始めに
「千学集抜粋」を活字化した文書を入手できたので紹介します。
「改訂房総叢書」に収録されてるものです。収録文書は「千學集」となってますが、本サイトでは「千学集抜粋」を用いてます。
収録されてる文書はA5で小さな活字で縦書きです。解説を含め全53頁です。グーグルのインターネット上のOCRで縦書きを横書きにし、誤変換は改めましたが旧字では収まらない複雑な漢字なので間違いがあるかもしれません。本サイトの引用をし、問題になっても関知しません。尚、グーグルのOCRの実力は高評価ですが、訂正には結構時間が掛かりました。今後も随時見直しを続けます。
そもそも「千学集抜粋」とは何か
千葉氏に関する文献を調べてると「千学集抜粋」が度々出てきます。そこで、千葉氏に関する歴史文書かと思ってましたが、それだけでは無いようです。収録者の解説では以下のようになってます。本文前の解説です。
【解說】 「千學集」といふ書は、關東八平氏の筆頭たる名族千葉氏の事蹟、其の守護神たる妙見宮の來由及 其の別當たる金剛授寺(北斗山寧光院と號す)の行事等に關する記録である。元來金剛授等の寶庫に秘藏せ られたものであったが、度々の火災に他の記錄文書と共に焼失して、今世に傳はるもは基の抄のみとなっ た様である。それも次々に寫して行く間に誤寫脱字等数多く出來て意の通ぜぬ箇所も尠なからず、誠に惜しい 事である。今、本叢書へ收錄するに當り幾分訂正整理を試みたけれども、原本無くて訂正し難い所は其の儘 にして置いた。著者は明かで無いが金剛授寺關係の者であったらうといふ事は慥である。又、作出年代は天正年代と想はれる。記述中には俗說も混じて居るが、大體に於て信すべき事が多い様である。殊に天文年中の覺書などは貴重なものである。故に今の千葉神社の前身たる妙児宮、千葉氏、其の城下町たる千葉市の來由等を知るには必讀の重要書である。なほ、書名は今「千學集」として知られているけれども、現來は「干葉集」と稱したものであらうか。最後に一言附加すべき事は目次の事である。在來の書には日次を掲げてな かったが、便宣の為に目次を掲げる事にした。(奥山)
「行事等に關する記録」にあるように読んでみると行事に関する文章が多いです。
本文終了後の解説です。
解說中に述べた通り、千學集の原本は、ちと金剛授寺今の千葉神社の寶庫に秘蔵せられ たものであつたが、火災に焼失して現今世に傳はるものは其の寫し而も抄本のみとなつ た。私の手許にあるものは誤謬脱落多きが故に、成るべく正確なものを見さんことを林 天然氏に相談した處、故大森文學士の寫本が金澤文庫に保存せられ居る筈、就て見てはとの仰せであつた。そこで關金澤文庫長に御願ひして拝見し、御陰で不明の點が大部明かに なった事は感謝に堪へぬ。右金澤文庫本に左の奥書がある。
原本金剛授寺所藏丙午秋念四紀琴夫書手寫也 佐原清宮氏所藏
明治二十五年二月三日以內閣文庫本寫之 村 岡 良 弼 印
明治三十三年六月村阿良弼氏所藏本を寫し且一校し畢ぬ 南 總 子
これに依つて見四山下總作原の清宮秀堅先生に 編され、次に內閣文庫に寫され、香取郡中村の村岡氏に三寫され、大森文學士に四寫されたもので、三氏ともに我が房總人である。これを今度房總叢書刊行に當り、妙見大縁起其の他を参考して 補正する所があつた事を申添へて置く。(奥山)
要は「千学集抜粋」自体の原本は無く、何度も写され、(奥山)によって補正されたのが「房総叢書」に収録され1941刊行されたことになります。
「千学集抜粋」(奥山)版とすべきかもしれません。写本が幾つもありそうです。
「改訂房総叢書」は1959年に再版されたことになります。
先人に感謝申し上げます。
凡例
青はフォントが無いか、見つからない文字でそれらしい文字です。旧字でフォントが無いのは新字にしてます。
赤(奥山)が他の写本から追加したところです。
XX[YY]は(奥山)が原文のXXをYYに訂正すべきとしたところです。
振り仮名は(奥山)が付けたものです。
脚注1数字をマウスでクリックすると表示されます。
括弧内の頁は「改訂房総叢書」の頁です。
本文
千學集抄
【解說】 「千學集」といふ書は、關東八平氏の筆頭たる名族千葉氏の事蹟、其の守護神たる妙見宮の來由及 其の別當たる金剛授寺(北斗山寧光院と號す)の行事等に關する記録である。元來金剛授等の寶庫に秘藏せ られたものであったが、度々の火災に他の記錄文書と共に焼失して、今世に傳はるもは基の抄のみとなっ た様である。それも次々に寫して行く間に誤寫脱字等数多く出來て意の通ぜぬ箇所も尠なからず、誠に惜しい 事である。今、本叢書へ收錄するに當り幾分訂正整理を試みたけれども、原本無くて訂正し難い所は其の儘 にして置いた。著者は明かで無いが金剛授寺關係の者であったらうといふ事は慥である。又、作出年代は天正年代と想はれる。記述中には俗說も混じて居るが、大體に於て信すべき事が多い様である。殊に天文年中の覺書などは貴重なものである。故に今の千葉神社の前身たる妙児宮、千葉氏、其の城下町たる千葉市の來由等を知るには必讀の重要書である。なほ、書名は今「千學集」として知られているけれども、現來は「干葉集」と稱したものであらうか。最後に一言附加すべき事は目次の事である。在來の書には日次を掲げてな かったが、便宣の為に目次を掲げる事にした。(奥山)
目次
一、千葉御代々の事。
二、千葉御家御元服儀式の事。
三、三夜御鈴の事。
四、先代掟の事。
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五、住持代々血脈の事。
六、妙見宮御番の事。
七、先代御引付の事。
八、惣代七証の事。
九、正月十四日の夜の御祭。
十、本庄苗子海上を退散の事。
目次(終)
千葉御代々の事
一、桓武天皇五子葛󠄀原親王一品式部卿宮の御子高見王、無官無位にて失せ 給ふ。高見第一の皇子高望親王に十二人の御子おはします。第一には良望親王、第二には國香、第三には良文、第四には良將、第五には良兼、 第六には良生、第七には良門、第八には良經、第九には上野守良廣、第十には常辰文次郎、第十一には駿河十 郎、其の餘は女子也。良將は鎮守府將軍將門親王の父也。
一、良文は人皇六十代醐天皇の御代、奥羽兩國を知行して下り給ふ。これによつて良文を陸奥守と申す也。
一、將門不親王は、人皇六十一代朱雀帝の御時、承平元年に謀叛を起せり。陸奥守良文を作ひて關東上野國に配 れ入り、上野國群馬郡府中花園の村、染谷河といふ所に、折しも水増して吹く風波高かりければ、たやすく渡
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すべきやうなし。こゝに十三ばかりなる小童出で來て、「此の川渡すべし」と云ふ。良文將門乃ち、「是ほど に水増し波高からんにはいかに」と云ふ。「さらば瀬踏みせんものを」と、眞先かけにければ、大將初め是を恃みに渡しにけり。水は南へと落ちて、馬の太腹隠すにて渡す。國香の大軍は渡しかねて、河向ふに控へて戰を始めけり。さて染谷川にて七日七夜の內に合戰三十四度なり。味方は七騎に打ちなされ、良文も落馬しけろ が、心中に祗念しけろは、「此のあたりに如何なる佛神寶在しますや。今の戦ひに、力を合せ給へ」と。其の 時羊妙見大菩薩雲中より下りまして矢を拾はせ給ひ、良文七騎に與へ射させければ、七騎の聲は千萬騎の聲と 聞えて、敵の上には儉を雨らしければ、敵の大軍皆度を失ひけり。彼の七騎は手も負はず、大敵に切り勝ち給 ふ。小童忽ち天に昇らんとせし時、兩將は、「如何なる神」とぞ伺ひにける。「善哉、我こそは妙見菩薩ぞ。親王の妃汝を孕み給うて三月なろ頃、此の若を誕生しなんには、妙見大菩薩の氏子に奉らんと祗誓う申し給ひし故 、染谷河に現ろ。國香の 軍かなはずして蜘蛛の子を散すが如く失せぬ。國香は山中にひそみかくれぬ。此の後は良文將門 の小符(しるし)には、月星こそは」と、告げ終りて失せ給ふ。さてこそ九曜を家紋とせられけれ。
聖武天皇勅願所、行基菩薩創立、神龜五年己卯八月十五日の開基なり。本尊は妙見大菩薩にて在します也。 群馬府中花園郡七星山息災寺と申す寺の本尊を、或說に美珠番都摩の作と申して、木像七體に在します。 中にも羊妙見大菩薩、即ち小童と出現し給ふ也。此の時御詠歌有り。
月星を手に取るからに此の家の久しきことは恒河沙のかず
さて此の以前には松竹鶴也。五葉の根たけ也。若君御誕生の御時、必ず胞衣に九曜松竹在しけりと申し傅ふ
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る也。これ菩薩の守らせ給へる不可思議也。縦令嫡子たりとも、後に御家に直らざるは松竹ばかり也。御誕生に胞衣を洗ひ見れば、今に然ありとぞ。
良文將門の七騎既に戰に打勝ちて、「此の所に、如何なる佛神や在します」と、土人に尋ねけるに、「近くなる花 園部息災寺に妙見大菩薩在す」と答ふ。さて彼所に參り給うて、七番づつの小笠懸を射り、弟[郎党]文次郎を留め 置きて、遂には、「菩薩を盗み奉りて出で來よ」と、いひ付けけり。郎等は髪おろし、三年の間その所に住みて 後、常佳の僧となりて勤め奉りぬ。正月五日修正を習ひ、「我が君良文を守らせ給へ。菩薩は や 出で給へ」と 申しけるに、御片押し開き出でさせ給ふ。文次郎かしこみて、「菩薩は七體と聞きにしものを」と申す。「され ばとよ、染谷河にて矢拾ひける時、足に土附きたり」とて踏み出し給ふ。是を認め知りて御供申し添れり。實に承平三年癸巳十二月二十三日也。平井の篠碕といふ所に一夜在しまし、さて本所武藏國藤田、良文の在す所、 文次郎家居の一間[人々に]安置し奉りて、二人の娘を八乙女として、目から太鼓打ちて神樂申上げし也。秩父の大宮 へも移らせ給ふ也。又鎌倉の村岡に移りて村岡五郎と申す也。良文鎌倉へ移りし日、八箇國を領し子孫繁し給ふ也。
一、良文に御子五人あり。長子忠輔は父に先だちて失せにけり。二男忠頼は村岡二郎と申し、三男忠光は權中將駿河守と申す。四男忠迦は梶原の祖鎌倉牛大夫、五男景久は長江太郎是也。
一、将門は下總相馬に新京を建てゝ平親王と號す。相馬小次郎是也。
一、妙見大菩薩は無始無終にて在します也。北天に在す時は恒河砂の數よりも富めり。閣浮提に在しては七五劫
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を経給へる故、妙見と崇めまつる。よく信被せんには壽命延久凝ひなきもの也。
一、良文の七騎は、陸奥守良文、平將門、上野二郎忠頼、權中將三浦忠光、上野介良經、村岡平太夫忠道、粟飯原文次郎常時。
一、三浦の組三男忠光は、將門の乱によりて常陸國(信田島)に配流せらる。この故に常陸中將と申す。後赦免 ありて船に乘り、三浦の郡(三浦)に到り、安房國を知行して三洲に住せり。村岡四郎忠光と號す。 父村岡五郎なればにや其の子爲通名を三浦平大夫と申す。十二年の合戦の時高兵七人の內也。其の子次爲三浦平太郎と申す。其の子義次六郎庄司、共の子義明三浦大介、其の子義宗梠(?)本太郎、二男義澄別當介。
一、梶原の祖は、良文の四男忠逝村岡平大夫也。村岡に住し、鎌倉大庭田村を領して鎌倉の鼻祖也。景鎌倉權大夫、其の弟景將は安部貞任退治の時、高兵七人の內にて後陣の大將軍たり。
一、景時の子景長、共の子景村、鎌倉太郎、共の子景時。梶原平三景時また羽林頼朝後陣の大將軍たり。
一、忠頼の子三人有り。嫡子の忠常は上總國上野の郷に住し、同國人見といふ所に三日逗留して後、下總國に移 り給うて兩國を領す。下総權介は是也。こゝに於て妙見大菩薩は長嫡に属し、二男惡禪師忠寧大力にて角を折る也。三男正常は秩父の祖也。
一、惡禪師の子三人有り。長子常宗中村太郎、其の子宗平中村庄司也。二男實生土肥次郎、其の子將不武田與市也。三男遠宗土屋三郎、其の子平彌太郎也。二男實平は土肥の祖、三男遠宗は土屋の祖也。
一、忠頼の三男正常、武藏權守、其の子武基、秩父別當大夫、其の子武縄秩父十郎、其の子重綱權守秩父冠者、
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十二年の合戦の時、先陣の大將軍たり。其の子重弘太郎大夫、其の子重義畠山庄司、同命弟小山田當有重。 重義の子秩父重畠富山次郎は鎌倉殿先陣の大將軍たり。其の子重康也。
一、將門平親王御事、朱雀天皇の御時、天慶三年庚子正月二十二天霊座主法性坊僔道横河に於て大威德の法を行ひ調伏せしめ給ふ。行壇の上に紅血流れけり。尊道急悉地成就の相奏聞せられけるに、天皇御感の餘り卽ち法務大僔正になされけり。「將門の正直、今はしも詔侫に還れば」とて、妙見大菩薩捨て給ふなり。大將平貞盛、俵藤太藤原秀郷、親王將門を追罰し給ひ、承平元年關東に打入りける將門、狼戻十年にして天慶三年四月二十五日討死、御頸は上洛せし也。
一、忠常下總權介、御子二人有り。長子常將、二男覺筭大僔正妙見御座主也。同六院六坊。
一、常將御子一人、常長千葉大介と申す。常將は大手大將軍たり。常長大介十二年合戰の時、八幡殿御作として海道大手の大將軍たり。
一、常長御子七人。長子常兼。二男常晴相馬五郎上總介の祖也。三男常房鴨根三郎千田の祖也。四男 賴常原四郎、五男常葐岩部五郎粟飯原に移る。六男常餘栗原六郎、七男覺永妙見第二世座主、是より五頭はじまる也。
一、常長二男常晴上總介、其の子常澄上總大介、其の子廣常上總介八郎權不也。
一、常兼大權介、觀宥、法謐星成院殿、大椎にて御捐館也。御年八十三、實に大治元年二月十円也。御子四人有り。長子常重、二男常術海上與市、三男常康臼井六郎、其の子常忠臼井七郎、四男常廣匝瑳八郎、其の子政魔飯高四郎、是より三家始まろ也。
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一、常重大千葉介善應、法諡照浄院殿、御年九十八、千葉にて御捐館也。實に壽永二年癸卯二月三日也。御子三人。長子常胤、二男胤除武佐七郎、三男胤光椎名八郎、後に是を加へて五頭とは申す也。三世座主宥覺は常重の甥也。
一、常胤千葉介在鎌倉にて、辨谷殿と申し、貞見と申す。御年八十三にて御捐館、法諡を浄体院殿と申す。實にに 正治元年己未二月廿四日也。初め頼朝の御作用し、一千餘瞬にて都に抑上り給ふ。頼朝の左の一座也。其の子七人。長子胤政、二男師胤相馬小次郎師胤これを相馬天王といふ。三男胤重武石三郎、四男胤信大須賀匹良、五男胤延域分五郎、六男胤賴東六郎、七男第四世覺他座主也。東六郎胤賴子重胤六郎、次男胤方本庄七郎、三男亂朝木內八郎 といふ。此の時六東の初め也。
一、胤政在鎌倉にて辨谷殿と申し、觀態と稱す。御年六十三にて御捐館、法諡を常仰院殿と申す。實に建仁三年癸亥七月二十円也。御子十二人。長子成胤加賀利權守、二男泰胤土氣太郎千田に移る。三男風時埴生三郎、四男 師胤遠山方七郎、五男師時神崎九郎、六男常秀堺年次郎、七男胤廣三谷四郎、八男胤忠多邊田太郎、九男胤報 六崎六郎、十男覺秀第五世座主也。外女子二人、此の時八頭始まる也。
一、成(しげ)胤継守在鎌倉にて正珍と稱す。御年五十七にて御捐館、法諡を仙光院殿と申す。賞に建保六年戊寅四月十日也。御子三人。長子胤綱、二男覺山大僧正第六世座主也。外女子一人。
一、治承四年八月二十三日賴朝相模國石橋山の合戦に懸け負けて、土肥の眞鶴より船に乘り、安房國へ着き、藤九郎盛長御作して渡り給ひ、同九月四日右兵衞佐頼朝上總國へ着き給ふ。房州には安西三郎景然、上總には上
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總介八郎廣常、下總には千葉介常胤、三箇國の人々參り給ふ。常胤胤政父子は上總へ參り給ふ。加曾利冠者成胤はたまたま祖母の不幸に當り、父祖とも上級へ參り給ふと雖も、養子たる故めて千薬の館に在り、送葬の營みをなされけり。彼の祖母は秩父太夫重弘の中娘也。程経て成胤も上總へ參り給ふ。山邊郡司寺太郎成高千葉寺に住す。 寺山武士五郎入道久能、長峰蹄所三郎胤行、祖田次郎成利、雑色安次郎、小別當善四郎ともに七騎也。 こゝに千田判官親政は、「平家への聞えあれば」とて、の勢千餘騎千葉の堀込の人なき所へ押寄せて、堀の內 へ火を投げ掛けたり。成胤曾加野まで馳せて振返り見るに、火の手上りければ、「まさしく親政が仕業ならん。 此の儘上總へ參らんに、佐殿の迯たりなんど仰せられんには、父祖の面目にも拘りなん。いざ引返せや」と、 返しにけり。結城澁河にて行き合ひける頃は、治承四年九月六日の事なるに、成胤その出立には、褐布の直埀に唐綾の鉢巻し、梨打烏帽子に捃縄の大鎧、熊皮の揉蹈皮に銀にて縁金(へりがね)渡し召し、鵜狗の征矢を負ひ、漆籠藤の弓を握り、月毛なる馬に乘り、くつわ鐙踏ん張り大音上げ、「是は桓武天皇三代の孫、陸奥守良文の八代千葉介常 胤の孫、胤政が嫡子成胤、生年十七歳。今日敵の大將親政に見參せん」と、紅の扇を開き、「いざや來れ」と、 千餘騎を招き、多勢の中へ七度まで馳せ入り給ふ。討ち取るやから數を知られず。素より案內は知りつ。此の浦兩道ありて、一筋は馬の足立たず。一筋は馬の足立ちぬ。「さらば暫し馬の足を休めよ」とて、浦に打出で、 おのおの弓状突いて息つき居たり。親政遙に是を見て、「敵は小勢にて、しかち矢種盡きつるぞ。引き包んで 討ち取れ」と、大勢引具し取巻いたり。其の時、七騎の頭上に一染の紫雲舞ひ下ろよと見えける內、艸結ひたる童子、雲中より下り立って、矢を拾ふこと鳥の啄むよりも早く、成胤等が前に打立ちて射させ給ひければ、
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成胤等は大刀を真向に差し翳し、一特に敵を靡かせ、精神ますます盛んなり。親政麾下の勢は時をすぐり驀地に駈け惱さんとせしに、覺えず人馬辟易し、或は竦み、或は辻々、鞍より振り落さるる者も多かりけり。屈竟の勇士等、「先づ彼の童子を射取れ」と、概合より散々に射けれども、其の矢中にて落ち、或は羽切れ、箆折れ て、通す矢こそなかりけれ。成胤等は薄手も負はず、えいえい聲にて親政の旗本近く攻め入りたり。親政大勢 こらえ得ず、落ち行くこと二十里、遂に馬の渡り迄ぞ追打しにける。軍果て、それより上總へ參り、佐殿へ斯 くと申上げければ、佐殿仰せられけるは、「千葉の曩祖より相傳の妙見守護神こそ、亂軍の中に矢を拾ひ射させ 給へる事、我が朝神國とは申せども、今に於て珍しき事なれ。急ぎ參りて祈念も申すべき也」と、同二十日千葉へ御越しありて妙見御参詣あり。御伴には先陣上總權介廣常、長所太郎重常、長北二郎家仲、次郎常家、伊保庄司常仲、同太郎常信、二郎常明、小大夫時常、佐是四郎祥師、天羽庄司秀當、常間、同四郎師常。安房の 國には安西三郎景益等一門、其の勢一千餘騎、千葉へ館して御移りあり。結城野には白旗二三十流押し立て給 ふ。千葉介常胤、胤政、成胤三家六頭五頭八頭都合其の勢六十餘騎、佐殿を守護し中して、近所の江戶、葛西、 大井、品川、豊島、足立の面々參られけり。それより武藏國へ打越え給ふ。千葉介常胤 一千餘騎にて御供せり。 その後備前の小島、壇浦、平氏追落の時までも、まさしく妙見大菩薩化現し給ひて、佐殿を守護し給ふもの也。
一、照覺は胤綱の甥にて、第七世の座主也。
一、胤綱正山と稱す。年三十一にて御捐館、榮照院殿と申す。實に安政二年丁卯五月二十七日也。御子二人。時胤外一人女子也。
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一、時胤大應と申す。年二十四にて御捐館、法諡常光院殿と申す。實に仁治三年壬寅九月十七日也。此の時まで妙見御內陣にて、琴及び琵琶共の他十二樂の聲ありて、管絃さまざま也。時胤御一門諸侯集會して是を聽聞するに、琴琵琶の音は常に絶えずとこそ。
一、頼胤常善といふ。年三十七にて御捐館、長春院殿と申す。實に建治元年癸卯八月十六日也。御子三人。內一 人女子也。龜若丸七歲の御時、武藏國府三郎母方について親類也とて、鎌倉に上りて龜若丸を失ひ奉らんとす。 千葉の民妙見の御前にて嘆き申されければ、御內陣に弓弦の音して、鏑矢一枝西を指して飛び行くと見奉るに、 品川宿にて國府三郎死せり。さて龜若丸は千葉へ御歸館也。衆民喜ぶこと限りなし。
一、都の東山に酒顚子ぞ住みける。院宣によって保昌これを退治す。此の刀内裏に納め奉る。これを保昌の懐太刀といふ。
一、胤宗在京、善珍と稱す。御捐館は年六一、法諡満照院殿と申す。實に正和元年壬子三月二十八日也。御子三人。長子貞胤、二男第八世座主覺源、外女子一人。胤宗在京の日、殿上の女房に契りて、遂に保昌の太刀を 盗み出さんと謀りけり。此の事內裝へ聞えて、彼の女房は内裏にて失はれけり。その追福の爲にとて、阿彌陀 七體千葉の庄の内に建て給ふ也。
一、妙見納物とて、火取、水取玉、牛王、一條院の薄墨の御證文、七難開毛三筋長さ七尋也。鳳凰羽五本、いづ れも箱に入れらる。頼朝の納め給ふ白絲鐀、甲御多羅枝、鴇羽征矢三尺八寸、劍廣光作也。蛇卷けば即死す。 保昌懐太刀、即ち童顚子を討ちし刀也。二尺七寸菖蒲作り也。良文よりの納物ともいふ。皆秘事とする也。
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一、貞胤在京善珍と稱す。御捐館は年六十一、法諡淨德院殿と申す。實に観應二年辛卯正月朔也。御子二人。女子一人。此の代には、妙見大菩薩千種に頼れ給ひて、守護し給ふ事限りなしとぞ。一門繁昌國內平治、士民喜 び申す也。此の代より時宗にならせられ、法阿彌陀佛、諸沙汰の御使を常覺樣其に仰せつけられける時、「御神に疵なつけそ。御院内に疵なつけそと、前代の事不入を申出して、沙汰強く申さろべし。愚僧に落度あらんには、某一人當院を罷り出で、疵つけ申すまじ。妙見をば供分証人家風に渡し申すべし」と、仰せ付けられしまま、御使に申すこと安く行ぜらる。いづれの御上さまも才蔵に在されたらんには、何事もよくあるべきにや。
一、千學集と申すは、御家代々引付と、妙見御相傳の正月三月の夜の修正とは、千文字葉文字の二字を題として、 よろづの言の葉を続けて、年中の事を想はし給ひて、妙見の御前にて慚愧懺悔をし、年中の悪念を挑む祭る事 の御鈴也。これ御一門及び國內繁島の御念也。
神代より取りへたろ鈴の音を
聞きて千とせの春にあふかな
鈴の音に悪しきを集め振り捨てゝ
善しとぞ思ふ新玉の春
一、上野國群馬郡府中花園村七星山息災寺より、武藏國藤田へ御渡りありて後、秩父郡武光命(たけみつみやぅ)の內大宮へ移し り、又陸奥守良文鎌倉へ御供しに居住し、八國を領し子孫繁昌する也。遂に村岡ひとみ よって良文を村岡五郎と申す也。御孫忠常上總へ移り給ふ時、仁見に三日逗留なされけり。人見妙見是也。忠
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常上總上野鄉に移住し、後に下總に移り給ふ。是より忠常を下總權介と申す也。同東の大友へ御供也。東追友とも。東大友妙見これ也。又上總大椎へ移し奉る。されば妙見大菩薩は千葉嫡家に附かせ給ふ。これによつて下總千葉店池田郷千薬寺の宮へ移し奉る所、常重三男胤高これを竊み奉る。急ぎ追掛けしに、池田なる田の中へ慝しけるを、やがて尋ね出して常重の主殿に安置し奉りけり。上下步みを運びる祈念しけりとぞ。
一、氏胤在京、常珍と稱す。御捐館(闕)實に貞治四年乙巴九月十三日也。御子四人。長子滿胤、二男宗胤千田太郎、三男重胤馬場八郎、四男胤富原孫次郎。
一、滿胤道三と稱す。御捐館は年六十四、法諡德阿彌陀佛と申す。實に應永三十三年丙午六月八日也。御子四 人。長子滿胤、二男康胤店加殿、三男胤賢中務大輔、四男圓覺第九世座主、遷化六十八。 武洲河迦に大地ささら舞といふ所あり。胤賢御腹被、成候。こゝに千葉殿の御廟とてあり。「歸りてな!」とて御腹なされ候也。
一、兼胤喜山と稱す。御捐館は年三十九、法諡眠阿彌陀と申す。實に永享二年庚戌六月十七日也。御子三人。長子胤直、次は女子、次は男珍党第十世座主、遷化五十五。
一、胤直相應寺と稱す。御捐節は年四十二、法諡帳阿彌と申す。實に享德三年甲戌八月十五日也。御子三人。長子胤將、二男胤宣五郎、十六歲にて卒す。三男龜乙丸は實胤也。御子自(これ)胤、御子盛胤、御子治胤、御子範胤、 武藏國三久の屋形也。胤直の妙覺質第十一世座主也。
一、胤將高山と稱す。御捐館は年二十三、法諡厳阿彌と申す。賞に幸德三年甲戌六月二十三日也。御子なし。千 葉にて御逝去也。
12(180)
一、胤宣五郎照山と稱す。享年十六、法諡重阿彌陀佛淨應と申し、實に康正二年丙子十月朔也。御子三人。長子胤持、外は女子也。康胤初め常陸大掾殿の養子に罵らせ給ひ、後歸りて、馬加に屋形造りをなさ れ移らせ給 ふ。馬加にて其の儘千葉の御家を御機ぎなされし也。
一、胤持大覺と稱す。平山に居る。御捐館は年二十二、法諡興阿彌陀佛と申す。實に康正二年丙子六月十二日也。御子なし。成氏の味方して上總八幡の合戦に討死、御頭は都へ上りけり。馬加殿の御子二世に亡す。 八幡無量寺を創立して胤持の御廟所とせし也。
一、屋形さま御紋、亂れ星の以前には、松竹に鶴の丸也。松竹を御家の紋になされ、鶴の丸をば海上へ進上せら れけるが、後には鶴龜にて在しましけり。 大治元年丙午六月朔、初めて千葉を立つ。凡そ一萬六千軒也。表八千軒、裏八千軒、小路表裏五百八十餘小路也。曾場騰大明神より御達職稲荷の御前まで、七里の間御宿也。御場心より廣小路谷部田まで、國中の諸侍の 屋敷也。是には池內鏑木殿の堀の內あり。御宿は御一門也。宿の東は圓城寺一門家風在しまし、宿の西は原一 門家風在します。橋より向御遂報までは町人屋敷[口人屋敷]也。これによって河向を市場と申す也。千葉の守護神は曾場鷹大明神、堀內牛頭天王、結城の柳明、御達報の希荷大明神、千葉寺の龍藏權現これ也。弓箭神と申すは、妙見、八幡、摩利支天大菩藤これ也。千葉御神事は、大治二年丁末七月十六日より始まる也。七世常重御代の事也。御幸假屋は御主八人、祉家八人、乙女四人、御祭の御舟は宿中の老者の役也。供物は千葉、中野十三貫ところ也。月(おとな)關錢諸付衆上げ申す也。一關は假屋の供物を神主に取らせ、一關は老者に取らせて御祭を勤め申す
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他。結城舟は天福元年癸巳七月二十日より始まる也。十二世時胤の御代の事也。御濱下りの御送捷りの御舟也。 結城の村督に共倉出雲守と申す者、永鏡のために取立てし者也。結城は今の寒川也。大治二年御神事の始まりしょり天正二年甲戌まで、凡そ四百四十八年[三百四十三年]。尊星王菩薩は慈悲深重 に して、「正直甲なる人を守ろべし」 との御誓也。正直甲とは、例へば千騎の主、百騎の主、等しく物を申上ぐるとも、大人の非道を道理とし、小 人の道理を非道とし、別けさせらるるは甲人に非ず。これを妙見菩薩は捨てさせ給ふ也。小人の道理を理と し、大人の非道を非道と別けさせらるは甲人也。是を守り給ふ也。正道甲なる人と申すは此の事也。例へば 胤直御代に、原越後守胤房家風と、圓城寺下野守直重家風と口論して訴へしに、胤直その時下野が非道を道理、越後が道理を非道と別けさせられしより一亂始まる也。胤直仰せらるには、「下野は多勢、越後は無勢なる故 三年原文に、下野を引き給ふ也」と。これによつて菩薩は胤直を捨て給ひけり。享徳三年[二年]甲戌正月二日の曉、片野美濃 二年守胤定籠り奉る所、十二歳ばかりの小童、甲胃を帶したろが、美濃守に告げて云ふ。「神風に吹き散されて胤直 のすけもはしらもかなはざりけり。」美濃守申して、「旦那原方はいかに」と問ふ。童子再び告げて云ふ。「神風 の長閑なりける時にこそ高天が原の末ぞ久しき」と、御聲ありて失せ給ふ。二首の御詠歌を、左衞門大夫秀義千學集の中へ書き入れ置かれし也。
一、上野國群馬郡花園郡七星山息災寺は、人皇四十五代聖武天皇御物頭所也。行基菩薩御建立、神龜五年(戊辰[己卵])八月十五日開基也。御本尊は北辰妙見大菩薩七體在します。本地七佛薬師七星にて在します。此の中に於て、羊妙見千葉へ御移らせ給ふ也。
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一、下總國千葉圧池田堀內北斗山金剛授寺は、人皇六十六代一條院の御勅願所也。長保二年子九月十三日大僧正覺算和和尙御建立。御本尊は北辰妙見、尊星大菩薩、國主下總權介平忠常御代也。此の菩は本地東方淨瑠璃世界の主藥師破軍星にて在します也。此の寺は調伏服滅の事はせず、御神の御祈念まで也。六院の供分は後六 東の御建立にて六東餅願所也。此の寺六院六坊所也。六坊は院家の老にて御番と申す也。
一、康胤は馬加殿にて在す也。滿胤の次子にて在せしが、常陸大接殿子なきにより養子にならせらる。後大掾殿 實子出來しま、下總へ御端りありて、馬加に屋形造りして在し、馬加殿と申す也。大嶽殿重代の刀持たせら れ、今に佐倉にありとぞ。
一、原越後守胤隆三男範覺え、第十二世座主遷化年四十三。
一、輔胤築常と稱す。御捐館は年七十七、法諡公阿彌陀佛。實に延德四年玉子二月十五日也。輔胤は氏胤の曾孫 にて岩橋殿と申し奉る。平山へ御上り也。御子三人。孝胤、二男源意即菊間御坊、三男胤次道雨と稱す。椎崎 十郎。氏胤三男重胤馬場八郎、重胤の子胤依より。胤依の子三人。長子金山、二男公く津、三男岩橋殿は輔胤也。輔胤二男源意は成身院也。子源秀は光雲院也。子源長は天生院也。成氏の若君蓮花光院殿の御弟子に參り給ふ。 此の時菊間八幡の御社領なりに賜はり歸り給うて、菊間に在す也。長崎お移りの後佐倉へ移らせらる。
一、 孝胤常輝と稱す。御捐館は年六十三、法諡眼阿彌陀佛 。實に永正十八年辛巴八月十九日也。平山に居り、佐倉へ御上り也。御子三人、長子勝胤、二男胤家氏戸殿、三男小納言殿、其の子右馬助おもいい殿。
一、勝胤常奯と稱す。御捐館は年六十三、法諡阿彌陀佛と中す。實に享祿五年壬辰五月廿一日。御子十二人。
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、
長子昌胤、二男勝住椎崎駿、三男胤重神島殿、四男勝門公津殿、五男公弁、六男常覺岩橋殿第一三座主七男一印吉祥盛胤 一本寺、八男阿彌海隣寺、九男覺胤[覺鼰]第十四座主也。外三人女子。
一、昌胤常天と稱す。御捐館は年五十一、法諡法阿彌陀佛。實に天文十五年丙午正月二十七日也。御子二人。長子利胤、二男胤部臼井四郎、三男胤常海上九郎、四男は親胤也。
一、利胤展賀と稱す。御捐館は年三十、法諡覺阿彌陀佛。實に天文十六年丁未七月十二日也。御子なし。御位には御弟親胤御直也。
一、親胤常圓と稱す。御捐館は年十七、法諡眼阿彌陀佛。實に弘治三年丁巳八月七日也。
一、胤富常圓と稱す。御捐館は年五十五、法諡共阿彌陀佛。實に天正七年己卯五月四日也。 康胤の時、兼胤、胤直、胤將三世をば家系より擯詘して、胤富を二十七世となす。千葉養運御子にして胤常の養子覺全第十五世座主也。
一、邦胤常琳と稱す。御捐館は年二十九、法諡法阿彌陀佛。實に天正十三[十二]年乙酉五月七日也。御子[御孫]二人、長女條氏康の御孫にて在し、次男新田に在します。御子細王殿三歲の時、邦胤御捐館也。
千葉御家御元服儀式の事
桓武天準の例に任せ給ひて、今に於て御位に印かせ給ふ所は、遠くは天竺の太子壇特山に登りて御即位也。 大唐王子天台山に上りて御即位也。近くは日本王子比叡山に登りて御即位也。其の例に倣はせられ、葛原親王
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高見親王高望親王いづれも山にて御即位なされし也。高堂の御子良文比叡山にて御元服あらせられ、後陸奥守 となりて陸奥へ下る。又、關東へ移り給ひし時、若君をして上野國息災寺妙見大菩薩御宮前にて御元服なさしめ給ふ。即ち上野次郎忠頼と申す也。此の例に随ひ代々妙見の御前にて御元服あらせらる。下總梶介忠常は堀內に於て妙見大菩流を崇め奉り、北斗山金剛授寺尊光院を建立し給ひ、住持より御字を申し受け、御神前にて 幽を取られ、御字を定め御元服あらせらる。此の時、寺家秘訣毘沙門天を妙見菩薩の御代りに、新介三度まで 拜し給ふ也。忠常、常將、常長、常兼、常重、常胤、胤政、成胤、胤綱、時服、頼胤、胤栄、貞胤、氏胤、滿 胤、兼胤、胤直まで以上十七世とち堀內妙見宮にて御元服也。其の後、康胤御子胤持、卵胞、孝胤、勝胤まで 以上五世は平山に在しければ、平山より御參詣ありて、妙見宮にて御元服也。御供兩人、家子郎躍に定めぬ。 御警固御人數、國中いづれも御供也。其の例に任せ、昌胤御元服の時も、佐倉より千葉へ御参詣あり、妙見宮にて御元服也。平山に在す迄は、正月三箇夜の御鈴をも、千葉堀內妙見御假屋にて御取りなさる。それ迄は、 內の面東に陣屋を作られ、國中諸大名諸士御年なさせらる。此の陣屋をタウヘン屋と申す也。
一、孝胤の御時、公方様御發向ありて、篠塚に御旗を立てさせられしを、本間殿六崎にて孝胤に途ひ、三簡年間 御旗を立てさせられ、御退治を加へらる。但し、「御覺悟によつて御臨座あるべきか。御子一人御字を御請けあ ろべきか」と仰せ渡さる。孝胤御返事には、「来代々妙見菩薩の宮前に於て元服いたす事なれば」と也。本間殿「第二の御子を」と仰せらる。孝胤申しけるは、「其の家は、二男は子に一字を申し講けらふる」由をいふ。本間殿力なく馬を返されき。誠に妙見大菩旅の守護し給ふ故にや、やがて敵を破られられ、其の後孝胤御
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孫勝胤長子昌胤とも妙見宮にて御元服なされけり。孝胤は正直甲にて在せし也。
一、永正二年乙丑十一月十五日昌胤御元服につき、高篠より妙見宮へならせらる。島硝子装束にて御參語也。御先打は原孫七也。後陣は幡谷加賀守也。二騎御供にて若侍女騎御供也。警固の人數二百騎、千葉まで五百騎、 警固は高篠まで也。住持御使して中途まで出迎ふ。本庄岡書助參り申し、上様に拜顔の後、木村出雲守と同心 申す。高篠にて御字を三つ講取らせられ、宮前にて御髄を取り、御字を定めらる。出雲守講取りて高篠へ參ら る、高篠より千葉まで警団の面々生足也。馬上はた三騎也。下部排人、原孫七高篠まで參られ、御對面あり て御酒下さる。御先に中治は左、別當は右を歩む。民野竹の根を持つ也。次は御太刀、次は緞帶入にて、長具足なし。堀內の南門にて下馬なされ、惣代[惣大]七血大明神の御前に七五三を引き、妙見御參詣の道より御庭まで新菰を敷き、南草履を召させらる。馬加の直役也。御庭より御香を召させらる。鎌倉三郎次郎役也。住持庭上まで出迎へらる。郷前にて御洲北線、御脚へ御酌はの供僧同荷用供分なさせらる。御縁には椎名伊勢、井田美濃、二騎總酒の時、住持參りて魚を取り上げ、二騎の御供召し出し、御役人木村左京亮三人住 持を召し出し、屋形様の御依供分中參りける也。御供警商御人數御馬御服の刀納めなさる。人々を住持の盃に て召し出す也。院家老者二人、屋形様御益にて召し出し下さる。神主は神前へ召し出され、御然下さる也。惣 御座過ぎて、御太刀持吉原を住持召し出し下さろ也。御神前進物の次第は、御馬一疋、御太刀鳥目千定、所器 一所、御寄進也。御柳樂二百定は大夫所への御使木尉持 參らる。 宮へ鳥目百足、姉利支天神へ向直進、千葉寺龍城權現へ同百疋、御逢報稲荷大明神へ同五十疋、御使は安藤豐
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前守、脚主所へ御使は兩人也。なほ、御馬腰刀納められける人數の事は、
御馬一定 御太刀一股
井田美濃守 海保但馬守
本圧源四郎
佐久間伯耆守 山梨主稅之助
本庄彌太郎
金剛寺少弱 和田大藏丞
坂戶兵部少輔 坂戶修理之亮
三谷孫四郎 粟飯原久四郎
椎名八郎 木村出雲守
坂戶孫三郎 三谷藏人佐
安藤豐前守 山室孫四郎
粟飯原孫太郎 幡谷宮內少輔
鉤木助太郎 三谷大膳亮
栗飯原大學
幡谷叉六郎 此の外國中面々百餘人
一、若侍二十騎、御供衆木多陸橋左右に分れ御庭に踞る。その中へ将一對、御肴七獻、御酌中山八郎三郎御警固の人數老敷人々は東の御庭に踞ろ。其の中へ御樽一對、御肴七獻、御酌本庄圖書助下部二十二人の著、西の
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御庭に踞る。足へ樽肴を下さる。酌は承七郎五郎御座七獻の御酒過ぎて、外陣迄老敷面 々參らる。井田美濃守、海保但馬、金剛寺少粥、佐久間伯耆、坂戸、山梨、山室、和田の人々參りて後、御警固御供人數御前へ召 し出され、御酒下さる。御下向の時は御庭にて住持三度の禮あり。中途まで御送りに參られ、やがて先例の通り使を以て申述べらるゝ也。
一、御參詣の御祝言として、寺家より御馬一疋、住持の御代官蓮乘院、御使は本庄圖書助御下部三人御引手物也。 御代官は卷物一也。圖書之助へ卷物一也。下部三人へ鳥日百起也。御供分衆へ同二百疋、老敷者六人家玉二百疋也。供物は妙見を守り奉り、神前に居れる者也。承下部力者中へ御馬一疋也。御供分の役三人、雑掌仕兩人 へ褒美先例の通り下さるゝ也。
御肴七譜 御酒七献
初獻 三組 盃は土器也對主 二膳
二獻 ふの吸物 足附の盤
三獻 雜煮 足附の折敷 二膳
四獻 昆布いか 足附の盤 二膳
五獻 雞卵 足附折驗 二膳
六獻 芋巻 足附の盤 二膳
七獻 麵子 足附の盤 二膳
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いづれも、新しく造りて繪を描く。いづれも、盛臺は塗物也。御供二人は不折敷繪を描く。御盃は、禮酒は士器、燗酒は塗物益也。三くみは昆布、かち栗、餅、一重ひし形也。此布は下に四すぢ、上にたつに五すぢ、九 の字に象る也。栗は七つ、雑煮の御時も、お盤の向ひに昆布、餅を置く也。御箸は、如何にも直に置き中すべし。
七獻は神の御料ともに屋形様五獻、住持は三獻、屋形様は四獻以上七獻也。神様へは御神の御酒ともに以上五獻也。初獻は上様、二獻は住持と、七獻を打替へ替へ上様住持御箸なさる。御希御神一膳、上様一、二騎の 御供へ二膳、住持へ一膳以上五膳也。
一、承卒三年発巴十二月廿三日妙見へ御供申せし時、常時息災寺太夫末子乙壽に、「妙見御供申せ」と、懇に語らる。「みづからも同心」と申して、妙見の御先に立ちける道を見て御供申なりとぞ。さて大椎より千葉へ御供申す。今の御先佛の大夫の先祖也。それより千葉に居住す。
一、屋形様御役人の子金親は、御旗差の御役なり。中治は御長持取り出し申す。御陣にての奉行也。此の故に、 いづれも名字の者也。小別當は御幕を打ち申す。庭にての御用人也。即ち御下部といふ。千葉にての役は、中治は正月三箇夜の御假屋作りなる也。小別當の役は、御假屋の御門を莊る也。又神主三箇夜取らるゝ鈴を直し、且、御庭にて網燈を重雜色は御陣祈の役也。
一、當寺の前代は、六院六場にてありしが、胤直以來六院になられ、六坊は已に退轉す。六院は六東の願所と して、六東より建立せられしゆゑ、六東の名を定め給ふ也。六坊は原、園城寺、粟飯原、三谷、椎名、鏑木、
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池內の名字中、六坊に定め給ふ十二供也。近年は當院の老敷者の子ども供となられ、名字なき者は供分にはな れざる也。
一、昔、妙見大菩薩、屋形御堀內に在しませし時は、粟飯原、三谷、椎名、鏑木、池內の人々妙見を守り奉りて御番なされき。胤直の後當院へ御移り、住持覺實客殿に移し参らす。後は供分六人、六坊には院家老各六人して妙見宮御番申す所、範覺の代軍役なされしゆゑ六人の番破れにけりとぞ。
一、南御所様義明小弓御座の時、大永七年丁亥[丁卯]十一月廿五日範覺の佐倉へ罷る時、妙見の前立あろ御供は勝胤様 へ進ぜられけり。勝胤御精進なされ拜し奉る也。御參詣は享録元年戊子二月朔より七十五日まで御精進なさるる也。卯月五日御參詣、御供には山梨薩摩、鏑木神六兩人也。行水三度他。兩人は烏帽子上下を召さる。御精進 は魚、鳥、韮、葱、大根、大蒜、紅蓼蘭葱也。妙見大菩薩御參詣の容體、御元服の一儀也。御進物も様々也。
三夜御鈴の事
一、正月三夜の御鈴は、御幸ありて、彼の屋形様ならせられ、御鈴始まろ也。眹ひ申す事恒例也。座主を取り初めて、屋形様御取りあり。御一家中面々に取られし後、座主妙見の御前にて御祈願申さるゝ時、左衛門太夫萬歲、と三度申す。屋形樣座主樣兩御方座に直り給ひて御盃出づ。屋形樣御酌にて三獻三三九度御式代あり て、初獻は屋形様、二獻は座主、三獻は屋形様召し上る也。御酒過ぎて罷る時、縁にて三度御禮有り。座主神主供分には縁にて二度御禮有り。供分に御酒御式代座中儀式は座主の如く也。三夜の鈴の御禮として、宿坊へ
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御使一佅一本御越しなさる也。
一、正月三參られける時、まづ御茶御酒御育五獻三度の御式代にて、御酒は三夜の如く也。同宿二人、殿ばら二人、中山本庄召し出し下され、御返禮をば宿へ御越しなさる也。御門送りは、十二間の縁まで三度御禮なり。代官には二度の御禮也。
一、椎崎、公津、鹿島、六東の一家中ども、御門送りは庭までにて、庭にて三度の御禮也。何方にでも殿ばら召し出し賜る也。
一、正出生實(おしみ)へ罷りける時、まづ御茶御岩七獻酒過ぎて歸りけるに、門送り緣にて二度、庭にて一度、三度の禮也。同宿二人殿ばら何れも召し出し賜はる也。返禮御使にて寺家へ御越しなされけり。
先代掟之事
一、座主供分と御神前にて左右に分れ御座(おは)す也。西座。
一、御神楽奉幣上げ申す也。柳主禰宜は內陣の左に邸ろ也。
一、增寺出仕には外陣の右に踞る也。
一、夜番の事、先代は供分六人、殿ばら六人、二人番にて守り奉りき。範覺の時破られき。あとは老成者六人の役也。
一、六供の御座上の事、打長に随ひて次第不同也。西藏院、蓮乘院、慶陽院、真如院、圓勝院、福壽院、以上六
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僧也。正月出仕には同心也。御布三獻三度の式代、御益は座上より始まる也。
御茶子御茶三組の禮酒雜煮燗酒也。
一、老成者の事、中山、本庄、金親、高千代四人、正月出仕次第不同也。御酒布二度御式代座にて下さる也。餘 の家風は背召し出し下さる也。
一、神主禰宜出仕の事、供分同様三度の式代、三代の修正過ぎて假屋にて酒下さる。先代鈴の所也。常覺御代は内にて下されき。屋形へ出仕も內にて御酒下さる也。
一、御奉射の時、御宮にて酒三獻、その時、供分中社人衆殿ばら衆御酒あり。住持は出でざる也。三獻にて酒まるとはる2。社人初めて打的を射るとよ禮なり。御射は神主大夫八人、供分六人、侍六人、凡そ十人なり。
一、極月二十願に釜を清め、堀內にて御酒を上げ奉り、酒肴供物下さる。御酌は御供役の者也。
一、昔、妙見の屋形御堀內に在せし時は、惣代七社の宮八人の大夫、四人の八乙女を集めて御神樂を上げ申さる。 大旦那國中御祈願申す也。八人の大夫は白張鳥帽子子に上下を着する也。四人の八乙女は袖振を着し、鈴と扇を 持ちて命舞をする也。袖振は金襴緞子也。色あろ緒もて仕立つべし。袖は大にして紅絲にて寄せ置くべし。
一、八人の大夫の事、第一左衛門大夫は左近四郎、第二左近八郎、第三彌九郎笛の役也。第四兵衛五郎太鼓の役也。第五兵衛二郎小鼓の役也。第六民部四郎鞨皼の役也。第七民部五郎太皼の役也。第八左衛門四郎大拍子の役也。惣代の宮にての事也。
一、四人の八乙女は、第一米市、第二専市、第三松市、第四乙市これなり。神事正月五節句斯くの如し。
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一、六人の供分は、屋形の堀內に妙見在せし時は、住持の客殿に六供來りて御祈願申せし也。甲戌3年の世の中より後、妙見大菩薩を住持覺實の在せる客殿へ移し奉り、供分社人一所にて御祈願申す也。今の御社の在所これ なり。彼の客殿炎上しぬ。二十三世輔胤の時、五間四方に假屋をば立て給ふ也。二十八世親胤、原式部大夫胤清代に元の如く御建立し給ふ也。座主覺胤の時とぞ。
一、院家の諸沙汰掟の事、臼井に原孫二郎胤貞在せし時、圓城寺右兵衞永忠當、原大藏永胤安、此の兩人の異見に任せ、本庄內佐助に申し付けて相定められき。
一、當院の遁世者髪剃る事有るべからず。切成とち息災所の法也。其の儘送るべき也。
一、先代は住持供分菩提所法東院といふ院家に位牌を立て申し、夏中經二記彼岸經をば六人まゐりて讀み給ふ。 盆の棚をも此の院家に結び、住持供分參りて水を手向け、代々を吊ひ申す也。住持の居所には位牌を立てずし て、彼の院家に立て申す也。
一、範覺の時、彼の法東院破れて、眞如功に盆の棚を結び、位牌を立て申す。夏中經二記彼岸經を讀み給ふ時、 蓮乘坊定實と中す供分、「我等眞如坊の衆分とち存ぜず。それに日每に參り申す事の口惜しき」とて、妙見宮の番屋にて夏中継彼岸經を讀み給ふ也。常覺より此の方、住持居所に盆棚を結び、且又、位牌を立て申す事始まる也。彼の法東院の寺領は小作の內院內方と申す所也。後日のため記し置くとぞ。
一、當寺を一條院の勅願所と申す仔細は、聖武天皇勅願所は息災寺なれば、これによつて申す也とぞ。
一、承平三年癸巳十二月二十七日、文二郎倉の煤を卸して妙見大菩流を入れ奉ろ也。年中の事十二月二十三日、
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同二十七日、正月朔、二、三、同七日、望、二十二日、三月三日、四月八日、五月五日、六月七日、同望、七 月七日、同既望、同念、同二十二日大祭也。十一月朔、同望、每月朔、望、念に御祭り申して御神樂上げ申す也。
一、大御供は十三膳、中御供は九膳、小御供は七勝也。
一、寺中兩國の內諾所御神領等守護不入の事は、當寺を御建立なされける下總權介平忠常開基の後、不人に定め 置かれき。胤將往古の例に任せ、不入の證文帳をば納められけり。これによつて、諸沙汰諸役以下住持申し付 けらる。「守護檢斷外には、一人も入らぬ」といふ意にて、若し神明敵對の終ありて不入を破らんとならば、大菩薩を屋形様へ返し中して放火すべきか。又は屋形様御手引の地へ移し奉り、供僧証人家風とも御供申して寺 を開くべき也。住持たらん済、萬事常に覺悟せらるべき也。其の期に臨みて狼狽せらるまじく候也。範覺
一、妙見宮賽錢の事、五十疋、百疋、二百疋、三百疋、馬、太刀、刀、小袖、總じて納物は住持神主これを分け 取らるべし。十疋、二十疋、三十疋、五十文、三十文は供分これを取らるべし。十文、二十文、蒔錢は僧寺こ れを取らるべし。御神樂錢は大夫これを取らすべし。屋形様一貫二百文、原、木內御一門百疋、御家風中五十 疋以下の人々三十疋づゝ在す也。
一、屋形様千葉より平山へ御越し、又長崎へ移らせられ、それより佐倉へ移らせらる。文明十六年甲辰六月三日佐倉の地を取らせらる。庚戌4六月八日市の立て初め、同八月十二日御町の立て初め也。二十四世孝胤の御代とぞ。立てての後、永祿三年庚申まで七十九年也。或は云ふ、立てゝの後九十一年也と。元龜四年癸酉十二月十月二年
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四日夜炎上しけり。
一、七世常重の代、大治元年丙午六月朔、初めて千葉を立つ。立てゝの後、永祿三年庚申まで凡そ四百三十五年[八十年]也。頼朝の代治承四年庚子[元年丙辰]八月六日、初めて鎌倉を立つ。立てゝの後、永祿三年庚申まで凡そ三百八十一年也。千葉立ちて五十五年[五十年]の後に鎌倉立てり。
一、十九世胤直の千葉を退散せしは康正元年乙亥三月二十日の事也。永祿三年庚申まで凡そ百五年也。持氏の鎌倉を退散せしは永享十一年辛酉二月十日の事也。永祿三年度庚申まで凡そ百二十年也。
一、下總國北斗山金剛授寺は一條院勅願所、本尊妙見大菩薩、大僧正覺算和尚用基、長保二年庚子九月十三日也。 下總權介平忠常御建立、薄然の御證文あり。權大僧都、權律師、阿闍梨の官までなられき。
住時代々血脈の事
第一大僧正覺穿和尚 三世平忠常御二子 第二權大僧都覺永 五世常長御七子
第三權大僧都法印行兇 七世常重(甥[御子]) 第四權少物都覺傳 八世常胤御七子
第五覺秀法印 九世胤政御十子 第六大僧正是仙和尚 十世成胤御二子
第七照覺律師 十一世胤綱(甥[御子]) 第八權少僧都覺源 四世胤宗御二子
第九圓覺法印 十七世滿风御四子 第十珍覺法印 十八世兼胤御三子
十八世兼胤御三子 十九世胤直(甥[御子]) 第十二糖少價都範覺 原越後守胤降三男
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第十三常覺僧都 廿五世勝胤御六子 第十四權大僧都覺亂 廿六世昌胤御子(勝胤丸子)
第十五權大僧都覺全 廿九世胤富養子(千葉養迎子)
一、金剛授寺立ちて後、天正十年壬午まで、凡そ五百八十二年なり。
供分本坊
第一好寂坊市原九郎勝子 兵如坊二代成就院成就坊 第二西藏坊佐久間子 成福院西龍坊
第三班乘坊小野道印の子 今昔同三代明勝院 第四福秀坊神主子 五代共替利勝院入人
第五寶光坊草香邊殿子五代替わる 延命院人人 第六宗持坊膳金子 慶陽坊龍珠院となる入人
供分本坊是也。昔は師阿閣梨にて御仁なされき。覺實の御時まで寺家脇坊にて在しまし、妙見寺家へ移らせ 給ひし後供分坊と號して背々屋敷を立て、一坊毎に代り在します。即ち覺賞の御代也。
妙見宮御番の事
胤直の時、妙見菩薩を寺崎へ捨て申せし所、覺實法印御供ありて十二間の客殿 へ移し參らす。「屋形様より大切の御神預也」とて、供分六人に老成者六人さし添へられ、御番仰せ付けらるゝ也。覺質は外の屋敷寺家へ移ら る。妙見菩薩在所は即ち學實の御屋敷也。範覺の時、軍役なさるゝにつき侍番は止められけり。今は供分のまで也。昔は粟飯原を初め御近哲衆までも、妙見御守護を仰せ付けられたり。此の番の事は、範覺軍に出で給ひしより破れぬ。以前には確と二人番にておはしき。
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好寝坊 相番殿 (此跡は 深山圖書之助圓學世郷孫供也) 西龍坊 同 澁井殿(同跡 那須源三左衛門)
蓮乘坊 同草香邊殿 (同跡金親三郎左衛門) 福壽坊 同山崎殿 (同跡 金親兵部少輔)
實光坊 同高知丸殿 ( 同高知丸八子也) 宗持坊 同市原殿 (是は退轉す)
一、金剛授寺覺鎮和尙三世希覺、「我は社僧也」とて、盆棚を結び、保延三年丁已八月二十二日實院憧を建て給ひて二記彼岸經を讀ませられ、串鹸に水を手向け給へり。
寶幢院
第一覺乘法印、第二覺清法印、第三覺授法印、第四覺養法印、第五鐘覺法印、第六覺朝法印、第七覺專法印、
第八等覺法印、第九欽覺法印、第十快覚法印。快覺の時貸確院退轉す。
金剛授寺十四代覺胤法印寳憧院を再興 し給へり。往古より本尊は阿彌陀如來なり。
一、當寺より屋形様へ參られし時、御門送り御縁までにて三度の御禮也。御一家は御門送り、庭まで又三度の御體也。覺質の時椎崎道甫長部に在しけるが、門送り縁迄にて歸らせ給はんとしけるを、覺實道甫の袖を取りて 庭へ引き下し給ふ也。常議樣は常覺の御門送り御縁までにて三度の禮也。坂戶上野介、「御父子の御 間 にて在 せば」と申されけり。「常嚴新介殿御らん候ま、前の如くに」と、仰せ出されし由、いづれも存ぜられ候事。
一、屋形様三十餘世にならせられ、當寺は十五世也。屋形様御二男をば常座主になさる也。もし御曹子樣御移りなき時は、供僧家にて寺家を持たれて御移りを待たれける也。例へ御親類たりとも、御苗予在さねば座主に はなられざる也。
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一、惣代七社の宮は、八人の宮人、四人の八乙女參りて、屋形樣國中の新願申さる也。昔は妙見宮にては、三上面の時より妙見宮にて御祈願申さるゝ也。三上但馬守。
一、一條院薄墨の御證文は、範覺の世に井の屍を持たれし時、永正十三年丙子八月二十三日三上但馬守二千餘騎にて押寄せて打落す。此の時薄墨の御證文は實器とも背失せにけり。天正十年壬午まで六十六年也。
一、中山殿と申すは、原越後守胤房の末子胤宣、中山八郎太郎といふ、後出雲守と申す。子二人、長子胤タダ下野といふ。次子胤義治部少輔。又云ふ。胤宣の子胤次石見守小中臺に住す。胤次の子胤友左衛門承猿又にて死 す。川を知らざるゆゑ流れ給ふ。水練を駆ばざる也。胤往浪人の時とぞ。 一、胤義の四男胤廣、原九郎兵衛胤廣の子胤相、刑部左衛門長子平左衛門、その子四郎右衞門、その子玄蕃殿。
一、治承四年庚子九月六日成胤十七歲、結城合戦より天正十三年乙酉まで凡そ四百六年也。
一、仁戸名の長田善阿彌と申す者の妹聟に、胤善普阿彌力 へ遊山に御出でありし時、 一人の子に契約をばなされけり。此の子七八歲ばかりの時、屋形様の命により新左衛門殿討たれにけり。普阿彌は伯父なれば、 驚きて彼の若子をむさの牛尾なる福滿寺へ具して頼み置きぬ。四五十年の後、胤房より「新左衛門こと、子はなきや」と、御尋ね有り。膳阿彌急ぎ福滿寺へ人を走らせ、胤房へ斯くと申上げれば、即ち召し出し給ふ。「老成者なりし」とて、我が聟なりける近江浪人の西郡源三郎殿を差添へ申せし也。此の時、胤房「わが苗字にてはいかが」と、思し召されけん。牛尾を冒させ、彦七郎殿と申せし也。此の時、檢断役を渡され給ふ。今の西郡これなり。牛尾美濃入道と申すは彦七郎殿の事なり。善阿彌姓の子にて在しき。牛尾の苗子二務有りて口傳
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なりとぞ。
一、千葉大介常長四男賴常は原四郎の初め也。第二常保、常繼、常朝、法常、胤季、胤和、胤位、胤家、胤定、胤惟にて十世也。女子一人在しけり。千葉氏胤の四男胤髙、原孫次郎光岳胤親、孫次郎貞寺胤房、越後守勝岳胤隆、讃岐守全岳朝風、淡路守太岳基胤、孫次郎繼胤祷、式部太夫超岳胤貞、上總介震岳胤榮。十郎式部太 輔九世。
一、原重代の蛇太刀は、氏胤在京の御時に都にて蛇になりけり。氏胤末子胤高に參らせらる。
一、同氏胤の三男重胤、馬場八郎、馬場の初め也。公津へ移らる。郎等圓城寺彈正尙家、同刑部少輔政俊、片野美濃守胤定御供申せし也。
先代御引付の事
一、常院六供は、先代に六東の御子五六七歲ばかりの時には、粟飯原、三谷、椎名の御子になされ、末には當流 の老成者の子に定めらるゝ也。拙夫の類はならせられざる事。此の儀は屋形様に御同座ありて御盃を獻ずる故にこそ。只今[前方には只今]は御一家衆とてちならせらる。御二男在しまさねば、供分家風にて寺家持たれける事、先代より の定めなり。
八世平常胤の末東系岡の事
第一胤頼。東六郎御子三人 重胤兵衛承除東六郎。二男粗方本庄七郎。三男胤朝木内八朗。胤行仲務太夫素暹 基行圓書介行暹 胤仲兵衛丹波守 胤顕遠江守
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胤氏出羽守朝仁 松千代丸禪慶 兼常兵部承 兵部保元 泰常保春
胤頼の後木內系圖の事、
第一胤朝木内八郎左衛門下總介興阿 第二胤成八郎兵衛承 第三胤繼下總七郎 第四胤信左近將監 第五亂持八郎左衛門承誓阿
第六胤安八郎左衛門 第七胤定八郎右衛門 第八胤仲翻小五郎清光
胤仲清光稱す。小見小五郎、上總守護に移らる。喜山御代也。
第九胤義小五郎範應。第十胤邦小五郎不見守寶山。 第十一胤拾小五郎安仲。 第十二胤治小五郎休仲5討死。永正
元年甲子四月十三日。篠塚陣より公方樣御馬御入り遊ばされし時、胤治舅原視降討ち給ふ也。
北條氏家系
第一世良望親王、第二世平將軍貞盛、第二子繁盛、惟時、惟持、惟家、直方、政範、時方、時家、時包、時政 北條四郎遠江守、長時武藏守、義時龙京太夫武藏守、時房相模守、泰時武藏守、時氏修理之虎、賴時越前守、 經時武藏守、時賴相模守西明寺、康元元年辅髮、此の日蓮出世。人皇八十八代後深草帝の御時也。時宗相模守法光寺、貞時相模守㝡勝寺、高時相模守人道宗鋻、二十八萬騎にて上洛力。その時管領にてありし義房相模 守、時盛右京大夫陸奧守、政時相模守淨王寺、廣時修理大夫金澤殿、有時相模守、北條四郎以上二十六世。
上總介家系
一、千葉介常長二男常時晴相馬五郎上總介、常清松間太郎、上總介常澄、廣常上總權介八郎、二男重常長南太郎、常門上總介、常仲伊保太郎、常時、常詮、常信、常顯、三男常實瀧三郎、常則、常家長北二郎、師常、直常、家滿尺
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善二郎、常持、氏常、成常、以上十六世。成常の時退轉也。
一、常清御子胤親、上 總國角田と號す。御子十人。第一信胤横田太郎 第二泰亂大竹二郎子信景野里三郎 第三行信大金三郎 第四間麻里四郎 第五佐胤高瀧五郎 第六景胤金田六郎 第七胤義藤江七郎 第八時親麻里谷八郎 第九隆天羽九郎 第十胤光刑部十郎
惣代七社の事
一、第一陸奥守良文、第二親王將門、第三良文嫡忠賴上野二郎、第四忠常下總權介、第五常時文次郎同娘二人、以上七人。惣代七社大明神と現じ給う。妙見大菩薩惣政所なり。八人社人、四人八乙女參りて、屋形樣及び國中の御祈願申さるゝ也。供分は住持客殿に參りて御祈念申さるゝ也。胤直退散の時、學實客殿へ妙見菩薩を移 し給ひし後、三上亂の時より妙見菩薩立たせられし時にて、供分社人一所にて御祈念申さるゝは近頃の事也。
一、住持世々遷化に、御移跡は死に目に逢ひ給はず。野邊へも御供なし。供分六人老成者も野邊の送りに出で給はず。妙見宮の御番を承る故也。供分中は屋形様諸旦那の御祈念申すの義也。さろからに御出でなき也。いづ れも家風髪剃らず。御神の御奉公申すの義也。身近き者共五三人髮剃らる。御神馬を納むろ者は野邊へは出さざ成。
一、角田第四滿胤の子圓覺十三歲にてなられ、七十八歲にて遷化す。御神御奉公六十五年也。兼胤の子珍 には、學十五歳にて座主となられ、五十七歲にて遷化す。御神に御奉公四十二年也。胤直甥覺實十四歲にて座主とな
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られ、七十八歲大日堂にて遷化す。御神に御奉公六十六年也。範覺幼名千代童、生には暇乞もなく、死しては 死に目にふ事なく、野邊の御供ちなかりき。
一、原胤隆の子範晃十三歲にて座主となられ、四十三歲にて遷化す。御神の御奉公三十年也。那須源蔵・白澤 藤右衛門兩人越して髮を剃りし也。勝胤の子常覺幼名安壽丸とて、範覺の甥にて、主に暇乞をせられ、其の後 に遷化也。九蔵にて座主となられ、四十四歲にて遷化す。御神に御奉公二十八年也。勝胤の末子覺胤二十三歳 にて座主となられ、五十歲にて遷化す。御神に御奉公二十四年也。佐倉より小澤外記・麻生六郎左衛門兩人越 して髪を剃られし也。覺全は十九歲にて座主となられき。
一、當寺住持退轉在しますも、 ゑげ僧時宗など申立つる事叶ふまじ。其の宗の心にて御一代御通し なさ る べき也。覺胤座主の事を本庄伊豆立てけるは、御一代堂客殿じけ樣に在しき。又、屋形様御子にてもおふくろ方甲斐なくは無用になさるべく、其の方の御親類出入家風にきたふちたられ候。例へば、千葉御苗字の御親類に なすとも、十人二十人持たせられし方ならば御用たるべく、院家[院宗]の御意趣失せし家風御神領も世にある人にこめられて、前々不入ちいらぬ様に覚えて、屋形様の御子とても本の御腹ならんには、然るべきにや。さては原殿の子然るべし。それもつきの御腹ならんには無用たるべし。末の世の人々の爲をば申す也。よき御威勢屋形樣が原殿の御子座主にならせられん時、當寺の御法度定めらるべく、不入の御判を御申受けられ、末代の御法度遊ばさるべく、開基の後常胤不入の御判は、當寺建立三世忠常不入の御判、其の後胤將新介の御判、今度胤常の御判、國順の御判、御父子とも御連判にて妙見宮へ納めらる。以上三度也。忠常開基の後、常胤の御判は
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御縁起引きつけ御支料不人の狀、一條院の薄墨の御證交は三上の亂に猪鼻にて失せにけり。胤將の不入の御判 は今もあり、當屋形様の御判も在します。守護原殿の御判なき故に、牛尾殿よりむづかしき事ども幾度在せつ れとも、遂に罷りならず候べし。此の爲にて候まゝ、屋形様の御判の上にもなほ又小弓の殿さまの御判をも申 受くべく、この分よくよく心得然るべき也。
一、海上の紋は、昔は九曜にて、小紋は鶴の丸也。賴朝當國を討たれける時、三家六東參られける海上太郎常幹に、御扇に鶴龜ついたるをば御手移しに賜はりけり。それよりして小紋には鶴龜をぞせられける。海上は丸鶴也。そしは舞鶴也。
一、海上庄は三鄉也。舟木郷千貫、本庄獅子賞、絳根郷千貫、以上三千貫の所を海上庄といふ。本庄二郎常高は海上二郎常幹の弟也。本庄郷に住するゆゑ本庄殿と申す也。此の時、海上三郷第一の人と謂はれき。
一、良文五世千葉介常長、四男賴常原四郎の後十一世風雅、女子一人、千葉十廿六世氏胤四男胤高原孫次郎光岳、 胤親原孫二郎貞岳、貞岳の末子胤善原新左衛門尉、胤資牛尾美濃守入道、胤廣尾張の守、胤家隼人佐、胤重左衛門弟右衛門尉、弟竹二郎殿小金城にて討死。胤満彌五郎、胤直彌五郎左近大夫、胤仲右近大夫。
一、牛尾美濃守入道の子五人、第一尾張守、 第二五郎右衛門、第三仁戸名三郎左衛門、前四女子、小金高城和泉右衞門の子五右衞門、その子源左京亮沼田にて討死。牛尾牛七邸密。第五女子、府中石塚。以上五人。 五郎右衛門の子五郎右衛門、その子源七郎左京亮沼田にて討死。牛尾半七公津にて討死。弟牛尾出羽守左京亮郎出羽、仁戸名三郎右衛門、その子仁戸名牛尾大和守、弟牛尾主計、その子牛尾左近。
一、生賞に在せし上樣義明也。鴻の臺にて御腹なさせられし日、佐倉様は昌胤、小弓は胤尚、座主は常學にてあ
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りき。八郎大夫右兵衛、彌三郎八郎大夫大内藏、彌三郎八郎大夫、伯父甥にて取合せて兩禰宜になられき。昔は二人の大禰宜也。
一、原の初め、正月十三日賴道生れ給ふ。初湯の上、ゆづり薬一本ふりか ゝり、「目出たき事なれば」と、原の紋 は九曜にゆづの葉をなされけり。海上太郎海上圧をば不入にと、原十郎常綴について申受けられけり。「常繼申されければ」と、即ち不入にと落付きぬ。其の神として、海上の紋鶴を原十郎常繼に參らせけり。其の事に よつてゆづり菜を加へられき。此の分作倉御本城の上樣胤常より仰せ出されけり。
一、胤直を相應寺と稱す。永録三年庚申より此の世まで百五年也。屋形樣當所に在せし時は、誰かは諸沙汰諸公事申すべき也。
一、木內石見守胤治の林中6・府中に在せし時、八幡の宿にて妙見の大夫兵衛二郎といふ者を、胤治家風平野といふちの討ちにけり。覺實いろいろ仰せられけれども、本內取り敢へねば、御興を大庭まで出し給ふ。原越後守御馬を出され御扱ひなされし故、大庭より御興をば昇き入れぬ。彼の咎人平野に縄を打つて渡させけり。千葉御不入御田討の貝がら塚にて、草下部右京亮といへるが院家の家風を討ちて、御鉾の先に首を貫きて曝しぬ。 御罰にや、帰ると腹切りて林中の世には跡絶えしとぞ。
一、仁戸名牛尾三郎左衛門は、領邊田の百姓三郎五郎といへる者を、「わが被官切れば」と、邊田へ押し込み討ちけろ所、學實の仰せには、「被官たりとち、神領へ押し込み討は、在所の沙汰叶ふまじ」とて、御興を御門までぞ用されける。牛尾美濃守殿大庭まで參られ、さまざま申されし後、三郎左衛門は山林して落付きぬ。
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一、仁戶名三郎左衛門の子牛尾兵部少輔は、仁戶名にさくの內といへる九貫五百の神領を抑押領せられし時、範覺御鉾を立てられしに、小弓へ御馬を出され、御取りなしなされし兵部少輔の子、うなやの御弟子にて、稚子に て在せしを、範覺の御弟子に上げらるべき約束にて落付きぬ。此の程の千葉寺の山本坊也。斯る事のありし故か、仁戸名の苗字も絶えにき。
一、範覺の時、貝塚に物見はたけといへんありて、宮窪と論ありけり。宮窪窪に十一騎の士といへろがありし時也。 此の者ども引き立てゝ論にはしにけり。貝塚百姓は申すに及ばず、代官罷り出で、さまざま申して宮に御鉾を立て給ふ也。神領に落付きぬ。十一騎の士御罰にて今は絶えてけり。
一、松戸に小谷常陸殿といへる人、範學の御時、岩瀬と松戸の田一たん論にて常陸所へ御鉾を立てられけり。此の御前にて、長は今は絶えて他領となりけり。
一、八幡の河上、但馬殿といへる人、範覺の御時、谷中の神領の內屋敷一時在せしを、八幡の內なろ由申されける故、供僧社人どち出で御鉾を立てられけり。今に河上は跡絶えにき。
一、大野に、原豐前殿といへる人の被官、石手弟神領の西へ大勢出し込み、喧嘩騒動せられしに、西の百姓ばら棒にて彼の本人を打ちけり。「死したり」とて、西の百姓一人を打ちぬ。打ち納めし時、棒打はおきて歸りぬ。 打たれし百姓は島田とて、今の四郎兵衛の地主也。範覺いたく立腹なされ、御興を大野の豊前坊の內へ立て給 ふべき由、仰せ出されければ、生き返りの本人を縄打ちて出させけるさへ御邊のおりとにて、千葉へは入らずして、山崎民部少輔に仰せ、頭切って針に貫き、調伏しにければ、豊前は跡絶え給ふ也。
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一、常覺の御時、大野の百姓に三郎二郎といへる者、繼子の代に小金へ召捕られしを、下野殿聞し召され、神領は不入なるに、寺家へも披露なく、代官にも聞かせられず、口惜しき由仰せらる。「されば、申上げたくは候へども、咎人の遁げるげもすべきやと、まづは召捕らせしかども、家內その他には少しも沙汰これなく差置きけり。 此の上は內議も申すべき也」と、御使は歸りにけり。されども、百姓は今に繩付きぬとて、供分神主殿原衆能 りて種々申しなし、所の若徒七人ありけるを、さりはか臺にて六人までぞ切られにける。中に一人縄を解かれ て同心いたし蹴りにけり。
一、椎名伊勢殿は、神領久方、大林、平木潟といへる所々を押領せられしを、調伏なされければ、御罰にて修源に逢はれき。
一、常覺の御時、那須兵庫といへる人と、新九郎兩人して、夜中に慶陽坊を捕られし事の現はれけるを、金親兵部水、市原新左衛門、成田與五右衛門に仰に付けられ。九月二十九日打たせにけり。これ牛尾崎 五郎殿の御時にて、「院家不入を破るべし」とて、御使には伊藤新右衛門、西治部、石井雅樂介、小沼玄蕃承御庭へ參りて、「那須が首と、雜物を御渡し候へ」と、種々申されけり。新五郎をも斬らせらるべかりしを、供分中來迎寺道路にて捕りて助けになれり。「先世より不入なれば」とて、首は御渡しなき故、佐倉樣小員へ御申入れられけれども、「先々の如くたるべし」とて、首は御渡しなく、昔の如く落付きぬ。
一、覺胤の御時、家風小島七郎左衛門といへるは、もの忌む名ありしに、よくも相はづれけるを、牛尾殿在所の沙汰によって、牛尾平右衛門、同大膳亮、同兵部少輔に仰せ、多勢を引き連れ打寄せて、七郎左衛門の家へ人
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を登せて壊させられけるに、學胤出で給ひて竹もて家の上なる者を叩き落し給ふ。供分の面々社人ども、三人の奉行を當所の道の所へ差し置きけり。原胤清へ此の由を申入れられければ、恋ぎ帶刀殿を御馬にて、「在所の沙汰差し置かるべし」と胤清仰せ出されし也。「いづれも結城へ歸らるべし」と也。されども、牛尾彌五郎殿は、胤清の御子にて在しければ、牛尾の苗字三人差し添ひ給ひて、「今度院家の不入を破るべし」と、瑣細申されけれども、胤清遲々に及ばれければ、臼井に胤貞の在せば、此の由を申入れられ、また屋形様へも申上げられけるに、圓城寺右衛門、原大藏、臼井よりは胤貞御越しありて、胤清種々申されけるは、「昨今勢國寺宗德寺などさへも、御信仰なれば、御不法もなされけるにや。まして當家初めの守護神、殊に屋形樣千葉に在せし時ならんには、いかで斯樣の事申さるべきや」と、胤清を中宥めければ、すぐに落付きぬ。其の御神として、 覺胤座主等は勝胤より御形身の鎌倉九郎二郎とて大切刀の脇差を胤貞へ參らせけり。臼井より直に佐倉へ御出であり。此の時の屋形樣は親胤民部丸にて在します。屋形樣御悦喜遊ばされ、「院家に悪しき者有る故に、妙見御院内に疵付き中す也。今度本庄內匠奇特に寺家の沙汰を奔走しければ」と、則ち內に命ぜらるべき由、 小弓にて胤貞ち御意の如く申さるべしと、右衛門、大藏申さるゝま、彼兩人をもて、寺家へ仰せ越さるゝ也。 覺胤當所の沙汰を仰せ付けられ、御判を下し置かる。此の恐れに內の作倉へ參られけるを、右衛門・大藏の取なしをもて、屋形様より御一門禮下し置かる。實に天文二十一年玉子六月五日也。此の沙汰ありし後は當事の沙汰もむづかしからず、随意也。寺家へ不入の御判、始中終本城の邦胤とも、四世の御判ありける後は、妙見著隣の御沙汰いみじかりけり。
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一、妙見七體と申しろ奉るは、七星七佛薬師にて在します也。
貪狼星家勝世界主蓮意佛
巨門星妙法世界主光音自在佛
祿存星圓滿世界主金色成就佛
文曲星無意世界主 勝吉祥佛
廉貞星淨住世界主廣遠知辯佛
武曲星法意世界主法界游戲佛
破軍星淨瑠璃世界主藥師如來
妙見大菩薩は、皆藥師にて在します也。中にち千葉妙見は浄瑠璃世界主破軍星藥師にて在します。故に軍の守護神とならせ給ふ也。
一、兼胤御世に、上總の守護を小見小五郎へ下し置かる。小見は木內の庶子也。上總へ移る時、屋形様初め御一門御家風より騎馬一人合力あられし故、一日の內供の衆三十六騎にて上總の府中へ移らせらる。是より木內は 老成者三十六騎也。
一、胤小五郎清光、胤義小五郎範應、胤邦小五郎石見寶山、胤拾小五郎安仲、胤治小五郎林中、府中にて討死。 實に永正元年甲子四月十三日也。兩公方様篠御陣の時也。原越後守胤隆討ち取りける也。政氏・高基兩公方、千葉孝胤退治にて三年の間篠塚に御陣也。御本意なく御滞座の所、「木內の表裏なれば」 と、抑寄せて討ち
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給ふ。木內は胤降聟也。それより木內退轉す。喜山へ上総守護下さるゝ由仰せ出さる。小五郎今日の日は五墓の由仰せらる。「一代も大儀ならんに、五代まで立てし事、目出度し」と、申されけり。五墓に立てられし故、 木內は五世にて退轉す。永正元年甲子より永祿三年庚子まで、凡そ五十五年也。
一、下總國葛飾郡千葉庄池田郷は千葉の本鄉也。千葉は一庄一郷にて、わけて郷と申す事はあろまじき事にや。
一、當寺諸沙汰の事は、親胤様、原胤貞、城寺右衛門永忠尙、原大藏永胤安仰せられき。「六供談合申して諸沙汰致さるべし」と、本庄伊豆守申付けられ候。後日の爲一札如件。
覺 胤
天文二十一年壬子五月廿八日相定め候。
一、古は當寺御寺家共御院家共被仰出候得ば、屋形様、原殿、若爲同一寺御方御申候。餘人に著座主殿と仰せ候き。家風の者は上様と申候。同文字なれどもかみ樣とは不申候。
一、當寺北斗山金剛授寺は、長保二年庚子九月十三日立て畢んぬ。一條院御勅願所、自立以來五百六十年[五百六十七年]、永祿三年庚申迄也。
一、上野國息災寺より、承平三年癸巳十二月二十三日妙見御移り、永祿三年庚申まで凡そ六百二十七年也。
一、妙見宮御建立は、國守午親胤、原式部大輔胤溝、住持覺胤の御時、天文十六年戊申三月二十二日銫立、四月朔小屋入、須立七月十日立也。御宮は南面にて、西東へ九尺間三間、三間以上六間也。南北へ九尺間三間〆三間、三間以上六間也。同十七日練上也。三本幣にて、中一本は屋形様、東一本は原胤清、西一本は住持覺胤、
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此の三本の前に棚を結び、土幣桶を一つづつ凡そ三、白き外居一つづつ、銚子提一對、代物三本に千五百疋、 肴三膳、鯉十二、海老十二、水鳥一双、水色𥿻三段、幣には金扇三本、麻三把、鏡三面、帶三、長髪三挂󠄀、白木弓二張、又五方挂󠄀土幣桶五、莚べ五枚、行器五、銚子提一對宛、染物五段、代物千疋、善の縄布二十二段、加精を立て、其の十文字三搦にして下る也。住持是を取り、檀那諸人亦是を取り申す也。善の繩取樣は任持参ると立ちて、右は上手、左は下手にて、取り拜みて右へ巡り、左の肩に懸けて、旦那を引く意也。善縄を結ひて 下ろを旦那諸人取りて、本尊に縁を結ぶ意也。大工は御宮中の中間の左に、腰挂󠄀の俵に腰を挂󠄀けて大間に向ひて侍る。住持旦那は御宮に向ひて左は住持、右は旦那の御座也。供分は左の方に御座也。神主衆は右の方に御座也。中の間の右は番匠侍る也。御肴は何れも同前なり。住持旦那は足付、餘は平膳也。肴は熨斗、栗、昆布三品也。熨斗は前、栄・昆布は向也。馬・太刀の披露は當寺の御家風本庄伊豆守胤村直垂烏帽子にて、先づ佳持へ御馬・太刀の披露して後、屋形様、次に胤清、次に六東の御一門御家風中也。馬は一、二、三までは黑馬と申す也。大工白銀烏帽子、住持旦那三疋請取り申す也。餘の馬は番匠請取り申す也。此の儀に定め置かれしを、鍛冶番匠一二馬の論申さるゝ故、何れも馬共棟に向ひて引立て、住持の御厩へ入れて、一二の鈴鳴らして、 鍛冶に馬一疋下され、餘は皆番匠へ下されてけり。太刀・弓の代物をば大工請取り申し、腰の俵の上に置き申す也。馬は番匠鍛治とち手付け申される。棟幣は番匠持ち參れるを侍請取りて、住持旦那に拜ませし後、大工に渡す。大工講取りて諸旦那に舞ませ申す也。其の外馬數百三疋、弓太刀は限りなし。善縄には太刀、刀、 帶、長髪、𥿻布、麻、鏡、小袖、鳥目を挂󠄀くる事夥し。
42(210)
一、天文十九年辛亥十一月二十三日御遷宮也。大檀那新介平親胤、御馬は馬場又四郎胤平、御太刀は原大藏永胤安也。原式部太夫胤清、神馬は原九郎左衛門尉胤行、同太刀は牛尾左京亮胤道也。牛尾孫次郎胤貞、神馬は原隼人佐胤次、太刀は齋藤源太左衛門尉清家也。屋形様御馬は住持御內本庄新六郎胤里これを請取らる。胤清神馬は小河外記政俊これを請取らろ。屋形様御一家御近習侍衆國中諸待衆馬共當寺御內本庄伊豆守胤村これを請取られて、次の役人に渡す也。椎崎の御馬は小河大鷹、御太刀は宍倉與三郎、成戶の御馬は三谷下野守、御太刀は小河新藏、公津の御馬は圓城寺源五郎、御太刀は湯淺源三郎、寺臺の御馬は高千代大膳亮、御太刀は瀨里惣九郎、神嶋の御馬は三谷右馬助、御太刀は宍倉惣次郎・牛尾右近大夫、御馬は牛尾平右衛門、御太刀は同兵部少輔、其の外大須賀、助崎、小見川、海上殿、相馬殿、府馬、鏑木、米井、井田、山室、三谷、椎名の苗字中、三幡谷、神崎殿、野手、押田、神能、馬數百八十三也。何れち本庄胤村取られしにや。
一、臼井の一門、志津の御門、坂戶、吉岡、小船木、栗山、申臺、山梨、蕨の家風中押田、渡邊、神保、何れう太刀上げ申す也。
一、原式部太夫胤焉の一門、家風皆々馬太刀上げ申す也。高城、兩酒非、齋藤、菊間、加藤、秋山、岸、谷津、大熊、佐久間、府河天生院殿、其の他馬太刀の使は其の屋敷の老成者の役なり。 一、御幸の儀式は庭儀灌頂の例也。導師歡喜院大僧正貞齋和尚、御輿の前後は社人衆、次は別當檀那衆、御實物 銚子小別當神役人二十二町、御鋒は千葉中老成者、結城中老成者、御幡二十二旒也。七月の御祭幡指の役人衆 これを持たるゝ也。御宮にて法華八講大法事、次に神主衆禰宜衆これを勤められ、大神樂を行ひ給ふ也。
43(211)
一、邦胤御元服の時、胤富邦胤御父子御連判をもて不入の御判を納めらる。實に龜󠄀二年辛未十一月望也。
一、妙見宮棟上の時、一の馬の論を鍛治番匠申されける故、胤清へ申達しければ、番匠特に心勞致され作り立てられしに、鍛冶に一の馬はいかむ。番匠作り立てし上は、釘は打申すものに候や。「一馬一盞は番匠に下され、 二馬二盞は鍛冶に下さるべし」と也。住持の御扱ひに、馬共をば御棟の前へ引き出し、棟に向はせて御厩に入 れ、一とも二ともなり、鍛冶に賜はりけり。餘󠄀の馬共みな番匠に賜はりぬ。御盞は白張烏帽子にて、大工豐後 をば住持取りて賜はりぬ。つち打番匠と鍛冶と參りけるを、兩酌にて屋形樣代官、原大藏殿の盞を番匠にはやと賜はりけり。風清御代官に、中尾右京太夫殿は鍛冶に盞はやと賜はりけり。兩人一度に出で、一度に酒を賜はろ。番匠は左座、鍛冶は右座にて、此の時初めて鍛冶番匠の法度を定められけり。
一、すたて番匠九百八十七人。
一、組物五十六くみわたり、木三百丁、番匠千百三十五人。
一、軒ほう同九百二十八人。
一、天井、らんま、格子、雑作、ゑん板、板しき、はしかくし千百二十人。
一、くふりやう、すみ木、木おい、かやおい、さんさす、はね木、こや、かもゐ、ろしかため、野取千十八人、 以凡そ五千餘人。
一、山取四千八百三十人。
一、かぢ七百十二人。
44(212)
一、上のくみちの二十六くみ、下屋のくみもの三十くみ、わたり木三百丁、表七十八丁、つま七十二丁、これは四すをしす。
一、あしかやひたちやのよしさくら、上様おほせに、十はゆひ、四そくつけ、千九百二十一駄あまりて、大門をふく。たしあまろも、たらぬもよしにより申すべき事。
一、十たてよりふきおくる間、こくもつとりあつかひ、金親兵部少輔致されけり。
一、小屋奉行代物とりあつかひ、棟上遷宮まで走り廻りの事、本庄伊豆守胤村つかさどれり。
一、かせいの立て樣、宮の内の間の通り、十文字作りにて立つ。是は宮中の間の口に取り合せて叶ふといふ字也。創營かなふといふ意也。かせいの立木七尺、上へ二尺にして、横木を結ふ也。横木は五尺也。立木七尺は天神七代過去七佛を表する也。横木五尺は、地神五代、現在の五佛を表する也。
一、善の綱を、棟の中のぬさよりさげて、かせいに挂󠄀くる事一文字也。一德の水なり。又天地和合の意也。かせいに三ッからみてさげろは天地人の三なり。うらを結ぶは住持檀那諸人の佛神縁を結ぶためなり。
一、棟上の時、善の縄の布二十二段、からすくひの餅千、原大藏殿大はら御こし也。
一、ふきてうくしのいはひの餅、一千上げ申さる。本庄伊豆母御さかな上げ申さる。
一、うくしいはひの酒、小河外記上げ申さる。
一、うくしのいはひ水色の𥿻三段、鯉三尾、かけ樽、銚子提の代物三貫文、太刀三、馬三匹、作倉小弓當寺よりぞ出されける。
45(213)
天文廿三年甲寅十一月念 本庄伊豆守胤村花押
一、妙見宮材木の上屋十一本は、圓乘寺東の方竹山の中にて切る。一本はししわたしのみや山にて切る。以上十 二本也。中山九郎兵衛殿寄進也。下屋の柱二十本、ぬきけたこやかもい木は高須山にて切る。東のくふりやう 一丁は東寺山にて切る。牛尾右近大夫殿ひかせらる。西のくふりやうなやの山にて切る。胤清ひかせらる。くみちのゝ木、大戸の木は、いかう山にて切る。くみものゝ木をばよなもとの宮山にて切ろ。臼井十二郷の山にて皆切り、各侍衆より上げらる。すみ木は田べたのおちい山にて二丁切る。一丁は東寺山の宮山にて切る。一 丁をばしゝわたしの山にて切る。木おいかやおいをば、たかしのさくさべの山にて切る。同ほしぐきなが峯宮山にて切る。板たる木は、いんざい十六郷の山にて挽く。ゑんの板ぬきつか柱は、印東むささつさ7の侍衆受け取り取り上げ申さる。あししろの木は、ながさく山と加曾利山にて伐る。はね木は山梨の山にて切る。同おな き山にて切る。なげしの木は上總かもの山にて切る。らんま格子の木は佐倉より上げらる。おもてのから戸は胤貞小弓にて取らせらる。
月 日 胤 村 判
正月十四日の夜の御祭
一、みゑめの前の孫三郎が、くけつのかいをくいはさみて参りたりとよ。萬歲樂とよ。いつよりも今年は御喜びも重なりて、東方朔が九千歲を我が君は保ちて、常若にてましませば、御一門ち御繁昌に、國土豊かに、萬民
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樂しみて御伊勢へ御參りあるか。結城の浦よりも、福增といふ舟に、銀の帆柱に金のせみをふくみ、錦を帆に かけて、辨才天と、うがの神は、艫へ出でましませば、あるじは中船に召されて、三十三度御參り有りて御下向ありしに、いなけの一本松で御ぜねかみを御見つけ有りて、御船へ積ませて、大はしへこぎいれて、ふくら へになひ入れて、いぬゐみのすみに重ねあげて、めんどりはにもしつとりと、おんどりはにもしつとりと、おきければ、ふつきは萬年あるじは保ちておはしませば、萬歲樂、とよくよく。
一、大永三年癸米十一月望、利胤作倉妙見宮にて御元服なさせらる。是は南御所義明小弓に在して、佐倉へ御敵となれる故也。御規式は先代の通り也。御神へ御進物、千葉中諾社へ御賽錢昔の如く也。二騎の御供は、原孫七・粟飯原文三兩人也。常覺座主の時にてありき。御神前への御使は木村光束亮也。千葉諸社の御使は安藤左衞門、賽錢は大夫所へ渡さる。
一、弘治元年乙卯十二月二十三日、親胤御元服は千葉なり。此の時、房州正木大膳亮、十月十日に千葉へ亂入、宿中放火致されしまゝ、十一月望の事御日延となれり。御神へ御進物、御賽錢、御先代の如く也。二騎の御供は、粟飯原・幡谷論となりて、原左京亮一騎也。諸社への御使は安藤左衛門、賽錢は神主へ渡さる。御神前の御使は木村左京亮也。御規式昔の如く也。住持の御使として本庄內序助胤村中途まで參りて上様を拝む也。原大藏永同心中して高篠へ参られ、御三字請取られ、神前にて御䦰取らせられ、御字を定め申し、木村どのへ渡さる。
一、元龜󠄀二年辛米十一月望、佐倉妙見宮にて邦胤御元服なされけり。是は房州里見義弘小弓にありて佐倉と御戰
47(215)
ありけるゆゑ 、千葉へは參り給はざる也。昌胤御規式の如く也。是を初めにて御祝儀あるべしと、妙見大菩薩 へ御進物、青鳧千、銀劍一、馬一疋、𥿻一巻、弓一張、藤巻布入也、箭一手鉾矢狩股まゐり替袋入也。御樽御宿神へ上げらる。二騎の御供は、彌富の原、六崎の粟飯原兩人也。御神へ青鳧二百疋宛也。御参りの諸士等、御幣を取られ、鷲眼並に太刀刀、御馬上げ申さる。御前への御使は木村左京亮、千葉中諸社への御使は安藤左衞門、御賽錢は龍藏權現へ鳥目百疋、御達し報の稲荷鳥目五疋、惣代七社大明神へ烏月五十疋、八幡へ鳥目百疋、 香取大明神へ鳥目百疋、摩利支天へ鳥月百疋、天滿天神へ鳥目百疋、各神主所へ渡さる。摩利支天、天神、香取は別に別當あり。供分中へ代物二百疋、寺家老中へ代物二五疋、下部中へ代物二五疋、千葉百姓中へ代物工疋、𥿻一端、御神前御先佛太夫へ鳥目五十疋、又二騎の御供より鳥目百疋出され、銚子小別當二騎の供より鳥目百疋出さる。上様より銚子、小別當鳥目二百疋下さる、何事も昔に變りて御祝言なさせらる。住持覺胤の時にてありき。御希御酒は御神前にて、七献昔の如く也。
一、屋形樣、御堀內に妙見の在せし時は、社人惣代の社三間前殿五間也。右二間は八乙女、左二間は神主にて御祈念申す也。正朔惣代の御供物は加曾利寺山より參る也。第九膳、片方は寺山同九膳、片方は加曾利也。七磨は惣代、八膳は八人大夫、四膳は八乙女也。此の時、供分は住持の客殿に參り御祈念申すなり。胤直退散の後、妙見を客殿へ移されて、供僧社人同所にて御祈念申す也。
一、正月十日千葉介殿、小侍所井に評定奉行侍所へ入らせらる。時宜により八日也。管領出仕の後參らろるゝ事あり。御對面の様は管領同樣也。但し、御劍は下されず。
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一、御所造の上、御評定十九間は管領役所也。御主殿は佐竹御遠侍の大間七間にて、立物疊所これなく、千葉介殿役所也。七間御厩は結城、二間御厩は小山也。其の外、臨時の御厩、往古は五間、近來は三間也。これ棟梁大工に仰せて造らるゝ也。長面の道は十七間、奉公人の役所也。兩御室の御屋那須、東の御姿の御屋宇都宮、 御室所は三浦の介役所なり。御中居は御主殿同様也。杉の間、同居留御所造の間は管領在す休み所也。二十間 をば管領より造りて參らす。三十間は千葉介殿にて造り參らす。御屋移りは夜陰也。供奉の人々は直垂也、松明の役は御所奉行、御左は梶原能登守憲景、御右は佐々木豊前守氏浦、御劍の役は一色右京亮、御香の役は本間下總守なり。
一、外樣奉公中への禮儀は、其の亭へ罷りし時、益以下式第は時宜によるべし。かねて記するに及ばず。興にて行き合ふ時は下馬致さるべし。乘馬ならば、外様の內、其の人によつて馬を前より控へて馬を返し、體儀有るべ し。千葉介方にては、馬を返し、其の上一廉禮を致すべし。御一家中にも、其の人によつて思慮有るべき也。
一、管領御一家、其の外、外様の被官中の奉公の人に路次にて行き合ふ時は、馬を控へ禮を致す事一度也。書札は御宿所と書いて、肩に各の處官途を書くべし。奉公中の返書には各の字以下を下り書に書くべし。腰文捻文は規式あるべき也。
一、奉公中、但し公方の者は下馬を致さず、宿へ來る時は縁に置くべし。座に呼ぶべからず。被官の居所にて酒を出す事、苦しからざる也。
一、公方様管領と御對面の時、公方様は御くぎやう、管領は足つけ也。自餘宿老中はかなかけ也。
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一、東海道十五國の中に、法師御所一人、法師大名三人在す也。法師御所は鎌倉雪下殿、御當家の若君、御直りなさる。三法師大名は熱田座主、是は武衛の御子代々直り給ふ也。箱根別當は北條殿御子代々直り給ふ。千葉金剛投寺、千葉殿御子代々直り給ふ也。右四箇寺は、外苗字の者御移りこれなく、國主の御子なき時は、衆分家風より寺を預り持つ也。
內膳亮胤里、新六郎胤保、孫子にみせ候はん為に、こまかに書して假名を付け置きし。某文字に拙くて書きも避ひて候。常寺の事ども一々に書きぬ。他見あるまじく候。
七十七歲胤村花押
一、常兼千葉大椎介、次男常衛海上與市、嫡子常?海上太郎、弟常高本庄左衛門、常秀中務丞、常光信濃守。
胤頼東六郎、次男胤方本庄七郎、胤長宏印、盛胤七郎、風景兵部丞、胤安理印、師胤理性、君胤筑後也。
憲胤同筑後守、胤榮性宗、胤定伊賀守、胤友刑部水、風光伊賀守、胤廣成範、胤守刑部少輔、新六郎胤知圖書助、胤村伊豆守玉意、胤平伊豆守內膳亮、胤保新六郎內膽完玉照。
風賴東御子重胤、次男胤方本庄七郎、三男胤朝木內八郎、兄弟三人より分る。本庄の初め也。本庄は海上なり。 本所の郷に居住しぬる故、常高を本庄次郎といふ。常秀、常光三世の後、胤賴東二男胤力より此の苗字にて今に有りけり。
胤定伊賀守、子孫は常陸鹿島へ移り在します。
本庄苗子海上を退散の事
一、常見、海應は兄弟也。弟海應、兄常見の子松王殿を害しけり。松王殿方人本庄神四郎ち討たれにけり。海應 の子は千くみ殿と申す也。狭間の眞惠法印鹿島へ落ちて死せり。松王殿深く引かせ給ひし故也。本庄大和守二つ子の年の事也。其の時、鹿島へ落ちて源五郎源七郎とて二人の子を持ち給ふ也。四月六日千み殿討死は海上將監がわざ也。天正四年丙子まで凡そ三十五年なり。
一、人皇八十八世後深草院の御時、日蓮上人出世、頼朝御他界五十七年の後、最明寺殿の時なり。永祿三年庚申まで凡そ二百八十一年也。
一、安房國千光山清澄寺は桓武天皇勅願所にて慈覺大師建立、承和三年の開基也。本尊は能滿虗空藏大菩薩也。
一、人皇九十代後宇多院の時、建治二年内子三月望、一遍上人三十八歲にして發願也。正應二年己丑八月二十三 日兵庫の島にて遷化せらる。河野四郎常弘の子、頼朝御他界七十七年の後也。正應二年己丑より永祿三年庚申まで、凡そ二百六十二年也。
一、しりがいせんと申す事は、七月大須賀より御町へ家人御出でにて、歸󠄀る大夫に御土産を御所望なされし時、 しりがい一口を鳥目七百に替へて上げ申させけり。返りし年またしりがい御所望也。町に候はで、代物一貫上 げ申さる。これが家例となりて一貫づゝ町に上り申す也。大夫左近八郎童の時、母に傍ひてねまりける時、範覺より三年の分をかせの由仰せらる。時に八郎母家をあけ申さる。やがて歸󠄀られけり。共の年、範覺御やう人
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なされて佐倉にて遷化也。御遺跡常覺の世に左近八郎佐倉へ參り、深山新六所を宿に取りて、金親彦四郎、同兵部少輔、井に新六三人をもて申さるゝは、「御神事錢二貫上げ申すべし」とて、御むづかしき事なく、「馬人御よりなさる事あるまじ」とて、御一札を取りて歸󠄀られ、二貫づゝ上げられけり。彌三郎八郎兩禰宜になり て、四貫となりし也。
一、昔より、大禰宜殿をば左衛門大夫と申しけり。世々の事也。息左近承死去の後、弟の左近次郎禰宜役を取られけり。左衛門四郎河合の山にて從弟左近八郎を討ちぬ。さて、弟彌二郎禰宜役を持たけるが、其の子また左近八郎と申す也。子なき故、伯父の子惣二郎を遺跡に立ててさる。みきの承也。彌三郎殿は彌二郎殿別腹の弟也。彌三郎殿の子は出雲承也。其の弟みきの承は惣領大夫也。今のは皆、左近二郎殿の子の筋也。
一、南御所義明小号に在せし時、とけあ夫8作倉御敵也。其の時、範覺小号へ御神を移さる。十六年の間なり。範學やがて我ばかり佐倉へ御出でにて遷化也。御遺跡常覺の時、鴻の臺の一戦に御所御腹なされけり。十六年と申すは此の時にて、御神を千葉へ御歸󠄀しなされけり。供分六人御供也。さて佐倉より御本意遂げられて常覺は 歸られけり。
一、良文の四男忠通村岡大夫、梶原殿初め其の子鎌倉權大夫村、其の弟權五郎景政、皆良文の御孫也。出羽國 山北金澤の城に、安部貞任、かうけの宗任、鳥海彌三郎、りやうくわん大しん、栗矢川五郎と五人籠もられたり。 八幡太郎義家數萬餘騎にて向ひ給ふ也。其の時権五郎景政は、鳥海彌三郎に弓手の眼を射させ、馳せ廻り、其の箭を返してぞ鎌倉に御りやうの宮と祝はれ給ふ。千光の御筋也。佐倉にち立て給ふ。小弓にも立てられけり。
51(220)
一、天正十三年[十二年]乙酉五月七日、三十世邦胤御捐館也。初め北條氏政の妹姻を娶られけり。其の腹に十二にならせ 給へる婉君と、三にならせ給ふ御曹子の在しけり。國の面々揃はざる故、原豊後守・同大九郎父子の心にて、 氏政の末子一人を請󠄀ひて十二歲になる姫に合せまつり、屋形に仰ぎ申󠄀さるべし。北條氏尤もの事なればと、天正十四年丙戌十一月御馬を出され、佐倉へ御越しにて、かしまの城御取立てとなりけり。人數は伊豆、相模、 武藏、上野、下野、常陸、下總、上總、安房、凡そ九商國の侍、井に人足參りて、十一月二十二日の結構にて 二十三日より普請を始め、同十二月三日には普請成就し、門、非樓ふすま、壁、家作まで十二日には全く事終り、十 五日には姬樣御ふくろ様邦胤母なり御上がりなされけり。 那胤の御ふくろは神島小見令佐倉とあれどもつばらならず。
一、良文と忠頼は鎌倉村岡にて御捐館也。忠頼の子忠常、下總權介上總上野郷より下總東の大友へ御移りなされ けり。御子常將より常長、常兼、常重まで五世大友に在せり。常兼常重父子上總大椎へ移らる。常兼をば大椎權介と申す也。大椎にて御捐館也。常重は千葉へ御移り有りて大介殿と申す也。成の字を昔は殿上にてはせい、武家みて家にてはしげ、地下にてはなりと讀󠄀みて、人名をば呼ばれし由、成務天皇、俊成、正成、成氏、成胞、成線、成田など也。
一、鎌倉殿と申すは四人のみ。太郎大夫時忠は良辨上人の御父にて、良辨は大山寺の開山なり。次に村岡陸奥守良文、次に鎌權大夫忠道、次に右兵衞佐頼朝也。後年北條氏政相模國を持たれしより鎌倉どのと申すとは聞きつれども、德の衰えるへぬるにや、其の跡たしかならず。
千 學 集 抄 (終)
52(221)
解說中に述べた通り、千學集の原本は、ちと金剛授寺今の千葉神社の寶庫に秘蔵せられ たものであつたが、火災に焼失して現今世に傳はるものは其の寫し而も抄本のみとなつ た。私の手許にあるものは誤謬脱落多きが故に、成るべく正確なものを見さんことを林 天然氏に相談した處、故大森文學士の寫本が金澤文庫に保存せられ居る筈、就て見てはとの仰せであつた。そこで關金澤文庫長に御願ひして拝見し、御陰で不明の點が大部明かに なった事は感謝に堪へぬ。右金澤文庫本に左の奥書がある。
原本金剛授寺所藏丙午秋念四紀琴夫書手寫也 佐原清宮氏所藏
明治二十五年二月三日以內閣文庫本寫之 村 岡 良 弼 印
明治三十三年六月村阿良弼氏所藏本を寫し且一校し畢ぬ 南 總 子
これに依つて見四山下總作原の清宮秀堅先生に 編され、次に內 閣文庫に寫され、香取郡中村の村岡氏に三寫され、大森文學士に四寫されたもので、三氏ともに我が房總人である。これを今度房總叢書刊行に當り、妙見大縁起其の他を参考して 補正する所があつた事を申添へて置く。(奥山)
53(222)
編集者の見解
千葉氏に関する文献を調べてると「千学集抜粋」が度々出てきます。そこで、千葉氏に関する歴史文書かと思ってましたが、全文を読むと妙見宮のことが多く歴史上のことは少ないです。
例えば、千葉市のHPには、千葉氏の移住に関しては下記の図があります。
大友(東大友ともある)、大椎、千葉、佐倉と変遷の図はありますが、その年の記述があるのは千葉のみです。特に内紛で千葉から佐倉に移住した経過や年はありませんでした。残念、他の文献を探します。
歴史上のことを年代順に記述してるわけでなく千葉氏の例えば当主の一生のことを数行で書いてます。これから戦国時代末期に一挙に書き上げたのでなく、重要人物が死亡した時点で追加して言ったと編集は考えます。そうでないと戦国時代末期に千葉開府900年(1126年)の事を書くのは無理です。メモ等を約500年保存して書き上げとは考えづらいです。
千葉開府900年の基となってる部分は下記です。
一、屋形さま御紋、亂れ星の以前には、松竹に鶴の丸也。松竹を御家の紋になされ、鶴の丸をば海上へ進上せら れけるが、後には鶴龜にて在しましけり。 大治元年丙午六月朔、初めて千葉を立つ。凡そ一萬六千軒也。表八千軒、裏八千軒、小路表裏五百八十餘小路也。曾場騰大明神より御達職稲荷の御前まで、七里の間御宿也。御場心より廣小路谷部田まで、國中の諸侍の 屋敷也。是には池內鏑木殿の堀の內あり
これからは現在の千葉城に移ったとは判断できません。堀の內もどこかはどこかも不明とされてます。さらに、現千葉市内かも不明です。他の所では「千葉荘」の地名が出てくるのでかろうじて現
千葉市内だろうと判断されます。本文では場所としては「堀の內」「堀內」が頻繁に出てきます。
例えば、どこそかに出かけて「堀の内」に戻ったとかです。
尚、表八千軒、裏八千軒とか巨大都市とか思われますが、当時は庶民は縦穴住居が普通です。マ、人は多かったでしょう。
妙見宮(現千葉神社)のことが大部分です。元服も妙見宮で行いその様子が詳しく記述されていて大変興味深いです。また妙見宮建立も詳しく、上總、下総の千葉氏一族から広く部材を集めたようです。