千葉氏と北条執権政権

源頼朝そして千葉常胤が死亡し、北条氏が鎌倉幕府の実権を握るための武力闘争をします。千葉常胤が亡き後、千葉氏後継者はどう生きの残ったのか。

建仁元年(1201)三月二十四日(吾妻鏡)
千葉介常胤 没する(84歳)

常胤が高齢者であったこともあり、子の胤政、孫の成胤は常胤に同行し数々の活躍をしました。

常胤が死亡後、千葉氏一族の動向を鎌倉幕府滅亡(1333年)までを追ってみます。

千葉氏本家(下総)

千葉介胤正

常胤(8代)ー胤正(9代)

しかし、胤正は常胤の死後2年後に死亡します。死亡年は文献により異なります。吾妻鏡には出てきません。

建仁二年(1202)七月七日 松蘿館本千葉系圖
死去 61才

建仁三年 (1203) 七月二十日 千葉体系図
胤正死去。年63才。

千葉傳考記  
建仁三年 (1203) 六月、胤正病に臥す。將軍賴家卿使を以て疾病を問はしめ給ふ。同七月二十日、胤正死去。年63才。
注 千葉傳考記 では胤政と記してますが、ここでは胤正とします。

                時代背景
将軍二代目 源頼家(源頼朝 長男)
在職  建仁二年 (1202)七月二十二日~ 建仁三(1203)年九月七日 1年 2ケ月 (将軍追放)
追放された後、翌年の元久元年(1204)七月十八日 伊豆国修禅寺で暗殺されます。
このことは源頼家に詳しいですが、もの凄い権力闘争です。

この頃千葉氏がどうしていたかは不明です。

千葉介成胤

常胤(8代)ー胤正(9代)ー成胤 (10代)

胤正の死後、成胤は建保六年(1218)四月十日死去します。64才。
千葉氏の当主を15年間務めたことになります。

松蘿館本千葉系圖 建保六年(1218)四月十日  死去 57才
千葉体系図     建保六年(1218)四月十七日 死去 67才

承元三年(1209)十二月、成胤下總の守護職に補せらるゝ事先規の如し。
建暦三年(1213)二月、安念法印といふ者、港に廻文を携へて諸國の武士に觸れ催し、甘縄の家に向ふ。成胤之を捕へて北條家に告達す。
これ泉小次郎親衛が謀計にて、和田義盛の一類を勧誘し、賴家卿の御子千壽君を翼戴して、北條の氏族を討滅せんと欲するの使僧なり。
是に由って、同四月廿九日、成胤一族軍兵を率して總州を發す。同五月三日鎌倉に到る。直ちに幕府に參候し、然る後、義盛等の一類を討って軍功あり。
建保六年(1218)戊寅四月七日、成胤疾甚だ急なり。是に於て、將軍實朝卿、慰問使を賜はる。其の旨頗る慇懃なり。然れども、醫療驗なくして同十日卒す。年六十四。

千葉傳考記

建暦三年(1213)二月、安念法印・・・」の件は吾妻鏡にも成胤の名前がでています。「 甘縄の家 」とは鎌倉にある千葉氏の屋敷のようです。

時代背景

将軍三代目 源実朝(源頼朝 次男)12才
在職  建仁三年(1203)九月七日~ 健保七年(1219)1月二十七日 15年 4ケ月  暗殺
暗殺者は二代将軍源頼家の三男公暁で叔父殺しになります。 公暁は殺害されます。

源頼朝の子はすべて死亡していて、源実朝には子供がいませんでした。 源頼には四人の男子がいましたが、最後の一人も承久2年(2021)北条時政の配下に殺され源家は断絶です。
朝廷は北条家は征夷大将軍にはなれないとしたため、京都から 征夷大将軍としてそのつど迎かえます。 征夷大将軍は鎌倉幕府の存在のためにはたいした意味をもちませんでした。鎌倉将軍一覧

源実朝には子供がいませんでした。 これに幾つかの考え方があるようです。
西俣総氏は「歴史群像170号 鎌倉軍事の誕生」で以下のように記しています(要約)。

 「実朝は自分が傀儡将軍である事を知る。武家から室(妻)を迎えると権力闘争の火種になるので公家の娘を室とした。それでも、自分の子供はいずれ殺害される。それで子をなすことを拒絶した。せめてとして、父頼朝を超える官位を獲得した。」

千葉介胤綱

常胤(8代)ー胤正(9代)ー成胤(10代)ー 胤綱 (11代)

千葉傳考記 によれば、胤綱十一歲にて家督を継ぎますが、鎌倉幕府三代将軍源実朝の命により東胤行を補佐役を置き、宗家一族も補佐したとあります。
 さらに、承久の乱では東海道軍に将として参加します。

承久三年(1221)五月二十五日 (吾妻鏡)
東海道の大将軍の一人として千葉介胤綱の名前があります。
注  承久の乱では幕府軍は東海道、東山道(中山道)、北陸道の3手に分かれて京に進軍します。

安貞二年五月十八日死亡。二十一才
松蘿館本千葉系圖  安貞二年(1228) 五月二十八日死亡。 二十一才

時代背景

 源家は断絶したので京から将軍を迎えます。しかし、迎えたのは頼朝の遠縁の九条道家の三男、
三寅(頼経)二才摂家将軍

 鎌倉では頼朝の妻北条政子と北条義時(政子の弟)で牛耳っていた。 北条政子は尼将軍として
鎌倉殿(最高権力者)であった。

千葉介時胤

常胤(8代)ー胤正(9代)ー成胤(10代)ー胤綱(11代) ー時胤 (12代)

千葉傳考記 よれば 胤綱(11代)は21才で死亡、 胤綱には子供がなかったので、 胤綱の弟時胤が当主になります。時に十一歲。
 天福九年八月、將軍頼経御教書を賜はりて、時胤の成長するまで氏族輩一致之を輔佐し、以て公事等を勤むべき旨を詠さる。
注 天福は二年しかない

暦仁元年(1238)正月、将軍賴経上洛の時、時胤之に属從す。

嘉禎四年(1238)二月二十八日(吾妻鏡)
京都での護衛として「千葉八郎胤時」の名前がありますがさて?
注 嘉禎4年11月23日(ユリウス暦1238年12月30日) 暦仁に改元

仁治二年(1240)九月十七日死亡。二十四歲。

千葉介賴胤

常胤(8代)ー胤正(9代)ー成胤(10代)ー胤綱(11代)ー 時胤 (12代) 賴胤 (13代)

千葉傳考記 によれば三才にして家督を相続し、一族等輔佐して領国を治めた。

宝治元年(1247)六月、上総権介秀胤、三浦泰村が叛逆に與するに依て、將軍(藤原)頼経卿より秀胤を追討すべきの命あり。時に賴胤幼年(9才)なるが故、大須賀左衛門尉胤氏・東中務入道素をして代つて之を討たしむ。同七日、兩將秀胤が居城上總國一の宮・大柳に向つて急馳し、之を攻む。
注 引用に当たって一部追記してます。

千葉傳考記

これは所謂「宝治合戦」です。 宝治合戦は北条氏と三浦氏との権力闘争ですが、千葉氏本家と分家 (上総権介秀胤) の争いでもあります。

宝治元年(1247)六月六日 (吾妻鏡)
上総権介秀胤を討つようにと記述はあります。
宝治元年(1247)六月七日 (吾妻鏡)
上総権介秀胤は討たれます。戦闘の詳細も記述されてます。
上総権介秀胤一族は自害します。
建長5年(1253)8月15日 (吾妻鏡)
鶴岡八幡宮の放生会(例大祭?)で、後塵の一人として千葉介頼胤の名があります。

建治元年(1275)八月十六死亡。三十七才。

注1 吾妻鏡は文永三年(1266)七月二十日で終わりです。
注2 元寇は賴胤が亡くなる1年前(1274)です。亡くなる原因は元寇の戦いの傷と複数の文献にありま    ますが一次資料は不明です。一例、千葉頼胤
注3 元寇で千葉氏一族がどう関わったか今は不明です。(2021.12.18) 分かったら紹介します。

 上総(房総半島の上半分)は、頼朝が石橋山の戦いで敗れ房総に逃れて来た時は 上総(平)広常が治めていました。頼朝に加担して鎌倉幕府樹立に貢献しました。

寿永二年(1183)十二月広常が謀反の疑いで誅殺(=暗殺)されます。

上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏などに分配されます。千葉氏に分配分は胤正の子で常秀(上総介常秀 =千葉常秀)が所領とします。

常胤(8代)ー胤正(9代)┏ 成胤(10代)ー胤綱(11代)ー 時胤 (12代) 賴胤 (13代)
             |                      |
             ┗ 常秀ー秀胤 <--------------┛
                       攻撃(実行は賴胤の輔佐 ) 
千葉秀胤(上総)の所領は千葉氏(下総)が所領とします。

「宝治合戦 」前の千葉秀胤は千葉氏一族を代表するかたちで鎌倉幕府の中枢にいました。

注 三浦氏も滅亡で、頼朝が房総に上陸し鎌倉幕府樹立に貢献した、千葉氏・三浦氏・上総(平)で生き残ったのは千葉氏だけになりました。

千葉介胤宗

八才にして家督を相続。
十三才の時、弘安三年(1280) 四月十二日、香取の社を造替すべきの宣旨があり十四の歳月で完成。

千葉傳考記 では北條時国の悪行(野心)で鎌倉の執権貞時は、胤宗に命じて時国を常州(=常陸国)に流したとあります。しかし、この時期が正応七年とありますが、 正応は六年までしかなくよく分かりません。

正和元年(1312)三月二八日死亡。四十五才。

千葉介貞胤

鎌倉幕府滅亡の混乱時期に千葉氏はどう生き残ったか?

元弘二年(1332)三月七日後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を目指した元弘の乱で破れた醍醐天皇を隱岐国に流すとき貞胤軍は警護した。

元弘二年 (1332)九月二十日、官軍が再挙兵の報あり。此の時、北条高時の命に応じ、貞胤軍兵を率て上洛する。

元弘三年(1333)、新田義貞の鎌倉を攻むろや、貞胤官軍に屬して假粧坂に向ひ、敵將金澤武藏守貞將の強兵を打破り、諸軍にさして鎌倉に乘り込み、所々に放火す。

千葉傳考記

上記引用は「千葉介貞胤 」の鎌倉時代の分です。「南北時代」は別途検証します。

「新田義貞の鎌倉攻め」は 「元弘の乱」の最終章で鎌倉幕府が滅亡します。 千葉介貞胤をがどう関わたかを知るのは難しですが下記から 「千葉介貞胤」の部分を中心に紹介します。

歴史群像50号(2001.12) 「鎌倉滅亡! 死闘分倍河原」鎌倉御家人を二分した大合戦  河合 敦

新田義貞 挙兵の情報が鎌倉に入ると、京都に差し向ける北条泰家軍10万が鎌倉に集結してたのでこれを2手に分け上総・下総の御家人(注 下総の御家人には千葉貞胤がいたと考えられます)5万を金沢貞将が率鎌倉鎌倉街道下道を進軍した。もう一隊は桜田貞国が率いて鎌倉街道上道を進軍した。
桜田貞国は分倍河原で二度の死闘の末に敗れ鎌倉に逃げ帰った。敗れた原因は幕府軍武士達の寝返り。
金沢貞将は武蔵鶴見(横浜市鶴見区)で小山秀朝と千葉貞胤に敗れこれも鎌倉に逃げ帰った。
注 つまり千葉貞胤は寝返った事になります。
追撃する新田義貞は鎌倉の切り通しを突破できず、苦戦するが、最終的に海岸の稲村が崎から突破し鎌倉幕府は滅亡。 

寝返った原因は 元弘の乱 の一つである六波羅攻略の情報た伝わったせいではないかとしてます。

注 六波羅攻略は元弘の乱で倒幕を図った後醍醐天皇を追討しようと鎌倉幕府が中国路に送った足利高氏が反逆し、なんと京都にある鎌倉幕府の軍事拠点「六波羅探題」を攻撃し、幕府側は滅ぼされます(数100人が自害)。 六波羅攻略はこちらが詳しいです。千葉貞胤が寝返った悪者ではなくこうした背景あれば当たり前です。結果的に千葉氏は戦国時代末期まで存続できました。

千葉傳考記では「新田義貞の鎌倉を攻むろや、貞胤官軍に屬して假粧坂に向ひ、敵將金澤武藏守貞將の強兵を打破り、諸軍にさして鎌倉に乘り込み、所々に放火す。」とあります。
假粧坂で金沢貞将が待ち構えていたのは歴史群像の挿図にもあります。 ここを突破できたのなら稲村が崎からの攻略はあり得ないので、 千葉傳考記の記述は間違いでは?

見解

 鎌倉幕府樹立当初は頼朝の独裁時代です。木曽義仲や源義経のように出すぎた杭は打たれます。千葉常胤は筆頭御家人でしたが、頼朝には柔順で出過ぎず千葉氏の領地拡大に努めたと考えてます。
 頼朝の死後は独裁を継続させないように、「十三人の合議制」や「評定衆」制度をつくりますが、北条氏が台頭すると意味がなくなります。
 結局、北条氏は頼朝と同じ独裁になり政敵を滅ぼしていきます。

 こうした状況下で、常胤が死亡後は千葉氏(下総)の当主は、若く、短命なので、千葉氏一族を代表するのは上総の千葉秀胤になったのではないか。秀胤は滅ぼされます。結局、逆に北条氏が絡む権力闘争に巻き込まれなかったのではないでしょうか。

 鎌倉幕府滅亡の「新田義貞の鎌倉攻め 」の概要は知っていました。改めて千葉氏の部分を読むと
「常識的」対応したようです。

鎌倉幕府末期は、「元寇」等で御家人らは疲弊し、財政的に困っていたようです。この時期を見透かして醍醐天皇が倒幕を仕掛け「元弘の乱」を成功さたことには、歴史家は評価してるようです。

かくして、「武士による、武士のため」の鎌倉幕府は約150年で終了です。次は南北朝時代です。