注目点 「千葉傳考記」 2020.8 未完

編集者の注目点を順次記述していきます。歴史の専門家ではないので「変」な所はご容赦下さい。

「千葉傳考記」著作の年代

 記述が享保元文年間に及ぶとなってます。
 享保(1716~1736年)元文(1736~1741年)間ですので、江戸時代の中頃です、以外と新しいと考えられます。
 「千葉家の第一代良文は、延長元年癸未正月、勅命を受け奉りて初めて東國に下向」から始まります。延長元年は923年ですので、約800年に及ぶ千葉家(氏)の歴史文書になります。当然800年前のことから始めるので何らからの資料が必要です。参考にしたと思われる文献名も時折でて来ます。本来これらの文献を入手して検証すべきでしょうが素人の編集者でも可能な限り挑戦です。
 編集者の見解では「千葉傳考記」は二次資料との位置付けです。一応ここでは「千葉傳考記」は正確として取り扱います。

千葉氏拠点の推移

改めて、千葉氏拠点の推移は「千葉傳考記」ではどうなってるか検証します。

大友城

 大友城に移住したとの記述はありません。
仮に大友城に移住したとしても、「千葉家の第一代良文は、延長元年癸未正月、勅命を受け奉りて初めて東國に下向」とあり、大友城に来るまでは、「東国」の各地を変遷してます。
 但し、この書の編集者奥山の注では「承平三年癸巳、下總國を領して大友邑に居城し」とあります。承平三年=933年です。(ゆう)は古代中国の都市国家的な集住地。

関連としては下記があります。
第五代常長或は常永といふ。・・・「東大友に住せり。」・・・
「東大友」がどこかは不明です。仮に大友城近くにあったとします。しかし、次にあるように第三代忠常が「大椎城に大椎城に居す。」となってますので、この辺は不明です。

大椎城

第三代忠常上級介に任ぜられ、上總國大椎城に居す。」
時期の記述はありません。

千葉城

「千葉傳考記」に千葉開府900年の起点1126年(大治元年)の記述は残念ながらありません。
 関連としては下記があります。
大治二年内午六月一日(1127年6月1日)、父の命に依つて、妙見の尊體を千葉城に移し奉り、同十六日初めて祭禮を執行せり。」 
 「千学集抜粋」では現千葉市に移住したのは「大治元年丙午六月朔(1126年6月1日)」です。
両者の顔(?)を立てれば大治元年丙午六月一日に移住し、その後抄見寺を建立し1周年記念で「妙見の尊體を千葉城に移し奉り」となります。
 編集者としては、大椎から移住するにあたって、移住場所の下見や建物の配置(縄張り)のため何度か来てると考えるのが自然と考えます。「大治元年丙午六月朔」と断定は無理でしょう。

さらに、関連としては「第六代常兼」が遺言としての下記があります。

大治元年二月(1126年2月)、常兼歿期に臨み、庶子の輩に遺言して 曰く、「汝等各領地を受け、六黨の號を分つ。これ皆朝恩に依る所なり。正に忠勤を抽んで、末葉に至る迄、永く 千葉介に屬して宗家の繁榮を思ふべし。縦ひ世の變ありとも、志を同じうして一家のよしみを忘るゝ事なかれ」とい ひて、同十日、八十二歲にて卒せり。

ここから考えられのは、2月に亡くなって、葬式やら千葉城の建設を4ヶ月で慌ただしくやって6月1日に移住したことになります。そして、抄見寺が1年後に完成したので、大椎城に置いてきた「尊體」を移したのでしょう。又は千葉城内に仮置したのを移した。
さらに考えられのは、常兼が2月に亡くなる前に千葉に移住するのが決まっていて千葉城の建設をしていたのかもしれません。

本佐倉城

寶德三年(1451年)の頃、千葉胤直の家臣らが相互に争いを起こします。それが本家千葉城にも及びます。
「享德四年(1455年)三月二十日、千葉城へ押寄せけろに、俄の事とて防戰叶ひ難く、遂に落城す。胤直父子は同國多胡・志 摩の兩城に退き」ますが康胤親子が馬加(幕張)より加勢に出て胤直父子を滅ぼします。(注 多胡は現在の多古になるようです)
それでは千葉家を継承した康胤が本佐倉に移住したのはいつになるでしょうか。
「初めて同國印幡郡佐倉城に移る」とあるだけ移住年はありません。

千葉氏の不都合なこと

千葉氏でも当主の殺害が起こっています。戦国時代には良くあることです。

千葉介親胤 家臣に謀殺される

第27代千葉介親胤は弘治三年八月七日(1557年8月7日)、佐倉城中では家臣の謀議により殺害されます。17歳

親胤若年たりと雖も、勇氣膽力人に超えたり。されども剛慢驕慢にして、國政をなすに往々私あり。故に氏族諸臣之を疎んじ、信服せず。其の兄胤富に家督を繼がしめんと、弘治三年八月七日、佐倉城中に於て猿樂を催し、親胤をして之を観せしむ。親胤其の危機を察知し、窃に妙見社內に隱れんとする所を、家臣小野某追跡し來り、涉十兵衛といふ者をして親胤を弑せしむ。時に年十七。

兄胤富が家督を継ぎまが、胤富も近習に殺されます。

千葉介邦胤横死

第28代千葉介邦胤の近習(主君のそば近くに仕える役)に殺害されます。
 天正十六年戊子正月(1588年1月)新年の行事として旗本58人が佐倉(本佐倉)城に集まります。宴席の配膳をしていた近習が複数回放屁(おなら)をし、主君に怒られます。口答えしたため主君は殺害しょうとしますが、家臣にいさめられ止め家臣に預けられます。閏5月中旬許され再び出勤します。しかし、怒られた恨みははれておらず7月4日の夜主君の寝所に忍びこみ主君を殺害します。近習は逃亡しますが結局自害します。近習は鍬田萬五郎でまだ18歳です。

邦胤の息子、千鶴丸は未だ6歲です。盟主の小田原(後北条)の指示は以下です。

「千葉・佐倉は四方の敵地に介在し、樞要の場所なり」とて、臼井の城主原式部少輔胤成を佐倉に移し入れて軍代(主君にかわって戦場に出て軍務をとる者)と定め、千鶴丸をば小田原へ招きて人質となしにけり。此の千鶴丸後に新介重胤と稱し、晩年長胤と謂ひしなり。

 翌々年天正十八(1590年)秀吉の小田原攻めで千葉氏は大名としては終わりです。

その後の千葉氏

千葉氏は翌々年天正十八(1590年)秀吉の小田原攻めで千葉氏は大名としては終わりですがその後の千葉氏(家)がどうなったかを見ていきます。

佐倉城の落城

小田原の役(歴史群像 石垣山城2011年4月)

(本)佐倉城は1590.5.18に一日で落城(実際は戦わずに白旗らしい)ですが、そのことの記述はありません。当時、千葉氏の当主千鶴丸(後に新介重胤)は小田原城にいました。攻撃は小田原攻めの秀吉の別働隊家康です。
 

小田原開城 その後の千葉氏

 佐倉城は1590.5.18に落城しましたが、小田原城は7月に入り開城します。この辺の経緯の記述もありません。
 開城時千鶴丸は8歳なので処分は免れたとあります。実際は小田原征伐によれば後北条当主氏直は切腹を免れ、前当主と対秀吉との開戦を策した計四名が切腹でした。小田原には後北条と同盟関係にある
領主(大名)がいたので以外な感じはします。
 千葉氏の所領は没収されたので千鶴丸は帰る所はありません。その後は以下のです。
 ・へんぴなところで空しく過ごした
 ・家康の時代に母のところに。
 ・1633年6月16日江戸で死亡。51歳。子供はいません。
  (重胤に弟が2人いたとの説もあるが実際にはいないと記述されてます。) 
 ・鏑木權太郎長胤を(千葉氏一族の臼井?)養子とした。
  しかし、3年後1336年1月26日死亡。24歳

  一方、本佐倉城の城主になった土井大炊頭は、重胤が千葉の正統にして民間に淪落せるを聞き、直ちに召抱へて千葉新介重胤と名づけたり。されど、重胤素性悪しく、不器量にして、剩へ大酒を好み、萬事放埒なりしが、後遂に佐倉を出奔し、江戸にて死亡。

  さらには、 重胤の子新介定胤、下總國にて死亡。定胤の子七之助来は亂氣(?)して死亡。

 これらは、おって考えなければならないとしてます。

 さらに、さらに千葉氏の後継者を名のる複数の者がでてきます。

 ちなみに、ウィキペディア千葉氏では重胤は31代で胤巴39代まであり
 21世紀現在では常胤の子孫の滋胤が健在。
 となってます。
 注 常胤は39代までには入ってません。