「千葉氏と鎌倉幕府樹立 第一部」
「千葉氏と鎌倉幕府樹立 第二部」
に続き第三部です。
本記事(投稿)は随時訂正・加筆します。
千葉介常胤は頼朝の命を受けて奥州(平泉)まで遠征します。
吾妻鏡は下記から引用させて頂きました。
有名な古文書ですが、必ずも信頼出来ない部分があるとされてます。
吾妻鏡入門が現代語約もあり便利です。
言うまでも無く頼朝が奥州(平泉)まで遠征したのは、藤原氏追討のためです。
その前段階として義経追討があります。編集者はかって、平泉の少し南の一関市にいたので義経にはこだわりがあります。壇ノ浦合戦後の義経の動きを復習です。
源義経 追討
元暦二年(1185)五月七日 (吾妻鏡)
謀反など持ってないとの義経の伝令がきた。頼朝は、範頼は些細ことでも伝令がきた。義経は、殆ど自分で判断して行動している、と怒る。
元暦二年(1185)五月二十四日 (吾妻鏡)
義経は平家の捕虜を伴って腰越にいたが、鎌倉に入ることを許されず、無意味に過ごしていたが、嘆願書(腰越状)を出す。
注 吾妻鏡にある現代語訳は腰越状にあります。又、腰越に本当留め置かれのか、数々の疑問が提起されてます。
元暦二年(1185)六月九日 (吾妻鏡)
義経は、酒匂に滞在してたが、平家の捕虜を連行して京都へ向かう。
元暦二年(1185)六月十三日 (吾妻鏡)
平家から取上げた領地二十四箇所を義経に与えていたが、全て没収した。。
文治元年(1185)十月十七日 (吾妻鏡)
土佐房昌俊は、頼朝から命を受けて、義経の屋敷を襲撃するが殺害には失敗。
文治元年(1185)十月十八日 (吾妻鏡)
義経に頼朝追討の宣旨を朝廷から出す。京都に軍を持ってるは義経だけなので、朝廷を守るためにはやむえない。事情を説明すれは頼朝は分かって貰えるだろう。
文治元年(1185)十月二十五日 (吾妻鏡)
頼朝は義経討伐の意を受けた者達を京都へ向けて出発させる。
文治元年(1185)十月二十九日 (吾妻鏡)
頼朝みずから義経追討のため京に出発。千葉介常胤がしんがり。
文治元年(1185)十一月三日 (吾妻鏡)
義経は九州へ行くとして都落ち。兵は200騎程度。
注 共の者として「弁慶法師」がいます。弁慶は実在しないとの説があります。実在するとする説として吾妻鏡の記述を根拠の一つにしてます。武蔵坊弁慶では創作とされてます。
文治元年(1185)十一月六日 (吾妻鏡)
義経が、大物浜で船に乗ろとするが突風が吹いて、船をひっくり返ったので九州行きを断念。
文治元年(1185)十一月八日 (吾妻鏡)
木瀬川(静岡県沼津?)で頼朝は義経は既に都落ちしていなくなったので鎌倉へ帰還。
文治元年(1185)十一月十一日 (吾妻鏡)
義経の追討の宣旨。
義経の行くえは途絶えます。
吉野、京都潜伏、比叡山と出てきます。
文治三年(1187)二月十日 (吾妻鏡)
義経は妻子等と平泉の秀衡を頼って行く。
文治三年(1187)八月十九日 (吾妻鏡)
京都の治安が悪いと朝廷からの要請で千葉介常胤等を調査のため京都に派遣。
文治三年(1187)九月四日 (吾妻鏡)
秀衡が平泉に義経をかくまって反逆しようとしていると頼朝が京都朝廷へ申し入れ。
文治三年(1187)十月八日 (吾妻鏡)
千葉介常胤等が京都から帰還。多少はあったが短期間で収まる。
文治三年(1187)十月二九日 (吾妻鏡)
藤原秀衡死亡。陸奥の国を義経にと泰衡に託す。
文治四年(1188)四月九日 (吾妻鏡)
義経の捕縛をするようにとの朝廷の使者を平泉の泰衡に派遣。
文治五年(1189)四月三十日 (吾妻鏡)
藤原泰衡が義経を襲撃。義経は妻22歳と娘4歳を殺害したうえで自害。
源義経31才。
注 妻子を伴って逃避行をしていたと知らなかった。
文治五年(1189)五月二二日 (吾妻鏡)
鎌倉に義経が滅びたと平泉から伝令。首を送る。
注 伝令は平泉ー鎌倉間を22日で伝えた事になります。
文治五年(1189)六月十三日 (吾妻鏡)
義経の首が腰越浜に来たので首実検。首は黒漆の櫃(桶)に美酒に入れてあった。
注 吾妻鏡では首実検の結果、義経であったかの記実はありません。その後、首はどうなったかもありません。4月30日義経自害で、首が着いたのが6月13日で43日かかってます。平泉から鎌倉まで43日は長過ぎとも考えますが、伝令は22日ですので、櫃をかついでとすると妥当かもしれません。美酒とはどんな物か不明ですが、43日もすれば腐敗するでしょう?。
この辺から所謂、義経伝説が生まれた可能性はあるでしょう。
千葉氏奥州へ
文治五年(1189)六月二四日 (吾妻鏡)
藤原氏の泰衡は、義経をかくまったのは反逆行為だから征伐するとして軍旗をつくるよう千葉介常胤に命令。
一方、朝廷の意向として、義経が亡くなってる。色々な行事があるので奥州征伐は延期するように。
文治五年(1189)六月二五日 (吾妻鏡)
藤原政権征伐の宣旨を朝廷に要請する。
文治五年(1189)六月二十六日 (吾妻鏡)
奥州平泉で泰衡は、弟の泉三郎忠衡(23才)は義経に味方をしたとして殺害。
注 泰衡は鎌倉に忠義を尽くしたつもりでしょう。鎌倉ではこの時点ではこのことは知らない。着々と侵攻の準備。泰衡も鎌倉の動向を知らない。
文治五年(1189)七月八日 (吾妻鏡)
千葉介常胤が新調した軍旗を献上。
文治五年(1189)七月十二日 (吾妻鏡)
朝廷に藤原政権征伐の宣旨を催促の伝令。
文治五年(1189)七月小十六日 (吾妻鏡)
朝廷の使いが12日に出した伝令と共に鎌倉にきた。征伐を一年延期するように。頼朝は今更引けないとして怒る。
文治五年(1189)七月十七日 (吾妻鏡)
侵攻軍を三手に分ける。
東海道(現常磐線)千葉介常胤大将軍 等
北陸道(日本海経由)
頼朝は中の道(現東北本線)
奥州征伐に関してしての詳細は吾妻鏡にあります。ここでは省略します。奥州合戦に纏めてあります。
「千葉介常胤」に関しては下記です。
文治五年(1189)八月大十二日 (吾妻鏡)
千葉介常胤は多賀国府(宮城県多賀城市)で頼朝と合流。千葉太郎胤正(常胤の敵子)、千葉小太郎成胤(常胤の孫)も同行していた。
注 千葉介常胤が東海道でどう戦って来たかは不明です。この後も不明です。但し、千葉太郎胤正、千葉小太郎成胤は出てきます。常胤は72才(?)なので、戦いは子、孫に任せたのでしょう。
文治五年(1189)九月三日 (吾妻鏡)
泰衡は家来に首をはねられる。
文治五年(1189)九月六日 (吾妻鏡)
泰衡の首を頼朝に持ってきた家来は、主人の首をはねるとは許されずとして家来の首をはねさせる。
文治五年(1189)九月九日 (吾妻鏡)
頼朝の元に朝廷から泰衡追討の宣旨が届く。日付は文治五年(1189)七月十九日。
文治五年(1189)九月二十日 (吾妻鏡)
最初に千葉介常胤の論功行賞を行う。
文治五年(1189)九月二十八日 (吾妻鏡)
平泉から鎌倉へ帰還の途へ。
注 ここに編集者が住んでいた一関市の岩井川(磐井川)が出てきます。岩井川は子供の頃釣り等をしたりの川遊びの古里の川です。家も岩井川の近くです。達谷窟(たっこくのいわや)もでてきます。子供のころは岸壁がくぼんだただの崖でした。最近は堂が復元されてます。
文治五年(1189)十月二四日 (吾妻鏡)
頼朝、鎌倉に帰還。
注 帰還に約1ヶ月かかってます。治安維持や土地の取り扱い等の指示をしてます。
奥州で反逆があり再び軍を派遣します。
文治五年(1189)十二月二十三日 (吾妻鏡)
平泉から反逆の動きあると伝令。義経とも木曽義仲の藤原秀衡の息子だとも名乗る。対策を協議。
文治五年(1189)十二月二十四日 (吾妻鏡)
鎌倉から軍を派遣。(第一陣)
文治六年(1190)正月六日 (吾妻鏡)
奥州の反逆者は藤原泰衡の家来大河次郎兼任との伝令。
文治六年(1190)正月八日 (吾妻鏡)
軍を二手に分けて派遣
東海道(常磐線)の大將軍は、千葉介常胤。
東北中通り(東北本線)は比企四郎能員。
文治六年(1190)三月十日 (吾妻鏡)
反逆者大河次郎兼任はきこりに惨殺される。千葉太郎胤正(常胤の敵子)等が鎌倉に伝える。
注 吾妻鏡には千葉介常胤の動静はありませんが、千葉太郎胤正は出てきます。常胤73才なので子供らに任せていたのでしょう。
頼朝が挙兵(1180)から千葉介常胤の戦いは10年間、これで終わりです。
千葉氏と鎌倉幕府樹立 第三部 終わりです。
千葉氏と鎌倉幕府樹立 第一部
千葉氏と鎌倉幕府樹立 第二部
千葉氏と鎌倉幕府樹立 第四部