「城郭が台地上に築かれるのは15世紀の半ば以降」とする説もあることから「?」を付けることにしました。
図説房総の城郭 65頁 千葉城郭研究会編 株式会社国書刊行会 2002
大友城址に行ってきましたので紹介します。
千葉市郷土博物館のホームページの大友城址に関しては次のようになってます。
平忠常の乱
https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyodo/chibashi-no-rekisi.html
良文の孫平忠常は、香取郡東庄町の大友城などを拠点として上総下総に勢力をふるっていましたが、官物の納入などをめぐる争いから、1028年(長元元年)安房国司を焼き殺すという事件が起こります。
ウィキペディアでは次のようになってます。
「香取郡誌」によれば、千葉氏の祖である平良文の居城と伝えられ、940年5月に相模の村岡からこの地に来て築城した。その後、良文は近隣の香取市阿玉台にある平良文館に移り、大友城には平常持、常将、常長、常兼の4代が居城したとされる。
ウィキペディア(Wikipedia)
平常兼は、のちに千葉市緑区の大椎城に移ったと伝わるが、明らかではない[1]。
「今昔物語集」には、平忠常の乱で源頼信が忠常を攻めたとき、鹿島神宮から南下して利根川の北岸に至ったところで、「忠常が栖(すみか)は内海に入りたるところに有る也」と記述されている。
この内海を、笹川~下総橘間の水田地帯ととらえ、忠常の居館もその奥に位置する大友にあったと言われることがある[2]。
大友城址の説明板では以下のようになってます。
まさしく諸説あるです。千葉氏の城址らしいと言ったところでしょう。平忠常の乱(長元の乱)長元元年(1028年)は千葉開府900年の起点1126年(常重)の約100年前の出来事になります。
複数の名前が出てきましたが、系図は千葉市郷土博物館のホームページを参考にすれば次のようになります。
その他の所(鍛冶屋敷 等)への道は見つけられませんでした。
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