編集者

1.「千葉氏」と編集者

編集者の出身地は岩手県一関市です。一関市には「千葉」の姓が結構います。1963年高校を卒業し千葉県習志野市に住むとき「千葉県」の「千葉」と何か関係あるのか位には思いました。当時は歴史に関心あるわけではなく、暗記物の「歴史」の授業は嫌いでしたのでそのままでした。

その後、船橋市、神奈川県(5年)習志野市と住まいを変え1985年に千葉市に移り現在に至ります。
千葉市が「千葉氏サミット」(2016年)を開催し一関市からも参加していたので、そうゆうことかと知りました。
鎌倉幕府創設に尽力し、東北から九州まで各地に領地を与えられてその一つが現在の一関市にあった「川崎村」です。源頼朝により平泉・藤原氏は滅亡し千葉氏一族が「薄衣館」として城を築きます。
後に分家が「松川内館」としてこれも現在の一関市の「東山町」に城を築きます。

一関の城館」から「薄衣館」と「松川内館」の部分を引用さて頂きました。ありがとうございます。

「一関の城館」のホームページは閉鎖されてます。閉鎖される前にダウンロードして置いた解説と編集者が現地を訪れて撮影した写真の一部を紹介します。

薄衣館

薄衣館は千葉秦胤の四男・胤堅が建長4年(1252)に奥州押領使として下向し薄衣荘に居城を築いたことにはじまります。子の宗堅には子がなく葛西清見の第二子を養子に迎えます。南北朝期には4代清村が北畠顕家に従い各地を転戦しました
戦国期には葛西氏の重臣として威勢をふるっていましたが豊臣秀吉の奥州仕置で主家とともに没落します。その際に葛西氏は豊臣秀吉の派遣した軍と合戦になり薄衣当主の甲斐守胤勝は一軍の大将として栗原郡に出陣し蒲生氏郷軍と戦い敗れ佐沼城を経て薄衣館へ敗走します。
城は豊臣勢に囲まれ胤勝は城兵の命と引き換えに北上川の中川原で切腹し、城も落城したと伝わります。

一関の城館

葛西氏は源頼朝に奥州総奉行に任じられ千葉氏はその配下でした。千葉氏は現一関市を約350年支配していたことになります。落城後は伊達氏の領地になりました。一関市の千葉さんのルーツは現千葉市で鎌倉時代です。

千葉秦胤が始めて千葉氏を名乗った常重の何代目かは手元の資料では不明です。分かったら紹介します。(多分孫?)

松川内館

松川内館は葛西氏の家臣で関東から移住した千葉氏の一族、薄衣氏三代目・清純の四男正村が興国4年(1343)に松川に領地を得て築いたといわれます。以後、松川を姓として十代250年にわたり内館を拠点とします。葛西氏に従い数々の合戦において先陣を努め武勲をあらわす武門の家柄でしたが天正18年(1590)に主家滅亡後は松川で帰農しました。

一関の城館
松川内館の説明

松川内館には縄張り図がありませんでした。岩手県一関市(松川内館)から引用させていただきました。ありがとうございます。

一関市

一関市地図

一関市に住んでた時は北上川から左側が一関と認識してました。市町村合併で一関市になったのでしょう。左側は北上盆地で右側は北上高地です。
北上高地を逆U字形に走ってるのは大船度線で、山汽車と呼ばれ二重連の蒸気機関車で牽引してました。(古いね!)こうしたところに千葉氏が領地を得たことになります。
尚、真っ直ぐにすれば良いものを逆U字形になったのは政治家の圧力で、有名な話しです。「我田引鉄」と言われて時代です。

平泉は自転車、バス、列車でも行くことが出来たので度々いってました。源義経のゆかりの地でもあります。源義経には思い入れもあります。
平泉には歴史書やガイドブックに絶対出ない面白い話もありますので別の機会に書きます。

今は一関市には家もなく、縁者もいません。東北の山に行く機会があったら寄ってみたい。

2.一関藩(田村氏)

一関藩になった時は千葉氏は滅亡してましたが、その後のことを左の書籍から興味深い点を紹介します。

一関藩田村氏3万石は、仙台藩伊達市62万石の領内の領地を分けて分家された外様支藩であった。
分家されたのはいわゆる「伊達騒動」を契機としている。

編集者注 
支藩(一関藩)と本藩(仙台藩)は幕府と仙台藩の関係に似てるようです。支藩は大大名では全国的にあります。
支藩は江戸への参勤交代の義務がありました。
一関市の街に住んでる時は、一関市は一関藩の城下町との認識はありましたが、一方仙台藩の領内とも言われてましたので良く分かりませんでした。

田村氏は「坂上田村麻呂」の末裔。

編集者注「坂上田村麻呂」は初代「征夷大将軍」と学校で習いましたが、どうもそうでもないらしい。

忠臣蔵で有名「浅野内匠頭」が切腹したのが一関藩の江戸藩邸です。一関藩がどうして預かりなのか、大名が庭で切腹なのか等が克明に書かれてます。

余談
この本には有名な辞世の句

「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」

は出てきません。映画等では辞世の句をサラサラ書いてから切腹する場面もあります。
第一、大変をことをしたと、頭がパニック状態でのんびり(?)辞世の句などつくれる分けないでしょう。
約6時間後に切腹です。
この手の辞世の句は後日、縁者が創作するものです。
読んだ本は覚えてませんが後日、浅野家ゆかりの寺の和尚さんが考案し、浅野家の了承を得て発表したと
なってました。和尚さんの名前も特定できていたはずです。
変な「通説」が多いのでご注意を。「関ヶ原」は通説の固まりです。

農民が貧困で逃げ出さないようように現代的には「生活保護」制度があった。但し、村人の連帯責任で返せとなっていた。

百姓一揆が複数の村で発生した。百姓側の要求は通ることも多いが処分も過酷。
「役人は百姓の苦痛を知らぬので、3年間借りて仕事を体験させたい」

欄医学に長けてていた。「一関に過ぎたるもの」と言われていた。

和算は数学ワールドで殿様から百姓の子供までやっていた。算学(絵馬)の数は市町村で第1位。
これに貢献したのが「一関藩士 千葉雄七胤秀」
千葉雄七胤秀は安永4年(1775)年百姓の子として生まれた。

編集者注 「胤」が付くので「千葉氏」の正統派の子孫? これが一関市に「千葉」姓が多い一つの理由?

3.編集者

宇留賀 英夫
   千葉市花見川区 75才 
   趣味 
      登山     日本100名山完登 日本200名山(約75座)
      旧五街道完歩 合計約1,500Km(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)
      熊野古道   合計約700Km (これで一応終了)
      東金御成街道 約40Km 完歩 (船橋ー東金間)
      古典音楽鑑賞
      戦史・歴史探訪
   特技 悪文の粗製乱造
   重度の活字依存症

   こちらのサイトも運用してます。
   千葉市長の「バクチ場」から市民の生命・財産を守れ!