千葉氏と鎌倉幕府樹立 第四部

「千葉氏と鎌倉幕府樹立 第一部」
「千葉氏と鎌倉幕府樹立 第二部」
「千葉氏と鎌倉幕府樹立 第三部」
に続き第四部です。

本記事(投稿)は随時訂正・加筆します。


鎌倉幕府樹立そして頼朝、千葉常胤の死です。

吾妻鏡は下記から引用させて頂きました。
  有名な古文書ですが、必ずも信頼出来ない部分があるとされてます。
  吾妻鏡入門が現代語約もあり便利です。


頼朝は上洛の準備を進めます。行列の態勢をどうするか思案します。

建久元年(1190)十月三日(吾妻鏡)
上洛のため鎌倉を出発。千葉常胤は後陣を務める。常胤の子の千葉胤頼も同行。

               常胤
 ┏━━━┳━┳━━┳
日胤 胤頼 胤道 胤信 師常 胤正
(僧)             (嫡子)

建久元年(1190)十一月七日(吾妻鏡)
頼朝一行は入京します。
注 ここの記述では千葉常胤の嫡子胤政や千葉一族の名前もあります。

建久元年(1190)十二月十四日(吾妻鏡)
鎌倉へ帰還ため京を出発。
注 京都には一ヶ月強いたことになります。この間、頼朝は任官され、その後辞退と色々あります。

建久元年(1190)十二月二十九日(吾妻鏡)
鎌倉へ帰還。
注 行きは、約一ヶ月、帰りは2週間です。帰りは野宿したりで急いだ?。鎌倉ー京都間は何日か興味ありました。大行列(1000人?)でも2週間位です。江戸時代には江戸ー京都間(約480km)を大名行列でも2週間位と言われてます。ちなみに、編集者は東京ー京都間18日でした。鎌倉時代と江戸時代の街道がどうなってたかは興味があります。


建久二年(1191)正月一日 (吾妻鏡)
千葉介常胤が正月の垸飯(他人を饗応)を献ずる。
注 正月の垸飯は献上者が変わりながら五日まであります。千葉介常胤が最初です。

建久二年(1191)八月一日(吾妻鏡)
大庭平太景能が新造の御亭(御所)で祝宴を催す。千葉介常胤も同席。
注 三月四日の火災で御所や八幡宮等が失なわれてます。

建久二年(1191)八月十八日(吾妻鏡)
千葉介常胤等が馬を献上。

建久三年(1192)七月四日 (吾妻鏡)
政子の産所の準備を千葉介常胤ら指示。

建久三年(1192)七月二十六日(吾妻鏡)
頼朝に征夷大将軍に任ずるとの勅使がくる。日付は七月十二日。
注 頼朝は1194年10月10日に征夷大将軍を辞任したとの話があります。「吾妻鏡」にはその記述はありません。出典が見つかったら紹介します。

建久三年(1192)七月二十八日(吾妻鏡) 
勅使への垸飯(他人を饗応)や贈り物を千葉介常胤らに用意させる。

建久三年(1192)八月五日(吾妻鏡)
征夷大将軍に任命されたので所政(=幕府公文書館?)の人事を改めて行う。
頼朝の花押が入った文書を千葉介常胤が得る。
注 幕府から家臣に下される行政文書には役人の名前で出されていたようです。それに対して常胤は来将来もめたら困るので頼朝の花押が入った文書が欲しいとした。土地を貰ったら特にそうでしょう。

建久三年(1192)八月九日(吾妻鏡)
実朝誕生。千葉介常胤らが馬や剣を献上。
注 実朝は三代将軍で暗殺され、鎌倉幕府は北条の執権時代に移ります。

建久三年(1192)八月十二日(吾妻鏡)
実朝の四夜の儀を千葉介常胤が行う。

建久三年(1192)十二月五日(吾妻鏡)
頼朝が実朝の千葉介常胤らに将来を託する。

建久四年(1193)正月一日(吾妻鏡)
頼朝一行が鶴岳八幡宮に参拝。千葉介常胤垸飯(他人を饗応)を行う。

吾妻鏡には約1年間千葉介常胤の名前はでてきません。嫡子胤正や孫の成胤は出てきます。常は高齢 (76才)であるので子や孫にまかせていたのでしょう。

建久五年(1194)二月二日(吾妻鏡)
幕府が主催して北條時政の嫡男〔童名は金剛。年は十三〕が元服。千葉介常胤らが同席。
注 金剛は成人名、頼時でさらに泰時になる。頼朝の一字を貰ったのに泰になったのはどうしてかと疑問を呈してます。

建久五年(1194)六月二十八日(吾妻鏡)
東大寺の修理の修理にあたり、戒壇院の所は千葉介常胤らにさせる。

建久六年(1195)正月二日(吾妻鏡)
千葉介常胤が、正月の垸飯(他人を饗応)。

建久六年(1195)十二月十二日(吾妻鏡) 
千葉介常胤が、褒賞要望書を出す。
「戦場で数々の戦いをした。多数の子孫のため美濃国蜂屋庄を欲しい」

頼朝の返事「その土地は朝廷の物になってるので他の土地を用意する。」

千葉介常胤「その土地をなくても恨みに思わない」
注 吾妻鏡では頼朝と常胤の最後の接触。


吾妻鏡は三年間空白になってます。
建久七年(1196) 欠落
建久八年(1197) 欠落
建久九年(1198) 欠落

建久十年(1199)正月一三日
頼朝没する。

吾妻鏡の三年間の欠落や、頼朝の死因は古来から言われてようです。
死んだ日、建久十年(1199)正月一三日は複数の文献から問題はないようです。死因は荒唐無稽説を含めて数々あります。例によって源頼朝『ウィキペディア(Wikipedia)』の「死因」に良く纏めてあると思います。参考にして下さい。

頼朝の死が千葉介常胤にとってどれだけの衝撃であったか知るよしもありません。

建久十年(1199)二月六日(吾妻鏡)
頼朝の長男頼家が征夷大将軍に任ざれる。
注 任官の儀式を内輪で行いますが、千葉介常胤の名は入ってません。頼朝が存命ならこの任官はありえない。

建久十年(1199)三月二日(吾妻鏡)
頼朝の四十九日の法事。
注 頼朝の死がはっきりします。

建久十年(1199)四月十二日(吾妻鏡)
諸人の争いごとを将軍(頼家)の独断できめるのでなく13人の合議制にした。
北條時政・義時・大江広元・三善善信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政
注 これに千葉氏一族が入ってません。
 13名の詳細は十三人の合議制にあります。ここには13人全員の合議をした例がなく、数名の評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す政治制度であり、頼家の権力を補完する機能を果たしていたとする見解もある。」としてます。

                考察
       千葉一族が13人の中になぜいないのか? (編集者の見解)

筆頭御家人(家臣)である、千葉介常胤は入っていて当然です。常胤は高齢(82才)であった。それなら、嫡子の胤正でもよいはずです。元々、常胤は頼朝挙兵時以外では頼朝に意見を言うことはないようです。言わばイエスマンで頼朝にとっては「安全牌」で謀反の心配はと考えられます。胤正も同様と考えられます。そこで、13人に入ることを辞退した?

一方、頼朝の死によって、源氏から政権を奪取しようとした北条氏は、筆頭御家人の常胤は目障りです。北条では時政・義時2名が入っています。いわば、排除(権力闘争・陰謀)の結果とも考えられます。
征夷大将軍でないと幕府は開けないと言われてます。「幕府」の概念は江戸時代といわれてます。要は肩書きどうでもよく「覇権」を握れば天下人です。朝廷も「覇権」を握った人物には逆らえません。北条が征夷大将軍になれなくても何の不都合はありません。
第二代将軍頼家は伊豆で暗殺されます。第三代実頼も鶴岡八幡宮で暗殺され源氏は途絶え北条の政権奪取は完成します。
吾妻鏡は鎌倉時代の末期に編纂されたもので、北条について都合の悪いことは改竄や削除されているのは「常識」です。

多分、排除されたのでしょう。歴史家の見解はいかに。
「ドシロート」の考察でした。


正治元年(1199)九月十七日 (吾妻鏡)
大番役(京都の警備)をしない者がいると、大江広元と梶原平三景時が担当し、國司に文書を出した。


とあります。
2022年大河ドラマのタイトルは「鎌倉殿の13人」です。

正治元年(1199)十月二十八日 (吾妻鏡) 
梶原平三景時を批判のため千葉介常胤ら六八名が集結し連判状を作成。
注 正治元年(1199)十一月十二日(吾妻鏡)
  連判状は頼家から梶原に渡す。
  正治元年(1199)十一月十三日(吾妻鏡)
  梶原は弁解せず。相摸国一宮の寒川神社に引き下がる。


正治二年(1200)正月二日。
千葉介常胤が、正月の垸飯(他人を饗応)。(将軍は頼家)

建仁元年(1201)三月二十四日(吾妻鏡)
千葉介常胤 没する(84歳)従五位下行
元永元年(1118年)五月二十四日生 
注 従五位下は貴族にになるようです。又、地方官にあっては国司鎮守府将軍になるようです。

千葉介常胤によって千葉氏は現千葉県を始め全国に領地を獲得します。頼朝の挙兵に加担する
前は下総(千葉県北部)さえも領地争いで支配地の保全に苦労しました。
千葉介常胤死後は。嫡子胤正や孫の成胤に引き継ぎますが、北条執権時代にどうなったかは今後
の課題となります。

千葉氏と鎌倉幕府樹立 第四部 終わりです。