寺崎城跡 ?

 遠出のサイクリンコースに「寺崎城跡」案内看板あります。かなり前から気にはなってました。この地は佐倉藩の領地なので、江戸時代の城跡ではないと考えてました。千葉氏かもしれない思い行くことにしました。

 調べてみると「寺崎城」そのものが実在したかは確認できませんでした。まず、現地で撮影した写真を紹介します。

 石碑の文字化です。現地で密蔵院の関係者と言ってる方はこの石碑の設置者は不明としてました。例えば地元の自治体が設置する場合は通常、教育委員会が行いないます。(薬師堂の説明参照参照)佐倉市の文化財指定は密蔵院薬師堂のみで寺崎城跡は文化財指定の遺跡に入ってません。

寺崎城
「千葉家實録」「千葉大系図」「総葉概録」「千葉伝考記」などの史料を総合し、寺崎城を考察
すれば、千葉氏第十四代満胤の嫡男兼胤が第十五代を継ぎ、その弟胤直が第十六代を継いだ。そ

の頃千葉氏に内紛がおこり、胤直は弟の馬加康胤及び同族原胤房に攻められ、千葉城をすてて志
摩城に逃れたが、二男胤宣は多胡城外で自刃し、胤直もまた自刃し、胤直の嫡子胤将は諸々に逃
れ、寺崎に城を築いて居城した。字新小路の神明社は胤将が千葉城の神明社を勧請したものであ
る。胤将の子則胤のとき、馬加康胤は千葉氏宗家の乗っ取りを企て寺崎城を攻撃し、則胤は武蔵
国に逃れた。それより、康胤は千葉氏の正統を名のり本佐倉に城を築き、千葉氏の本城とし、嫡
子胤持を寺崎城に置いたのち胤持も本佐倉城に移り、寺崎城は廃城となった。今となっては、寺
崎城の縄張を知る手掛かりはなにもないが、現在地名などから推察すると、縄張の核を字新小路
とした平山城へ、平坦部の先端基地として太田の砦を用い、上城堀・城堀の二つの隍により敵の
襲撃を阻止し、字御門前から郭内として屋形を薬師堂付近に置き、字新小路に土塁を築き、さら
に南六所神社から北六所神社の線を境として油小路・相馬小路・南小路・猫坂小路・下小路・北
込小路に各曲線を設け屋形を警備した。そして屋形の守護神として表鬼門(北東)に神明社、裏
鬼門(南西)に浅間社をそれぞれ勧請したものである。寺崎城の特長は、郎党が台上に住んでい
たと思われる。従って田圃での農作業は台上からおりなければならず、敵の襲撃を容易にさせる
危険がある。その危険を防ぐために屋形への道は迷路のように作られ、搦手は字舛ノ内から弁天
橋に下りたと思われる。舛ノ内とは、城門の中に四角に作られた空き地の舛形からとった地名で
ある。

城山にのぼりて見れば野の果てに まりつき歌
勝鬨あげる武士ら顕つ 一番始めは一の宮
平成十二年一月𠮷日 二ハ日光東照宮
                      三ハ佐倉の宗吾郎
                      四ハ信濃の善光寺
                      五つハ出雲の大社
                      六つハ村々鎮守様
                      七つハ成田の不動尊
                      八つハ八幡の八幡宮
                      九ノつ小湊誕生寺
                      十ハ東京泉岳寺

                                  表示責任者
                                  実川侑靖

「千葉家實録」「千葉大系図」「総葉概録」「千葉伝考記」などの史料を総合し、”となってます。
「千葉家實録」は編集者には不明です。似たものに「千葉實録」があります。とりあえず、「千葉實録」とあと3つに「寺崎城」が室町時代に出てくるか調べてみましたが見つかりませんでした。

次に石碑の系図を確認してみました。

満胤(一四代)┌ 兼胤(十五代) 満胤長男
      ├ 胤直(十六代)満胤次男多湖で自刃┌ 胤将胤直長男寺崎城築城 則胤胤将の子 馬加康胤及び同族原胤房に追われ武蔵へ   
      │            └ 胤宣胤直次男 多湖で自刃
      └ 馬加康胤満胤三男及び同族原胤房が寺崎城を攻撃
 ここで前述の通り寺崎城は確認できなく、胤将の子は「千葉大系図」は宣胤、康胤、輔胤で則胤は存在してません。

「松蘿館本千葉系図」では子供はいません。
「神代千葉系圖󠄀」にも名はありません。

千葉胤将に関しては不明な所があるようです、ネットで検索する数々でてきます。信頼出来そうなの
こちらです。
尚、「千葉則胤」で検索しても結局でてくるのこの石碑からの話のみです。

 石碑の後半部分は検証のしようがありません。設置者と思われる「実川侑靖」の考えでしょう。
千葉氏の本家、分家の内紛に関しては当サイトの「本佐倉城址 千葉氏関連の城址 2019.9」

「丸井敬司」氏の見解
「上総下総千葉一族」著者 丸井敬司 発行元 新人物往来社 2000年1月

 では以下のように書いています。159~161頁から抜粋してます。

馬加系千葉氏が、佐倉に移った時期はいつであろうか。諸説ある。
 一つは、千葉氏本宗を滅ぼし、その跡を継承したといわれる康胤の代で あり、他は、康胤の孫孝胤の代である。前者の史料には、「千葉大系図」や「千葉伝考記」などがある。
「千葉大系図」千葉(馬加)康胤の項には「正国政始移城於同国印旛郡佐倉……」と書かれてお り、「千葉伝考記」には「康胤は家督を継ぎて、始めて同国印旛郡佐倉城に移る」と書かれている。 また、後者の史料と同様な立場に立つ「妙見実録千集記」には、「輔胤すみたね平山を取たつ。 孝胤迄二代御座也。 夫より長崎へ移る。其の後佐倉へ移り給ふ」と書かれており、また、同じく「抜粋」には 「屋形様千葉より平山に御越し、又長崎へ移らせられ、それより佐倉へ移らせらる。文明十六年甲辰 六月三日佐倉の地を取らせらる。庚戌六月八日市の立て初め、同八月十二日御町の立初め也。二十四世孝胤の御代とぞ」と書かれている。

千葉城から本佐倉城に移るまでの下総千葉氏の居所は、資料が少なく明確ではない。しかし、「千葉伝考記」や「抜粋」に千葉城落城後、 千葉 市内の平山城や佐倉市内の長崎城 (所在地不明。 寺崎の誤りか)に移ったという記述があり、これらの 城を一時、居城としていた可能性はある。
平山城は、千葉城の東約七キロの丘陵地帯の中に位置しており、大軍の移動が困難であるため千葉城に比べて防御しやすい条件を兼ね備えている。 また、長崎は、佐倉市寺崎の誤りであるとすれば、 佐倉市の寺崎城である可能性は高い。 寺崎城は、「佐倉市史」によれば、鹿島川の東側台地に位置し、 台地の西側に主郭を持ち、一時的な陣城や宿舎的な性格を持った城郭といわれている。

上記の「佐倉」は本佐倉(酒々井町)のことです。
「抜粋」は「千学集抜粋」のことです。
「佐倉市史」の入手をこころみましたが困難でした。

分家が 千葉城->平山->長崎(寺崎)->本佐倉 と変遷したことになります。


石碑では本家(本宗)が 千葉城->寺崎城 に移り、分家が寺崎城を奪い一時住みその後本佐倉に移ったことになります。
石碑には出典が明確でなく理解が困難です。