馬加氏」 享徳3年は1454年
宝徳年間(1449~52年)千葉氏は内証を起こし、宗家(千葉介家)が一旦滅亡 歴史群像2004年6月号
千葉一族は宝徳年間に関東の領主と争っていたようです。
千葉氏の歴史に関してはこの人として丸井敬司氏の説を採用しました。
(注 「千葉傳考記」では享徳4年(1455年)になります。2020.7.30追記)

以下は主に「歴史群像2004年6月号」参考にして紹介します。
馬加康胤の子、馬加胤持次いで胤持の諸兄岩橋輔胤が千葉介を継承する。(後期千葉氏)
本佐倉城は、この輔胤が文明年間、遅くても文明16年(1484年)までに築いた城である。

編集者注 分家本家の争いが1455年ですから本佐倉に移ったのは意外に遅い感じがします。

本佐倉城に移住したのは、享徳の乱の結果、関東は江戸湾の西は関東管領上杉氏に東は古河公方足利成氏に二分され千葉氏は古河側に付きます。本佐倉の地は内海の一部であった印旛浦に面し利根川に通じ、川の水系で古河と通じました。すなわち千葉氏としては鎌倉と海と通じる意味はなく川を利用することで古河と通じたとされます。

その後、房総半島の突端の安房の里見氏の北進、古河氏の分裂、配下であった臼井の原氏・東金の酒井氏が独立志向、さらに千葉氏身内での暗殺が起きます。そこで名門である千葉氏は格下(?)の新興勢力である後北条氏(小田原)と同盟関係になります。
後は、秀吉の小田原攻めで、千葉氏の下総本家は滅亡します。このとき千葉氏は小田原城にいました。本佐倉城には留守部隊だけで、秀吉の別動隊によって下総の千葉氏は1590.5.18日滅亡します。戦わず白旗らしい。

城郭の軍事面から考察は「歴史群像2004年6月号」にあります、さすが専門家(樋口隆晴氏)です。またこの分野の第一者の香川源太郎氏の推定復元の「本佐倉城俯瞰図」があります。素晴らし図ですが著者権もあるので掲載は控えます。

縄張り図は酒々井町・佐倉市のホームページから引用させて頂きました。

本佐倉城址縄張り図

「歴史群像2004年6月号」では図面の印旛沼方向は湿地帯で船が出入りでき、この方向からの防御は楽としてます。(背水の陣)
通常城址は本丸位で、あっても二の丸です。遺構が全体として残っていたので「国史跡」になったようです。セッテイ山の通路は閉鎖されていました。

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