「紅嶽弁財天」 を追加
江戸時代は参勤交代のために各大名は江戸に藩邸を置きました。どこに藩邸を置いたかは絵図面が残っていてわかります。鎌倉時代はどうでしょうか。参勤交代のように制度化はされてません。常時は領地の本宅にいましたが必要に応じて鎌倉にある別宅と往来していたとされてます。こうしたことは平安時代の大番役があり、京と領地を往来してました。つまり、京と鎌倉両方に往来してました。京の方は警備の義務で鎌倉は連絡事務所と言ったところでしょう。
さて千葉氏は鎌倉のどこに邸宅を置いたのでしょうか。調べると複数あるようです。どれが正しいのか、時代と共に引っ越したのかはわかりません。幾つかの説を紹介します。
「瓣谷」
「瓣」は新字体で「弁」になります。
千学集抜粋では下記のように記されています。7(175)
「一、常胤千葉介在鎌倉にて、辨谷殿と申し…….」 第八代
「一、胤政在鎌倉にて辨谷殿と申し…….」 第九代
千葉傳考記 では下記のように記されています。12(80)
「而して頼朝卿、鎌倉を御館と定め らるゝ時、常胤も鎌倉辨が谷に館を賜はりて住す。
故に辦が谷殿と稱せしなり。」
千葉体系図 鎌倉敷地 瓣谷 注 常胤の項
では現在「瓣谷」はあるのか 「鎌倉 瓣谷」で検索すると幾も出てきます。ここでは「鎌倉くらしDiary」を参考にさせて頂きました。ありがとうございます。
該当サイトにある場所に行ってみました。鎌倉駅から約1.8kmです。歩いて30分程度です。途中まではバスでも行けます。
該当サイトでの石碑の文は下記のようになるようです。
1321年(元亨元年)相模守「北条高時(執権)」が創建した「崇壽寺(崇寿寺|すうじゅじ)」は、この地域にあった。
道興准后の「廻国雑記」に書かれた紅谷(べにがやつ)と、田代系図に記されている千葉介の敷地の別谷(べつがやつ)は、共に弁谷(べんがやつ)と同じとする説もあるが、詳しいことは分からない昭和7年3月建立 鎌倉町青年団
鎌倉くらしDiary
鎌倉町青年団が設置したもので、鎌倉を散策すると石碑の外形は同じでたくさんみられます。
注 「廻国雑記」と「田代系図」は検索してもわかりませんでした。
周辺の画像です。それらしき遺跡(公園、寺、神社)はありませんでした。住宅街です。石碑は三叉路の角にあります。
「辨谷」に関する見解
千葉傳考記編集者「奥山」の注釈では下記のように記されています。12(80)
千葉本系圖に曰く、辨谷殿といふは誤なり。鎌倉別駕が谷殿なり。別駕は介の唐名なり。鎌倉別鶴が谷に千葉介住せられし故の名なり。當へば、佐助が谷といふあり。 三介が谷を誤りいふ。三介とは千葉介・三浦介・上總介、此等の居住せし地なればなりと。
注 「千葉本系圖」には幾つかあるらしく、当サイトの編集者には該当部分は見つかりませんでした。
千野原靖方氏の見解
千野原靖方書「千葉氏 鎌倉南北朝」崙書房
73~74ページからの引用です。
千葉氏の邸宅跡は、現在の小町大路(小町ニ丁目)にある妙隆寺付近ともいい、あるいは佐助(介)
ケ谷東方丘陵の東下、鎌倉駅から西方へ三〇〇メートルほど行った御成町内に伝えられ、その南至
近には寿永三年十月に設置された間注所跡がある。近くには千葉ケ谷の字名もある。この今小路を北上すると扇
切ケ谷であるが、扇ケ谷の入口あたりの今小路沿いにある八坂神社は、常胤の次子相馬師常が勧請したものと伝
え、』相馬天王社ともいわれる。『千葉大系図』には、師常は「於下総国崇号観音大士、於鎌倉亦建立宮社、称
号相馬天王、為祭礼也」と記している。師常は元久二年(一ニ〇五)十一月十五日に六十七歳で没したが(『吾
妻鏡』)、その邸宅は八坂神社の五〇メートル手前の巽神社付近にあったといい、また墓は扇ケ谷の浄光明寺の
北西、路地を入った山裾に伝えられている。 一方、常胤の孫成胤の宅は、現長谷一帯の地・甘縄にあったようで
あり、このほか安達盛長の宅も甘縄にあった(『吾妻鏡』建保元年二月十五日・建久二年七月廿八日条)。後年
の仁治ニ年(一ニ四一)三月十七日の深夜、烈しい南東風によって鎌倉由比浦の「前浜辺人居」より失火して、
「甘縄山麓、数百宇」が被災しているが、この中に「千葉介旧宅」も含まれていたとある(『吾妻鏡』)。しか
し、『千葉大系図』によると、常胤は「於鎌倉為敷地排谷」とある。また『千葉伝考記』は、「而して頼朝卿、
鎌倉を御館と定めらるる時、常胤も鎌倉排が谷に館を賜はりて住す、故に排が谷殿と称せしなり、干葉本系図に
日く、排谷殿といふは誤なり、鎌倉別駕が谷殿なり、別駕は介の唐名なり、鎌倉別駕が谷に千葉介住せられし故
の名なり」と書いている。常胤の嫡子胤正もまた「居鎌倉排谷」と伝える(『松瀧館本千葉系図』『千葉伝考
記』)。『千学集抜粋』には、常胤・胤正ともに 「在鎌倉にて弁谷殿と申」とみられる。弁ケ谷は別ケ谷とも
いい、鎌倉材木座東方の谷のことであるが、常胤の宿館については果たしてこの弁ケ谷にあったのか、それとも
甘縄か、扇ケ谷か、小町の妙隆寺付近か、明確ではない。千葉常胤ほどの豪族であれば、 ーカ所の宿館とは限
るまいが、いずれにしても鎌倉草創期には常胤とその子息の宅は、頼朝の大倉御所(幕府)よりほど遠くない
ところにあったことは間違いなかろう。
太字イタリック体は前述の通りです。「妙隆寺付近」「御成町内」の出典は不明です。
編集者の見解
千葉市のホームページ全国の千葉氏ゆかりの地では「瓣谷」「御成町」と「巽神社付近」を紹介してます。鎌倉時代は「遙か昔」です。これが正しいとは誰もが言えないでしょう。
紅嶽弁財天 追加
千葉市のホームページ千葉氏ゆかりの史跡・伝承スポットにある下記の紅嶽弁財天は「千葉氏の鎌倉邸宅」との関係を問い合わせがあったので調べてみました。
紅嶽弁財天 看板(千葉市ホームページ)
まずは、現場「千葉市若葉区みつわ台5丁目42」に行ってみました。50坪程度の神社でした。過去の広さは不明です。又、元は別の場所にあったかも不明です。
紅嶽弁財天の縁起
今から六百年も昔、後村上天皇の時代、こと、
千葉の城主、千葉常胤は日頃から神仏を敬う心
が厚く子孫の長久繁栄と福寿円満をつねづね祈願
ていた。ある夜、夢枕に弁財天が現れたのに感激
し、鎌倉の弁ケ岳弁財天をこの地に移したという、
この弁財天の森の中には、鶴亀橋という小さな石橋
があった。その石橋の近くに泉があり、パチパチと
手ばたきすると、応えるように清水がモクモクと、
湧き出したとい。これが霊験あらたかな乳出の
泉であって、この清水が湧くまうにお乳を多く与
て欲しいという念願から産み月を迎えた妊婦た
ちが多く参詣した。そして泉の水を、小びんに詰
て持ち帰りお乳がたくさん出ると、お礼として
倍の水を奉納するならわしだった。
年に一度、四月の巳の日に近隣に講社の人々が集
まつてでお社は、一日中賑った。人々は護摩をたき、
おみくじを引き、持参の酒肴で宴をひらき、中に
はジンメイと呼ばれるお札を納める人もあった。
ジンメイに描かれた図柄はとぐろを巻いた蛇で
あり、これは弁財天のご神体が蛇であることにち
なむものである。
講社については、昭和十年、新た紅嶽講の設立
が計画されたときの趣意書が残されている。
それには、弁財天は湧く水も乳もゆたかに、お
さなごを守り育て、誓いなるかな、と唱えられ広く
信仰され、ゆえに寒暑を問わず、風雨をおかし至
心に祈る人影の一日も絶えることはない。近年ます
ますその数の増加するを見るとき熱誠をもって紅
嶽講の設立を促すとある、これを見ても弁財天が
ひとの救いに霊験を示しておられたことがうかがわ
れる。又弁財天をまつる地をニ十五里と書いてつう
へじと呼んだ。理由については常胤公が弁財天を
この地にまつってから、重臣の通平時公が敵の侵入
にそなえて砦を構築した。
当時、慕府は鎌倉にあり、その距離がニ十五里で
あったところから、通平時とニ十五里が渾然一体と
なり、つうへいじと呼ぶようになった、という話である。
案内板の検証 冒頭部分
1.「今から六百年も昔」は約1400年になるでしょう。室町時代
2.「後村上天皇の時代」在位期間 1339年9月18日ー1368年3月29日 南北朝時代
3.「千葉の城主、千葉常胤」千葉傳考記 鎌倉時代
誕生日 元永元年(1118)五月二十四日
死去 正治三年(1201)三月二十四日
1.2は近いと言えますが、千葉市看板と当説明板は3.を採用してます。当説明板を誰が設置してるかは不明です。当説明板の冒頭以後は「信仰」で歴史とは言えないので野暮な検証は行いません。
「紅嶽弁財天 看板」に戻ります。
”この地にはかつて湧き水があり、・・・・・” は編集者にはわかりません、
”「弁谷」は「紅谷」とも書かれており、「紅嶽」という名前は「弁谷」に由来すると思われる。”
前述の石碑「瓣谷」の説明文を再掲示します。
1321年(元亨元年)相模守「北条高時(執権)」が創建した「崇壽寺(崇寿寺|すうじゅじ)」は、この地域にあった。
倉くらしDiary
道興准后の「廻国雑記」に書かれた紅谷(べにがやつ)と、田代系図に記されている千葉介の敷地の別谷(べつがやつ)は、共に弁谷(べんがやつ)と同じとする説もあるが、詳しいことは分からない
昭和7年3月建立 鎌倉町青年団
”紅谷(べにがやつ)と、田代系図に記されている千葉介の敷地の別谷(べつがやつ)は、共に弁谷(べんがやつ)と同じとする説もあるが、詳しいことは分からない”
編集者には千葉市の説明には無理があると思いますが、さて。
千葉市のホームページ全国の千葉氏ゆかりの地では「瓣谷」以外に「御成町」と「巽神社付近」を紹介してます。が、これには触れてません。