大椎城址 千葉氏関連の城址? 2019.9

「城郭が台地上に築かれるのは15世紀の半ば以降」とする説もあることから「?」を付けることにしました。

図説房総の城郭 65頁 千葉城郭研究会編 株式会社国書刊行会 2002

大椎城址に行ってきましたので紹介します。
千葉市郷土博物館のホームページの大椎城址に関しては次のようになってます。

千葉氏拠点の推移

大椎権介常兼
忠常のひ孫常兼(つねかね)は、上総国大椎の地(現緑区大椎町)を拠点として大椎権介(おおじいごんのすけ)と称しました(『千学集抜粋』)。
大椎は、村田川上流部の山間部に位置し、鹿島川水系の分水界ともなっています。
大椎は鹿島川を経由して印旛沼・利根川に至ることができ、村田川を利用すれば、容易に上総国府(市原市国分寺台)に至ることができました。
また、陸上交通については東部の丘陵地帯を抜ければ太平洋沿岸の匝瑳郡海上郡に至り、西部に下れば、東京湾に面する千葉郷に至るなど水上交通、陸上交通の要衝の地でした。

現在、大椎集落の北側丘陵上に残る連郭式の中世城郭は、遺構から16世紀後半の築城と考えられており、土気酒井氏の出城だったのではないかといわれており、常兼が拠点とした城(館)との関係は明らかになっていません。

https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyodo/chibashi-no-rekisi.html

例によってウィキペディアでは以下のようになってます。

大椎城は平安時代中期、平高望の曾孫にあたる平忠常により築かれ、その後長らく千葉氏を称した忠常の後裔が拠ったとされる。一方、忠常の館に関する伝承は東庄町にもあり、「千葉伝考記」はその2代後の平常長前九年の役の功で大椎の地を賜り、次の常兼の代に大友城から大椎城に移ったように記している。
1126年(大治元年)、千葉常重が千葉市中心部の千葉城に本拠を移したが、その後も千葉氏の一族が入った。南側の城下集落には、代々名主を務めた家があり、千葉神社へ移されたとされる妙見の祠がある。
ただし、現在残る城遺構は後世のものであり、大椎から千葉氏が興ったという話は、史実ではなく伝承の域を出ないという指摘もある[1]
15世紀中頃になると、酒井氏の勢力が伸張し、大椎城は同氏の拠る所となった。1590年(天正18年)、小田原征伐により酒井氏が滅亡し廃城となったとされる。

大椎城

千葉市のホームページの赤マーカーとウィキペディアの青マーカーが気になったので、書籍を図書館で借りて調べてみました。

図説房総の城郭 千葉城郭研究会編 図書刊行会 2002

78頁

11大椎城跡
[歴史]当城跡は、・・・・・・・・・・・・
しかし、この地は源頼朝に滅ぼされた上総氏の領とするところであり、千葉氏がここから興ったというのは史実でなく伝承の域をでない。


ウィキペディアの引用の仕方が誤解を招きます。「大椎から千葉氏が興ったという話は、史実ではなく伝承の域を出ない」ではなく「現在、大椎城址と言われる地から千葉氏が興ったという話は、史実ではなく伝承の域を出ない」となります。
それなら、「大椎」のどこに千葉氏が築いた「大椎城址」があるのでしょうか?
今更そんなものは発見されそうもありません。もし「無い」となった千葉氏の歴史がひっくり返るのではないかと思います。系図の「大椎介」も嘘になります。

現地の説明板は以下のようになってます。

現在、説明板は撤去されてるようで見つかりませんでした。ウィキペディアには説明版が設置されてる写真があります。ウィキペディアの写真と編集者が訪れた所と同じと思われます。移設されたかもしれません。下記の説明文はネットを検索して見つけた画像から文字起こしたものです。

                  大椎城跡

 大椎城は平安時代末期、上総・下総に強大な権力を持ち、長元の乱(1027-1031年)を起こした平忠常が築城したと伝えられている。その後、一門の末孫、千葉常兼の居城となったが、常兼の死後、その子常重が大治元年(1126年)亥鼻城に居を移したことにより廃城となったと考えている。
 千葉氏発祥の地といわれる大椎城跡は、千葉市街より東へ約15km離れた村田川上流の標高80mを測る急竣な台地上にあり、現在でもその保存状態は極めて良好である。いまで発掘調査は行われていないが、昭和46年に千葉市史編纂事業の一環として測量調査が実施され、東西に延びる舌状台地を四つの空堀で区切った連郭式の城であることが明らかになった。

千葉市のホームページでは「千学集抜粋」をもとに忠常が築城としてます。ウィキペディアでは「千葉伝考記」を基に常兼が移住したとの説を紹介してます。900年以上前のことはハッキリしないのは当たり前です。
説明板の「常重が大治元年(1126年)亥鼻城に居を移したことにより廃城となったと考えている。」は明らかに間違い。そのため撤去された?

「大椎城址縄張り図」は説明板にある図面をネットで見つけたものに編集者が加工したのが下記です。

大椎城址縄張り図

編集者が撮影した写真です。

余談

「大椎城址」をカーナビで検索して行くと民家の庭にいき着きました。周辺は車一台がギリギリの所で、周辺を探しましたが城址への入り口は不明でした。広域で探したり、ウィキペディアにある座標(GPS)でも変な所へ誘導されました。約1時間探し回り、ようやく地元の人に会い道を聞くができました。城址に行くための案内道標は一切なく、駐車場も内緒で聞きました。城址への入り口の案内板もなく、道の数カ所は藪漕ぎ状態でした。石碑を見つけて「大椎城址」であることが確認できました。道標の類は石碑が1本だけです。石碑の裏の郭、以外へは行けませんでした。
「千葉開府900年」のわりにはお粗末と感じました。この地は私有地のようで、積極的に動けないのかもしれません。復元建物もないところに一般の人はこないし、よほどのマニアだけでしょうから仕方ないか。
そもそも、千葉氏の城址かも不明となれば「観光化」もできない。