千葉市の開府

本文は少し下にあります。

千葉大学共同開催公開市民講座「千葉氏とアイデンティティ」が2019.2.9ありました。
これで編集者が調べ切れなかったことがほぼ解決しました。
「千葉氏」をよりどころとした人々の(歴史)~「千葉町」から「千葉市」~
講師:久保優氏(千葉大学准教授)

「源平闘録諍禄」が語る千葉氏のアイデンティティ
講師:源健ー朗氏(四天王寺大学教授)

以下の文中で「資料」とあるのは当日配布された資料を意味します。
資料の原文は了解を得てないので公開は控えます。両講師に感謝申しあげます。

                     本サイトでは分かり易くするため下記の表現をします。
千葉市  : 現在の千葉市
千葉   : 地名としての千葉
千葉氏  : 豪族としての千葉氏 「氏」は発音するとき「市」と区別のため「うじ」

1. 始めに

「千葉開府900年」を3つに分解し「開府」「900年」「千葉」の順で考えてみます。

2.「幕府」は聞くけれど「開府」て何

まず、これからやらないと多くの方は何のことか分からないでしょう。
“開府” で検索するといくつかあります。

中国で、役所を設置して役人を配属すること。丞相・大司馬・御史大夫の三公に許され、のちには将軍にも許されるようになった制度。

デジタル大辞泉

例えば、千葉市が政令指定都市になって花見川区役所をつくりました。
この時点で 「花見川(区)開府」 と言えるでしょう。
日本国内で「開府」の使用開始は次のようです。

久保優氏:資料 「東京三百年記念際」明治22年(1889) 8月26日 
        (編集者注 リンク先では東京開府300年 最初の「開府」と言われてます)
        「名古屋開府三百年際」明治43年(1910)
(リンク先は編集者が付加)

3.「千葉開府900年」の900年の千葉市の根拠

900年とは1126年を起点としてます。即ち2026年で900年ですのでそれに向けて盛り上げて行こう
とするものです。しかし、900年を900年と考えると2027年となります。例えば1127年で1年目で
す。年齢を満年齢か数え年齢にするかですね。開府は数えですることになっている?

千葉市が根拠としてるのは文献「千学集抜粋(せんがくしゅうばっすい)」です。千葉市は「千学集抜粋」から千葉氏の部分を引用して説明ホームページで解説してます。

(「千学集抜粋」=「千学集抄」ですが本サイトは「千学集抜粋」にします。原本すべてが残ってないので”抜粋”が付きます)。

このサイト開設にあたりホームページ(HP)を開いたら、ところがどっこいこのHPは削除されていました。このHPは「千葉開府900年」の根拠となる肝心要(本丸)のものです。どうして削除されたかの見当はつきます。このサイトの目的 ”「千葉開府900年」でいいのかな” に自信を持ちました。

しかし抜粋は残ってましたので紹介します。抜粋で用は足ります。”千学集抜粋”をGoogleで検索すると下記が見つかります。

2019.2.5現在です。日が経つと表示されなくなります。

抜粋部分をコピペしたのが下記です。

大治元年丙午六月朔(ついたち)、初めて千葉を立つ、凡そ一萬六千軒也。表八千軒、裏八千 … これは、千葉氏の城下町であった「千葉」の事情を表した戦国時代の史料「千学集抜粋(せんがくしゅうばっすい)」の記載です。 千葉市では、6月1 …

赤字が「千学集抜粋」そのものです。黄色は千葉市の解説です。「6月1・・・」は「6月1日」を開府の日にしたとの記述です。

そもそも「千学集抜粋」が何ものかを検証する必要があります。これには問題が指摘されてます。お馴染み の『ウィキペディア(Wikipedia)』では下記のようなってます。

千学集抄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千学集抄(せんがくしゅうしょう)は、千葉妙見宮(現在の千葉神社)及び同寺を崇敬する千葉氏及びその妙見信仰について書かれた千学抄(せんがくしょう)の抄本。千学集抜粋(せんがくしゅうばっすい)とも。
千学集は元々中世期に編纂された記録で千葉妙見宮の宝庫に保管されていたが、度々の火災などの災害で多くが失われ、現在は写本の一部が抄本として残されているだけである現存のものも必ずしも正確なものとは言えない。それでも室町・戦国期の千葉氏の情勢を伝える数少ない史料である。
参考文献[編集]
樋口誠太郎「千学集抄」『千葉大百科事典』(千葉日報社、1982年)
関連項目[編集]
房総叢書-「千学集抄」が所収

『ウィキペディア(Wikipedia)』

「ウィキペディア」が正しいとは言えません。しかし、他を検索すると結局「ウィキペディア」を参考にしたと思われるものばかりです。参考文献でもう少し詳しく分かるかもしれません。しかし1982年発行となると入手は難しいかも知れません。千葉神社のHPをみても本件の記述はありません。「千学集抜粋」自体は国立公文書館にあって入手はできるようです。入手できても墨で「ニョロニョロ」書いてある文書は読めないので断念。

その後、入手できた「千学集抜粋」(13頁)の該当部分は下記です。2020.2.16

 大治元年丙午六月朔、初めて千葉を立つ。凡そ一萬六千軒也。表八千軒、裏八千野、小路表裏五百八十餘小路 也。曾場騰大明神より御達職稲荷の御前まで、七里の間御宿也。御場心より廣小路谷部田まで、國中の諸侍の 屋敷也。是には池內鏑木殿の堀の內あり。

千葉市のHPの抜粋に戻ります。
「大治元年丙午六月朔」の意味です。
大治(だいじ)元年丙午(干支)= 西歴1126年(ユリウス暦)
  丙午:当時元号は頻繁に改元されたので干支(60年周期)と併用された。?
六月朔 = 6月1日 6月1日は旧暦で新暦では6月23日

結局開府の起点 大治元年丙午六月朔 = 1126年6月23日 になります。
千葉市の起点  大治元年丙午六月朔 = 1126年6月1日  と決めた。

「千学集抜粋」が編纂された時期を考えます。
千葉市のHPには「戦国時代の史料」とありますが、「千学集抜粋」に書かれてる最も新しい年代以後がより詳しい編纂時期と考えられます。

源健ー朗氏:資料 天正13年(1584 史実は12年)の郁胤の死が最後出記事。

その後、入手できた「千学集抜粋」(16頁)の該当部分は下記です。2020.2.16

一、邦胤常琳と稱す。御捐館は年二十九、法諡法阿彌陀佛。實に天正十三[十二]年乙酉五月七日也。御子[御孫]二人、長女條氏康の御孫にて在し、次男新田に在します。御子細王殿三歲の時、邦胤御捐館也。

十三[十二]収録者が13年とあるが12年の間違いとしてます。

これから戦国時代後期でいいでしょう。
1584-1126=458で実に約460年以上前のことを書いた事になります。伝承で書くことは不可能です。何らかの参考資料が必要です。仮に460年が200,300年前であったとしても事情は同じです。いまさら、そんな参考資料はでてこないでしょう。現代ならインターネットで1126年ごろにあった歴史書を探さがすことは可能でしょう。もしあったとしても戦国時代にその文書が流通したとは思えません。

編集者の大胆な仮説(嗤ってください)
これは創作?エイヤと切れの良い年、月、日で決めたのが「大治元年 6月1日」 6月1日は年のちょうど真ん中です。新暦では7月1日が真ん中ですが、前述のように「旧暦6月1日=新暦6月23日」です。

いずれにしても「ウィキペディア」にあるように信頼には乏しい文献です。

編集者の質問:千学集抜粋の大治元年を裏付ける資料はありますか。
千学集抜粋をどう思ってますか。

源健ー朗氏の回答:資料はない。数々のことから信頼性には問題あると思っている。

久保優氏の回答 :私の持ってるもの(千学集抜粋)には「6月1日」の記述はない。
江戸期には「大治元年」は認識されていた。

(録音は禁じられていたので、記憶による要旨です。趣旨は同じでしょう)

源健ー朗氏:資料 
原本(『千学集抄』)は散失したが、江戸期に抜き書きされたものを、さらに明治期に写書
したものが資料編纂所・内閣文庫・金沢文庫に所蔵されている。

4.「千葉開府900年」の千葉とは何か

「千葉開府900年」の千葉は下記のどれでしょうか。

千葉市  : 現在の千葉市
千葉   : 地名としての千葉
千葉氏  : 豪族としての千葉氏 

同じ「千葉」だからどれでもいいじゃないかとする人もいるでしょうが少しこだわってみます。
前述した 「花見川(区)開府」の例で考えます。
初代の花見川区役所の区長が仮に「高橋」とすれば「高橋開府」になります。
二代目区長が「佐藤」とすれば「佐藤開府」となります。
これから「千葉氏」は除外されます。

「地名としての千葉」です。地名としての「千葉」は「万葉集」に出てくると言われてます。この「千葉」は現在の千葉県のどかをピンポイントで指すわけではありません。例えば「下総」は千葉県北部と茨城県南部を指す広域の名称です。

「千学集抜粋」にある1126年「初めて千葉を立つ」は「平(大椎)」姓を「大椎(現 千葉市緑区大椎町)」から「千葉荘(現 千葉市中央区及びその周辺)」に移住したのを契機に「千葉」姓に代えたことを意味します。要は支配地(領地)内の移住です。例えて言えば「千葉市役所」の引っ越しです。このときついでに、「千葉荘」が「千葉」になった分けではありません。「千葉荘」の解説ではその後 「千葉北荘」「千葉南荘」に分割されたとあります。

それでは地名としての千葉になったのはいつなのか今のところ編集者には分かりません。(2019.2.11)
少なくても江戸時代は千葉県の中心は佐倉です。千葉市は寒村であったと思います。明治期は海運を重視のため再び現在の千葉市に戻ったと考えられます。

後は「千葉市」です。「千葉市」になったのは大正10(1921)、前身の「千葉町」になったのは明治22年(1889)です。 これから「千葉市」の「千葉」とすれば2021年で「千葉開府100年」です。おまけして「千葉町」を起点とすれば2019年で今年は「千葉開府130年」です。
しかし 、だれからも文句がでないのは2021年で「千葉開府100年」ですが、これでは迫力がありませんね。
しかし、千葉市の意向はどうも、現在の千葉市に始めて都市が出来たのが1126年だとして「千葉開府900年」としてるようです。結局「千葉開府900年」の千葉は千葉市になります。
難癖を付ければ「千葉市」に都市(?)が出来たのは「千葉氏」が大椎に移住したときですが、その時期は分かる?
「下駄を履かせる」でなく「ハシゴを履かせる」です。

「千葉氏」と「千葉市」は同じ「千葉」でわかりずらいことではあります。

参考までに甲府では下記のようになってます。

甲府は、永正16(1519)年、武田信虎が躑躅が崎の地に館を移し、城下町の建設に着手したことに始まり、「甲斐の府中」を略して「甲府」と呼ばれるようになりました。そして2019年に、甲府は500歳の誕生日を迎えます。500年の節目を迎える甲府の歴史をご紹介します。

甲府開府500年

「躑躅が崎」から「甲府」と地名が代わったことをもって「甲府開府500年」としてます。
「武田開府500年」は用いてません。都市としての「甲府」は500年間現代まで続いています。明解です。

5. 雑感

自称歴史オタク(?)の編集者は、歴史に関する「通説」は本当?から始めます。例えば誰でも知って
る「関ヶ原」は近年歴史研究家が通説と全く違う「戦いの展開」を主張します。極端に言えば歴史研究家
が5人いれば5通りです。また鎌倉幕府成立は1192(イイクニ)でなく1185とする説が有名です。

「千葉開府890年」を目にしたとき何で900年前のことが下の桁までわかるのか不思議でした。さらに6月1日がでてくるとビックリマーク10枚です。結果的にこの直感は正しいと確信してます。

編集者は「千葉開府900年」行事に反対してる分けではありません。900年は信頼に問題があると明示すべきです。人によってはそんなことどうでもいいぜ盛り上がろう、そんなら参加しないは人それぞれです。問題は信じていたのに騙されたは最悪です。

そうとは言え、大雑把言えば千葉氏の内紛(1450年頃)で分家が本佐倉に移り、千葉町になった1889年の間約450年間は都市ではないといえます。実に900年の半分です。じゃ、「千葉開府900年」で何をやるのになります。900年継続してる建物とか文化財があればそこで行事をやるとか、継承してる民族風習(例 阿波踊り)とかがあるわけではありません。熊谷市長は「千葉神社」に、ご執心で門前町をとか言ってますが、これはコンクリート製で文化財にはなりません。
450年の空白は決定的に長い

編集者は千葉市の全国に通用する遺跡・文化財は「賀曽利貝塚」(縄文時代)くらいと思ってます。キャンピングカーで全国の石器時代、縄文時代、弥生時代の遺跡をみてます。これらは所詮、原っぱですが編集者は、ここで生活していたのだとワクワクして歩いてます。「客」を呼ぶとなると隣接する所にかなりの規模の「博物館」や復元建物が必要です。充実してるのは「山内丸山遺跡」(縄文時代)「吉野ヶ里遺跡」(弥生時代)位です。後は立派な施設等があっても閑散としてます。編集者としてはゆっくり館内を観れて館員に色々聞けてありがたいですがね。「特別遺跡賀曽利貝塚」の構想図が発表せれていますが、どうなるか。


最近は歴史のエピソードを紹介する時「諸説あります」と入れる傾向にあります。900年にそうした表現を入れるべきです。